「馬・車輪・言語」 ディビット・W・アンソニー 2018年 筑摩書房

 欧州文明の考古学を語る上で必読の書だそうです。「車輪」の日本列島への伝来について考古学上の知見を問うたら、女房が貸してくれた本です(女房は忙しくて、ほんの一部を読んだだけなのだそうです)。考古学の専門書だし、分厚い上下二巻の本ですが、頑張って読むことにしました。

 草原の遊牧民が武人(⇒貴族)となり支配層を形成し、農耕民はその庇護者となった。戦争で破れた民は奴隷となった。階級の起源が、乗馬と車輪の技能によって生み出されたことが理解できました。ですが、遊牧民と農耕民の違いはどこから来たのか?については不明なままでした。また、車輪が日本列島にどのようにもたらされたかは触れられてもいません。そこは、残念でした。

 以下はこの本の要約と引用です。


言語と考古学

《1. 母言語がもたらす期待と政治》

 この同じ母言語から枝分かれした全ての言語はインド-ヨーロッパ語族に属している。それは、ウェールズ人のサー・ウィリアム・ジョーンズが最初に発見した。欧印諸語を話す人々は3億人いて、語族の中で最も多い。

 欧印祖語の原郷は、今日のウクライナとロシアの南部に相当する黒海とカスピ海の北のステップにあったと考える。帯状に続くステップは、西は東欧から東は中国の万里の長城まで延びる乾燥した回廊だ。

 草原を開放した鍵は馬である。馬に乗って羊や牛を牧畜した人々は、やがて車輪を手に入れた。荷物も運ぶことができるようになった。中国と欧州は結ばれ、ユーラシアの発展の力学を変えた。それが印欧語派の最初の拡大を導いた。

 サンスクリット語とペルシャ語の最古の聖典、「リグ・ヴェーダ」と「アヴェスター」の著者たちが、アーリア人を自称していた。

 アメリカでは、白人至上主義の団体がアーリア人を自称している。歴史上、アーリア人は、「リグ・ヴェーダ」と「アヴェスター」の作者、つまり、イランとアフガニスタンとインド大陸北部に青銅器時代に住んでいたとした部族である。人種の優劣を競う幻想とは無縁の人々だ。間違いは、人種と言語を同一視したことだ。言語と遺伝子が相関するのは例外である。

 考古学と言語学の証拠には、一致点が確立されてこなかった。コーンズが見出した欧印諸語の類似性には、多くの言語学者が同意する。考古学者は、欧印祖語の古さについて同意に達していない。

 移住は言語の変化における重要なベクトルだ。むろん、それが唯一の原因ではない。

 記録が残る最古の欧印語、ヒッタイト語、ミケーネ・ギリシャ語、サンスクリット語の最古の形態=古インド語は、軍事的社会で使われていた。俊馬に引かせた二輪戦車を操縦して、古代世界に突如として現れた社会である。二輪戦車は欧印語の話し手たちが発明したのだろう。二輪戦車は、ギリシャから中国まで、古代世界の王たちが好んだ武器だった。宮殿の軍備品の目録に数百台が記載されている。アーリア人、ギリシャ人、ヒッタイト人など、l欧印語の話し手たちの祭祀の中で、武力と権力の象徴として馬が中心的な役割を担った。

 馬の背にまたがる騎乗は、二輪戦車が発明される遥か以前にステップで始まったと考えられる。二輪戦車の方が騎兵よりも先に出現したとしても。

 アーリア人の文化は、近隣の民に比べて優れていたわけではない。むしろ劣っていた。経済も技術も、社会組織も、西方や南方に住む民のものより単純であった。

 欧印語は行動について語るとき、時制と数に注意を払う。その動作が過去のことなのか、未来のことなのか明確にしなければならない。その主体となるものが単数か複数かも述べなければならない。

《2. 死語をどう再構築するか》

 言語学者は、欧印祖語の語彙を復元した。印欧祖語は、4500年前には廃れている。この言語を話していた人々は文字を持たなかった。

 アイスランド語は、1000年以上変わらなかった話し言葉である。孤島で話され、自分たちの古い物語に対して宗教的な畏敬の念をいだいてきた。

 言葉は大勢の人々が好むアクセントや語句の方向へと流れる。好まれるアクセントが確定すると、話し方がその方向に変化する仕組みは、規則によって支配される。この同じ規則が、私たち全ての頭の中に存在する。その規則を後戻りさせれば、印欧祖語も再構築できる。人間の言語は、規則で定められているのだ。規則が文の統語法や、単語の音と音の関係、その意味を左右する。

 音声変化の方向は、二つの制約によって支配される。一般的な制約と、個別の言語集団に固有のもの。言語学者は、音声異型の新旧について、信頼性のある結論に達することができる。

 母単語の復元は、比較作業の副産物であり、すべての娘単語の全ての音が親にあった音から派生しうることの証拠なのだ。

 再現された印欧祖語の単語に意味を当てはめることができる。印欧祖語の話し手たちの物質文化や生態環境、社会関係、信仰に関する証拠を見出すことができる。

 印欧祖語の言葉の意味は、娘言語の間の共通性から推定できる。例えば「車輪」の娘の単語は、「車輪」「円」「ワゴン/乗り物」の意味を持っている。語根は「回る」を意味する動詞だったりする。

 言語の統語と形態。欧印祖語の文法は同じ痕跡、名詞の格変化と動詞の時制のように、を持っている。

《3. 欧印祖語の最後の話し手》

 言語の一部は急速に変わるし、別の部分は変わるまいとする。モリス・スワデシュは、最も安定した語彙から選んだ標準リスト(基礎語彙)を作った。身体の分野や少ない数、親族名称、基本の欲求、基本の自然物、動植物、代名詞、接続詞。スワデシュは、基本語の置換率を分岐が起こった年代を確定する時計として利用した。印欧齟齬が最初に分岐した時代は、紀元前3千年と推定された。

 文字に書かれた最初の欧印語は、アナトリア語派のものだ。アナトリア祖語には、ヒッタイト語、ルウィ語、パラ語という三つの幹がある。文字記録からは、アナトリア半島にヒッタイト語の話し手が紀元前1900年には既にいたことが判る。パラ語やヒッタイト語にハッティ語の地名からの借用があることから、ハッティ語は、以前からこの地で使われていたようだ。前アナトリア語は、印欧祖語からではなく、インド・ヒッタイト語から派生した可能性もある。

 ギリシャ語はミケーネやピュロスなどの要塞を支配した人々の言語。ミケーネ文明は前1650年ごろ墓を建築して歴史に登場した。この墓には、剣、槍、二輪戦車に乗る男たちん絵図があった。富を蓄えたギリシャ語を話す王がいたことを示している。それは叙事詩となり「イーリアス」と「オデュッセイア」で讃えられた。ギリシャ語を話す人々がいつギリシャに姿を現したか分からないが。

 古インド語、つまり「リグ・ヴェーダ」の言語は、前1500年ごろに銘文となった。「リグ・ヴェーダ」はインド北西部のパンジャーブとパキスタンで編纂された。「リグ・ヴェーダ」の神々や道徳概念が最初に登場したのはシリア北部である。当時、シリア北部とトルコ東部の大半では、フルリ語が土地の人々の主要言語だった。フルリ語はハッティ語と同様にアナトリア高原の土着の言語で、カフカース語と関係があった。しかし、ミタンニの王は初代から最後の王まで、王座に就く前はフルリ語の名前であっても、即位後は古インド語だった。ミタンニの軍人貴族は、二輪戦車で戦う戦士で構成されていた。
ミタンニ王国は、古インド語を話す傭兵によって創設されたと考えられる。

 ミケーネ・ギリシャ語はギリシャ語派で記録された最古の言語だ。これは孤立した言語だった。

 古インド語には、アヴェスター・イラン語という姉妹言語がある。アヴェスター語は、イラン諸語の最も古い形である。アヴェスター・イラン語は、ゾロアスター教の聖典「アヴェスター」の言語だった。ザラシュトラはイラン東部に住んでいた宗教改革者で前1100年頃の人だろう。「アヴェスター」と「リグ・ヴェーダ」は言語の上でも思想の面でも関連し合っている。

 前インド・イラン語は印欧祖語の東部の一方言で、2500年前には存在していた。前2500年頃には、印欧祖語は分岐していった。

 ケルト諸語は、今日ではイギリス諸島と近くのフランス沿岸部に限られているが、前900年頃にはオーストリアからスペインまで、ヨーロッパ中部と西部の大半で話されていた。

 前イタリック語と前ケルト語が離脱したのに対して、インド¥イラン語、バルト語、スラブ語、アルメニア語の祖先は後に残った。トカラ語は、タリム盆地にあった商隊都市で話されていた。

 ギリシャ語とインド・イラン諸語と、少なくとも三神については共通の同根語が使われていた。馬の女神は、創造神とギリシャでは翼のある馬の母から生まれ、インド・イランでは馬として描からることが多い双神から誕生した。ケルベロス/サンヴァラは冥界の入口を守る多頭の犬で、バーン/プーシャンは群れを守る牧畜の神である。

《4. 羊毛、車輪、印欧祖語》

 毛織物と車輪に関する言葉は、前4000年頃には存在しなかった。印欧祖語の話し手は、車輪のつきの乗物と絨毛でできた布(フェルト)について語っている。

 毛織物は、野生の羊には生えない長い繊維から作られる。羊の野生種が、前8000年頃にアナトリア半島の東部とイラン西部で家畜化されたが、4000年の間に利用されたのは肉だけだった。羊毛は不自然に長い羊毛繊維からのみ作ることができた。巻毛羊は、前4000年頃に登場した。毛織物の現物が確実に年代測定されているのは、前3500年以降のことだ。

 都市文明が誕生した南部メソポタミアと西部イランでは、毛織物は都市経済の重要な一部をなしていた。羊毛はリネンよりも染料をよく吸収したので、毛織物は色彩豊かになった。

 ヨーロッパへは、家畜化された近東の羊が、前6500年頃にアナトリア半島から移住した農民によって持ち込まれた。

 印欧祖語に車輪付き乗物ー四輪のワゴン、二輪のカートーを表す単語がある。車輪付き乗物は前4000何前までは発明されなかった。欧印祖語には、車輪と轅(ながえ:輓獣につなぐ棒)と乗物に関連した言葉があった。

 二輪の方が四輪よりも引きずりトルクが少ない。カートの方が軽く引っ張るのも楽だ。それでも大量の荷物はワゴンで運ぶ必要があった。

 ワゴンはステップの開けた草原では別の意味で役に立った。経済が農耕よりも牧畜に依存していた場所だ。ワゴンで、テントや水、食料などを運べるようになった。牧畜民はテントと水と食料を持って、川の流域から離れた牧草地まで出かけられるようになった。

《5. 印欧祖語の原郷の場所》

 印欧人の源郷は、インド・パキスタン・ヒマラヤ山脈・アルタイ山脈・カザフスタン・ロシア・ウクライナ・バルカン半島、トルコ・アルメニア・北カフカース・シリア・レバノン・ドイツ・北極そしてアトランティスにあるとされてきた。これには国粋主義者や人種差別主義の主張も含まれる。

 今日のウクライナとロシア南部に相当する黒海とカスピ海の北にある草原が印欧人の源郷である。

 印欧祖語の話し手は農耕民であり畜産民だった。牛・羊・豚を表す言葉を再建することができる。乳製品に関する用語も多数ある。羊毛の刈り方も知っていたし、布も織っていた。彼らは、土地を耕す人であり、あるいは耕す人々を知っており、牛を使って耕す技術を持っていた。穀物を挽いて鍋で調理していた。

 彼らは一族または複数の家族からなる氏族を形成し、氏族の指導者=首長が率いていた。男性中心の社会で、まだ都市は無かった。

 原印欧人の役割は、ジョルジュ・デュメジルによる3機能、祭司・戦士・畜産者/農耕者を区分した。それは、東アフリカのマサイ族のように、少年=牧童、青年・壮年=戦士、長老=祭司のようなものだろう。印欧祖語の話し手は、前6000年以降、ヨーロッパの大半とアナトリア半島、カフカース山脈の各地に存在した。

 ウラル諸語には、印欧諸語と早い時代から接触していた痕跡がある。どれは、印欧祖語の原郷がウラル山脈の近くにあったことを示唆する。

 印欧祖語の話し手は、牛と羊を飼い、蜂蜜を集め、ワゴンを操縦して毛織物やフェルト布を作り、ときおりは畑を耕していたか耕す人を知っていた。羊や牛や馬を生贄にし、神々からの恩寵を受けることを期待していた。格差が制度化され、その他の人々を保護する権利主張する、典型的な首長制社会だ。

 印欧祖語の原郷は、ウラルとカフカースの両山脈の間で、ウクライナ東部とロシアのステップにあり、ウラル山脈以西にあった考えられる。

《6. 言語の考古学》

 歴史家や社会学者は、フランス革命によって国民国家の時代が到来するまで、ヨーロッパには安定した明確な民族言語学的な境界は存在しなかったとしている。

 近代以前に存続している境界地帯は、大規模な移行帯(森林・草原・砂漠・山・川・海)と、長距離移動してきた人々が移住をやめた文化的境界地帯のいづれかである。言語の境界地帯は、生態系の境界地帯や地理上の障壁と必ずしも一致しない。

 どんな移住も、目的地の魅力とそれをもたらす通信網、交通費の影響を受ける。人口過剰に対する反応とは異なり、移住は地位や富を改善させる意識的な社会戦略であることが多い。

 最初の入植者のアイデンティティは創設集団と呼ばれ、帰還移住(大半の移住には祖国への逆流)もある。創設集団は最良の土地を手に入れる。創設集団は、後の世代に対して歴史・文花上の支配権を行使する。創設集団によって文化は簡略化され平準化される。

 印欧諸語を話す人々は、現地民のなかから被保護者を見つけ、その保護者となったのだろう。牛車と騎馬による移動する牧畜経済の新たな首長制度は、支配権を拡大していった。部族間の抗争が続くと、定住性の経済よりも牧畜経済の方が有利かも知れない。

 前5000年頃、ドニエプル川沿いに住む少数の採集民が牧畜経済を採用すると、ポントス・カスピ海に広まり、東はボルガ川やウラル川にまで拡大した。ポントス・カスピ海ステップ一帯に、新しい経済と祭祀・政治制度を広めた。この方言が印欧祖語の祖先だった。

ユーラシア・ステップの開放

《7. 死滅した文化を再構築する方法》

 地質学の層序的手法を使って掘る。遺物の様式の変化から時代の前後を見極めて順序立てる手法=編年が発見された。 文化的アイデンティティは、しばしば捏造される。

 ヨーロッパの最古の青銅器時代は、紀元前3700ごろに始まった。ポントス・カスピ海ステップ=印欧祖語の原郷とされる地域でのことだ。

 土器は考古学者にとって都合の良い「示準化石」であり、発掘現場で容易に見分けられる。しかし、欧米の考古学では食糧生産がに基づく経済になっていることを以て新石器時代を定義する。初期のステップの墓地で見つかった遺骨の窒素15を測定すると、魚が食料の50%ほどになることが分かった。

 牛も羊も、たぶんドナウ川流域から持ち込まれたのだろう。ドナウ川流域の人々は、アナトリア西部を発祥の地とし、非欧印語を話していた。<8章>

 全5200年頃以降@ポントス・カスピ海ステップに広がった牧畜経済は、武力外交と儀礼の基礎を築くものとなった。社会に生じた身分間の溝と家畜は同時に出現した。彼らはステップ社会の新しい指導者となった。<9章>

 彼らは前4200年以前に馬の背に乗っていたと思われる。<10章> そしてヨーロッパに進出し古ヨーロッパを崩壊させる。<11章> 前3700年頃にメソポタミアの最古の都市文明とステップ社会との相互の影響。<12章>

 かれらは、一年を通して新しい牧草地へ定期的に移動しなければならなかった。牛の引かせたワゴンでステップの奥地にまで、水と食料とテントを運べるようになった。<13章>

 欧印祖語方言を話す社会が、東西方向へ拡大し、最期に南のイランとインド亜大陸に広がった。<14〜16章>

《8. 最初の農耕民と牧畜民》

 時の初めに双子の兄弟がいた。一人はマン、もう一人はツインという名だった。彼らは大きな牡牛を連れて、宇宙を旅した。最終的にマンとツインは、私たちが住むこの世界を創造することにした。そのためには、マンはツインを(あるいは牡牛を)犠牲にしなければならなかった。この犠牲者の遺骸から、空の神々(空の父、闘いの嵐神、聖なる双子)の助けを借りて、マンは風と太陽、月、海、陸、火そして最期に人間を作った。マンは最初の祭司になり、生贄の儀式の創始者となって、それが世界秩序の根源となった。
 世界が作られた後、空の神々は牛を「三人目の者」に与えた。しかし、牛は三つの頭で六つ目の蛇による裏切り行為で盗まれてしまった、三人目の人物は嵐神に、牛を取り戻すのを助けてくれと懇願した。彼らはともに怪物の洞窟に(もしくは山)に行って怪物を殺し、牛を解放した。三人目の者は最初の戦士になった。彼は人々の財産を取り戻し、祭司には贈った。生贄の火から立ち上る煙によって空の神々にも分け前が届くようにした。こうして、神々と人間との間で相互に与え合うやりとりが確実に続くようになった。
 この二つの神話は、印欧祖語を話した人々の信仰体系の基礎となった。ツインは古インド語ではヤマ、アヴェスター語ではイマ、古ノルド語ではユミル、おそらく古代ローマのレムス(双子を意味する古いイタリック語)としても登場する。マンの方は古インド語あるいはマヌあるいはゲルマン語のマンヌスとして登場し、双子の兄弟と共に世界を創生する。三人目の者は、古代インド、イラン、ヒッタイト、スカンディナビア、ローマ、ギリシャの神話に、三つの頭の怪物から原始の奪われた牛を取り返す英雄となる。マンとツインの神話は、生贄とそれを管理する祭司の役割の重要性を定めた。
 神話のテーマは繰り返し現れる。魔力と法権力を表した一対の神のテーマ(ツインとマン)古代インドなどのヴァルナとミトラ、古代スカンジナビアのオーディンとテュール、社会の身分とごとの分割と三つの重要な機能または役割間の秩序、祭司(魔法と法の両面)、戦士、そして牧畜民/農耕民(牡牛もしくは畜牛)である。

 紀元前5200年頃まで、黒海カスピ海の北のステップに住む人々の殆どは家畜を所有していなかった。ステップの野生馬は、足が太く、胴回りががっしりした、たてがみが逆立った動物で、現代のモウコノウマによく似ていただろう。モウコノウマは、世界に残っている唯一の野生馬である。

 ポントス・カスピ海ステップは、帯状に広がるステップの西の端にあり、東はモンゴルまで続いている。

 牛と羊は、穀物と異なり、簡単に盗めるので、泥棒に悩まされることが多く、それが紛争や戦争へと発展した。畜産は、生贄の儀式と、贈り物を可能にし、新たな権力を生み出した。家畜、兄弟、権力の関係は、印欧語を話す社会の中で新しい男性中心の祭祀や政治が発展する基盤となった。

 黒海・カスピ海地域に牛の牧畜民がドナウ川流域から最初にやってきたのは、前5800年頃のことで、彼らは印欧祖語とは異なる言語を話していた。この人々は、前6200年頃、ギリシャとマケドニアからの開拓者たちがバルカン半島とカルパティア盆地の温帯林へと北上して際に始まった移動の最先端にいた。家畜化された羊と牛は、それ以前にアナトリアからギリシャへ、彼らの祖先によって持ち込まれていた。

 クリシュ文化は、ドナウ川流域からやってきた。東カルパティアの丘陵地帯で、前5800年頃、最初のクリシュの農耕民が話していた言語は、テッサリアの最初の入植者が話していた言語とはかけ離れたものだった。アフロ・アジア語大語族は、エジプト語と近東のセム語の双方を派生させており、その初期の言語の一つが最初の農耕民によってアナトリア半島で話されていたのかも知れない。クリシュの民は、おそらくアフロ・アジア語を話していた。

 自分の家族に種畜を食べさせるぐらいなら、家族を植えさせる。道徳的にも倫理的にも徹底した人でなければ家畜は育てられない。種蒔き用の穀物と種畜は食べずに、残さねばならず、さもないと翌年には作物も子牛も期待できない。採集民は総じて、将来のために僅かな貯蓄をするよりも、その場で分かち合い、寛大に振舞うことに重きを置く。畜産は古くからの道徳に逆らうものだった。新たな指導者が収穫した食べ物を分ちあった。こうした祭祀と指導者の役割は、欧印の宗教と社会の基礎となった。

 ブーフ=ドニエストル文化は栽培品種化した穀物と家畜の豚と牛は手に入れたとはいえ、狩猟採集経済を維持し、独自の生き方を保ち続けた。境界地帯にいた採集民は、一部の栽培植物と家畜は受け入れたが、羊は拒んだ。狩猟と漁労によって、食料の大半は供給され続けた。牛の飼育と小麦の栽培は片手間に行われ、厳しい年の保健として用いられた。しかし、前5200年以降、ヨーロッパの農耕民は、人口密度と社会組織が限界に達した。東カルパティアの丘陵地の村落は、ドナウ川下流域の町から新しい習慣を採用し、ククテニ=トリポリエ文化が登場した。

《9. 牡牛、銅、首長》

 首長がポントス・カスピ海ステップの考古学上の記録に最初に登場したのは、紀元前5200年頃以降、家畜化された牛、羊、山羊が飼育されるようになってからだ。

 銅の装飾品は、ドナウ川流域からヴォルガ=ウラル地域まで、東方のステップ一帯で初期の家畜とともに取引された贈物や装身具の一部だった。ポントス・カスピ海ステップで銅が広域に頻繁に出現するようになったことが、金石併用時代の始まりを示す。

 ポントス・カスピ海ステップの社会は、早くも前4600年に古ヨーロッパの銅の交易網に引き込まれていた。

 前5200年頃、ブルガリアからルーマニア南部に点在していた農耕集落は、ますます堅固な造りの大きな農村へとお発展していた。

 土器と銅のため窯と溶鉱炉によって森林は使い尽くされ、またブルガリア北東部をはじめとする古ヨーロッパの集落を守るための杭を並べて柵や、二階建ての木造家屋も森をっ破壊した。ステップの河川水域にある拠水林は、温暖化と乾燥化が進んだために縮小し、草原が拡大した。

 ドニエプル=ドネツ兇亮匆颪和腓な墓地を建造し、女性肖像は作らず、屋内には窯や竈の代わりに、裸火を炊く炉があり、木の皮で覆った小屋に住み、町は無く、穀物を栽培することはあるが、まるで耕作をしないこともある。しかし、前5200年頃、ドニエプル急流域の周辺に暮らしていた採集民が牛と羊を飼い始めた。急流域の豊かな資源で暮らしていた彼らは、定住をするようになっていたようだ。定住すると女性はより多くの子供を産む。その後の2〜3百年間に、家畜の牛、羊、山羊はドニエプル川流域から東へ移動させられ、取引するようになり、ヴォルガ=ウラルのステップには前4700年頃に到着した。

 DD曲顕修量韻蓮以前の時代の民と比べて異なっていた。死者が大量の装身具を身に着けていたことと、その分配に偏りがある」ことだ。ドニエプル急流域の古い時代の漁労採集民は鹿か魚のビーズを数個身に着けて埋葬されていた。DD兇諒菽呂任蓮何人かの死者は数千個の貝殻ビーズ、銅や金の装身具、外来の水晶や斑岩の装身具、磨製石器の槌矛、鳥の骨で作った筒、板状に加工した猪の牙など一緒に埋葬されていた。マリウボリの墓地では、429枚の猪の牙板のうち、310枚は124人の被埋葬者のうち10人が身に着けていたものだった。

 農耕文化は近東からカフカ―ス地方の農耕民を通してもたらされたものだろうか?恒久的に氷河で覆われた北カフカ―ス山脈という険しい山脈がステップとの間に立ちはだかっていたからだ。

 ポントス・カスピ海ステップ一帯(DD供▲侫凜.螢鵐好、シエジジュ、ナリチク)で墓地は大型化した。より大きく安定した共同体の発達が推測される。

 遠隔地交易、贈物の交換、生贄の儀式と大宴会を必要とする信仰に参画することが、新しい社会権力基盤となった。

《10. 馬の家畜化と乗馬の起源》

 ポントス・カスピ海ステップで馬が家畜された可能性がある。

 馬は牛や羊に比べて、冬の間も餌を与えるのが容易だ。牛と羊は鼻で雪を押しやるが、馬は蹄を使う。寒い草原で家畜の牛と羊とともに暮らしていた人々は、肉を食べるために馬を飼うことの利点に気がついた。牛と馬の群れはどちらも先導する支配的な雌に従うため、牛の牧畜民であれば馬の扱いには向いていただろう。ポントス・カスピ海ステップでは、前4800年頃には馬を飼い始めたかも知れない。

 3ミリ以上のすり減り面のある最古のP2は、カザフスタン北部のポタイとテルセク文化からのものだ。カザフスタン北部では前3700年頃から馬はハミを付けられていたと推測される。乗馬の習慣はカザフスタン北部で始まったわけではないだろう。ポタイ=テルセクの人々は騎馬の採集民だった。

 人は徒歩でも、よい牧羊犬がいれば、200匹ほどの羊を集めることができる。馬に乗って良い牧羊犬がいれば500匹の群れを追うことができる。群れが大きければ広い牧草地が必要になり、部族間の紛争が起きただろう。同盟を組むために手の込んだ宴会や式典が開かれるようになり、贈物を得るための交易も盛んになった。

 騎馬の襲撃者の迅速性と行動範囲は、襲撃の戦術や同盟の形成、さらに定住パターンも変えただろう。多くの専門家は、戦争行為のために馬に騎乗するようになるのは前1500年頃以降としてきた。彼らは、騎馬の襲撃と、騎兵という鉄器時代に発明されたものを区別していない。

 スキタイ人は部族的であったのに、軍事行動に関しては都市国家の正規軍のように組織されていた。馬上で弓を射る騎射は、敵意時代以前には威力が無かった。青銅器時代の弓は長さが1メートル以上もあって馬上では使いにくい。矢も矢じりも標準化されておらず、石鏃は矢に差し込むようになっていた。東欧の部族が馬に乗って小集団で襲撃をしても、メソポタミアの城郭都市への脅威とはならなっかった、近東のっ東地中海の将軍たちは相手にされなかった。前1000年頃、短い複合弓(キューピッドの弓)が発明されると、こうして弓は騎乗者から貫通力をもって射られるようになった。こうして騎兵の一軍は、殺傷力をもって矢を空一面に放てるようになった。
 弓騎兵の一軍を組織するのは簡単なことでっはない。弓矢の技術も鋳造も、戦う者の意識とアイデンティティに、英雄から一兵士になるという、それに見合った変化が伴なわなければ無意味だった。国家間の戦争の戦術とイデオロギーは、将軍に従う無名の兵士の統制の取れた大部隊に依存するものだった。騎兵は二輪洗車を戦場から追いやった。

《11. 古ヨーロッパの終焉とステップの台頭》

 紀元前4300年頃には古ヨーロッパは最盛期にあった。ブルガリア東部のヴァルナ墓地では、近東を含めて世界で最も贅沢な葬送儀礼が営まれていた。

 バルカン半島の高原と肥沃なドナウ川流域にある町は、高い墳丘を形成した。墳丘の周囲には恒久の農地があり、土地保有の制度が確立したことを示している。

 前4200年頃、ビオラ振動と呼ばれる変動が始まる。日射は減り、アルプスでは氷河が前進し、冬の寒さが増した。

 前4200〜3900年の間に、グメルニツァ、ヴァルナの文化の600ヶ所以上の墳丘の集落が、ドナウ川の流域とブルガリア東部で焼かれ、放棄された。古ヨーロッパの終焉によって、前6200年にスタルチュヴォ=クリシュの開拓者のよって始まった伝統は断ち切られた。村には虐殺の痕跡があり、おそらくは暴力を伴う終だったろう。バルカン半島では、前3800年から前3300年の間に恒久の集落は存在しない。

 危機はヨーロッパ南東部全てに影響を及ぼしたのではない。子ヨーロッパの伝統は、ブルガリア西部とルーマニア西部では長く存続した。ククテニ=トリポリエ文化の古ヨーロッパはむしろ活気を帯びていた。これまで以上に大きな農耕民の町を築いた。

 ドナウ川下流域のクリシュ文化は、前4300年頃から後期クラテニA/トリポリエB1に相当する。集落を守るための防御設備 − 堀や土塁 − の建設が急増した。防御設備は気候が悪化したころに出現したかもしれない。トリポリエB1の町からは防御設備と武器が増加したのと同時に、ステップ文化との接触の証拠が見つかっている。

 トリポリエB1から出土する磨製石器の槌鉾は、頭をかち割る以外には用途がない。古ヨーロッパでは権力の象徴だったが、新しい武器である。ステップの土器と権力の象徴がククテニ=トリポリエの物質文化に登場していることは、何らかの社会的融合を匂わせるが、それは社会の浅い部分に限られていた。

 当時の農耕を営むヨーロッパとステップとの間の境界地帯には、軍隊化した遊牧生活は存在しなかった。

 ステップの民は、前3700年頃にはカザフスタンで馬に乗って馬を狩猟していた。彼らと農耕民の間に紛争はあったが、相利共生の関係もあった。

 原印欧の通過儀礼には、敵を襲撃することが必要条件として含まれていた。また、家畜の頭数で表された婚資の増額が、境界を越えた襲撃を必然とした。

 前4200年頃以降に、ドニエプル川流域から来たと思われる牧畜民が、ドナウ川の三角州の北端に姿を現した。住み着いていた古ヨロッパの農耕民はこの地を去った。移住者はクルガンの墓を築いた。彼らはクルガンの墓を築いて目印にしたのだろう。そうすることで紛争地帯での支配権を主張したと考えられる。ステップの民に移住は、移住民が話していた前アナトリア諸方言を、ステップの故郷の共同体で使われていた古体印欧祖語から分離させた出来事だったのだろう。

 前4200年頃を境に、内陸のステップでは冬が厳しくなった。ドナウ川三角州の湿地帯は、ヴォルガ川の西ではヨーロッパ最大の湿地帯だ。有史以来、黒海ステップでは遊牧民が、冬場も牧草が得られる低湿地を越冬地に選んできた。牧畜民はこうして南に移動したのかもしれない。

 ドナウ川三角州にあった30の集落は、移住者がやってきた直後に焼かれた。集落の放棄の一部は、家財道具が運び出されているので、計画的なものだった。

 前4200年頃から3800年頃にかけて気候が寒冷化したために、古ヨーロッパの農耕経済は衰退し、ステップの牧畜民がドナウ川河口周辺の低湿地と平原に押し入ってきた。ドナウ川下流域、バルカン半島、エーゲ海沿岸だけでなく、ギリシャでも、遺丘の集落に居住していた文化は前4000年頃に放棄されている。気候変動だけでなく、ユナツィッテとホトニツァの虐殺のような紛争も要因であった。

 古体印欧祖語は、アナトリア諸語の祖先であり、前4200年頃からの戦争と移転と移住の時代に、ヨーロッパの南東部へと拡大した。パキスタン西部のパターン人も土地を失った。

 農耕民は、牧畜を営む保護者に庇護され、労働奉仕と引き換えに保護と報酬を貰うことになった。戦争で遺丘を追われた住民は、牧畜経済を採用し、印欧祖語を話す保護者とその言語を受け入れたのかもしれない。

《12. ステップの境界に生じた変化の兆し》

 古ヨーロッパが崩壊した後、紀元前3800〜3300年頃までポントス・カスピ海ステップの多様な部族と地域文化は、ドナウ川流域以外への地域に関心を移した。そうした場所では社会経済的な変化が起こった。

交流と侵入

・ミハイロフカー文化

・ポスト・マリウポリ文化

・後期スレドニー・ストク文化

・ドン川下流=ヴォルガ・ステップのレーピンと後期フヴァリンスク

・トリポリエの境界地帯における危機と変化

・ドニエプル川境界地帯でのスレドニー・ストクとの接触

都市よりも大きな町

 トリポリエC1の共同体には、フリント石器の加工、機織り、土器制作ために特化した工芸の中心地が出現した。農耕部族民の間で抗争が増えたことで、人口の集中が起こった。

メソポタミアとステップの関係

 前3700年から3500年にかけて、世界最初の都市がメソポタミアの灌漑された低地に出現した。後期ウルク期の時代に、都市との交易は増大した。貴石、金属、木材、原毛などが輸入品となっていた。牛の引く車輪付きの乗り物が登場した。交易と税金を記録する為に会計方法が開発された。荷物や倉庫の封印やトークンそして筆記が考案された。

 アナトリア東部の首長性社会は動の鉱脈を知っており、金属の道具と武器を生産していた。シュメールの都市からの使者が姿を見せ始めていた。イラン高原の交易拠点ができ、交易路は現在のタジキスタンにまで達していた。

ウルク以前の北カフカース

どこでいつであったのか?

・マイコープ文化の時代と発展

・南方の文明への道

大麻、馬、四輪荷車

・恒常的な文化の境界地帯を超えた交易

 マイコープの首長はステップから薬物(大麻)を求めていた。

変わりゆく世界の地域言語としての印欧祖語

 前四千年期の半ばには、ポントス・カスピ海ステップの騎馬部族は、外部から様々な影響を受けて、物質的にも言語的にも変化に富んでいた。

 ヤムヤナ・ホライズンは、印欧祖語の話し手の後期共同体を物質面から捉えた現象で、ドン=ヴォルガのステップに始まる東方の故郷から発達して、前3300年頃以降にポントス・カスピ海ステップ一帯に広まった。原欧印の制度と言語は、社会と経済が変化した時代に、多様性の見られたステップ社会を通して広まった。

《13. 四輪荷車の居住する人々》

移動生活と言語

 四輪荷車が巻毛羊のあいだで軋みながら草原を進む光景は、紀元前3300年頃から3100年頃にかけてステップの日常になった。気候は乾燥し涼しくなった。移動し続ける新しい牧畜が可能になった。移動型の牧畜を営むようになった氏族は、広い牧草地といくつかの拠点があれば、より大きな群れを飼えるようになった。境界をめぐる争いが続くなかで、新しい規則が必要になった。前3300〜2500年頃、ヤムナヤ広域文化が出現した。ヤムナヤ・ホライズンの広がりは、ポントス・カスピ海ステップ一帯の後期欧印祖語の普及が物質面で表れた結果である。高度な移動生活は、ワゴンを利用した大量輸送と、馬の乗る高速な移動が際立った特徴だった。主客の関係は、了承を得て自分の勢力圏を通過する人々と、歓迎されない-保護されない者を区別した。主客の制度は、ヤムナヤ・ホライズンとともに広まった仲間意識(アイデンティティ)を明確にした。

 前2800〜2600年頃、移動が穏やかになったのち、後期ヤムヤナの人々は東カルパティア山脈山麓にある、縄目文土器文化(戦斧文化)の墳丘を築いた民族と向かい合うことになった。ここから北部の印欧祖語(ゲルマン語、スラブ語、バルト語)が縄目文土器の東部集団の間で広がり始めた。中期青銅器時代の終わりの前2200〜2000年頃、移住の波が、ヴォルガ=ウラル中流域の後期ヤムヤナ/ポルタフカ文化から、東方の南部ウラル山脈周辺へと流れだしシンタシュタ文化を生み出した。この文化は、インド・イラン語の祖先となる言語を話す共同体を表していた。

東の境界地帯を超えて アルタイ山脈への移住

埋葬されるワゴン

なぜ東から広まったか?

 道具と葬送の様式など、ヤムヤナ=ホライゾンの最古の起源は欧印世界の東側、ヴォルガ=ドンのステップにあった。ポントス・カスピ海ステップ一帯では最も乾燥した地域だった。

・ドニエプル川の前期ヤムナヤ

牧畜と遊牧の有利・不利

・ヤムナヤの牧畜パターン

・ドン=ヴォルガのステップにおける野生の種子と乳製品

 乳製品の重要性は、原欧印の儀礼の中で牝牛が重要な位置を占めた理由説明するかもしれない。牛が神聖だったのは、ユーラシアのステップにいたどの家畜よりも、牝牛が多くくの乳を出したからだ。牝牛がいる限り一家は食べていけた。羊で財産を数える遊牧民にとっても、牝牛は究極の乳の生産者だった。

剣と斧と巨大な墓

 印欧祖語における親戚関係の語彙は、父系で、父方居住の社会に暮らす人々のものだった。権利や財産や責任が、父からのみ相続され、婚姻後は夫の家族と暮らした。

・クルガンの埋葬者の性別と意味

 ヴォルガ=ウラル地域の男性中心の葬儀は、ヤムナヤ・ホライズンの中でもより男性中心的であった。しかし、中央の墓に埋葬する基準は性別だけではなかった。女性がその位置を占めることもあった。スキタイ=サルマタイの「戦士の墓」の2割には、専用の装束をまとった女性が葬られていた。ギリシャ人はこうした現象から、アマゾネスの物語を思いついたのだろう。

・クルガンの埋葬地と移動力

 クルガンが急速に建造された。墓地はその後数世紀ほど放置されてからまた利用されていた。焼畑農業にも似た、この一時的な放牧パターンは、頻繁に移動せざるを得ない生産性の低い環境のためだろう。

・原印欧語の首長たち

・金細工職人の素性

海上交通の革新

 ヤムヤナ=ホライゾンはポントス・カスピ海ステップで主として発達した。この同時代に。海上交通でも多数のオールで漕ぐ長艇という技術革新が起こった。一方は海原、もう一方は草原に広がったホライゾンは、黒海沿岸一帯で接触すようになった。
ヤムナヤ・ホライズンはポントス・カスピ海ステップを超えて広がり、東地中海を超えて広がった。

《14. 西方の印欧諸語》

騎乗者の役割

 ヨーロッパの様々な前印欧諸語が見捨てられたのは、その社会集団の中で軽視されるようになった人々に結びついていたからだ。この時代の初めに、印欧の言語はポントス・カスピ海ステップ出身の牧畜社会で話されていた。彼らの地位を向上させるには以下のような要因が重要だったろう。

 ポントス・カスピ海ステップの社会は、馬の騎乗と飼育に慣れていた。それによって大きな群れを扱い、移動させることができた。原印欧の制度には、誓約によって結ばれた口頭契約の神聖さに対する信念があり、保護者(または神々)は忠誠と奉仕を受け取る代わりに比護者(または人間)を守る義務を負う。「リグ・ヴェーダ」で馬を生贄に捧げる祈祷者は言ったが、これは人間と神々を縛る契約を明言したものだ。同様に、弱者に対する有力者の行動を規制する制度でもあった。保護者-被護者の制度ならば、権利と保護を享受する被護者として外部者を取り込むことができた。不平等を正当化するこの方法はステップの社会制度の古い部分で、家畜によって富の格差が生じた当初にまで遡るものだ。

 富と軍事力、その基盤となる牧畜制度が、前3300年以降の印欧祖語の様々な方言と関連したアイデンティティに名声と権力をもたらしただろう。客人-主人の制度から、誓約に縛られた義務としての保護は新たな社会集団にも拡大された。印欧祖語を話す保護者は相手が外部者であっても、犠牲を捧げる限り被護者として受け入れ、」社会に統合することができた。公衆のための大宴会で披露される賛歌詩は、その賛歌の言語を正当なものとした。

移住の痕跡と言語の分離

 後期欧印祖語の方言は拡大し、ポントス・カスピ海ステップの原郷からヨーロッパ東部と中部へと拡大し、前イタリック語、前ケルト語、前ゲルマン語への分離は前3300年頃から2500年頃の間に生じたと思われる。

・最古の西部欧印語派の起源

・ククテニ=トリポリエ文化の終焉

ステップの権力者

 ウサトヴォ文化は3300年〜3200年頃にドニエストル河口周辺のステップに出現した。北西に進めばポーランド南部に到達する回廊地帯だ。

・ウサトヴォと高地トリポリエの町の文化的統合

・ウサトヴォの首長と遠隔地交易

・保護者と被護者 ウサトヴォの戦士首長の墓

・英語の祖先 ウサトヴォ方言の起源と伝播

 ウサトヴォ文化はステップ文化であり、ステップの境界近くで多くのトリポリエの町が崩壊したのち、ステップ一帯にヤムナヤ・ホライゾンが急速に拡大したのと同時に出現したものだった。

ドナウ川流域を遡る

 当初、ポントス・カスピ海ステップ一帯にヤムナヤ=ホライズンが広がった前3100年頃、そしてウサトヴォ文化にはまだその前期の様相にあった時代に、ヤムナヤの牧畜民はステップの中を移動し始め、ウサトヴォを超えてドナウ川下流域に侵入した。300年にわたって民族の流れは続いた。ウサトヴォの首長制社会の勢力圏は、客人と主人の関係を築くことでうまく通過できたのだろう。移住者はドナウ川流域へと進みつつけ、その一部はハンガリー東部まで行き着いた。驚くべき距離だ。馬の交易など他の用事で出かけながら情報を集めたに違いない。

 コフォフェニ文化のお勢力圏を超えて西方へ進んだヤムナヤの移住者は、鉄門周辺の山岳地帯を超える道を見つけた。

・言語の交替とヤムナヤの移住

 ヤムナヤの移住は、ヨーロッパの南東部一帯で流動性が高まった時代に発生した。バルカン半島の高地平原で1000年近く放棄されたのちに、前3300〜3200年頃に再び人が住みようになっている。テルの集落は頑丈な石壁か、堀または杭を並べた柵で防備を固めていた。
 契約の中で首長は村人に保護を与え、彼らが農作物を作る権利を認め、村人はそれと引き換えに忠誠を誓い、奉仕し、最高の土地を譲った。牧畜集団は多くの土地を必要としていた。農耕民は少なくなった土地で、穀物の生産を増やした。

二つの文化の接地と交流 ゲルマン語派の起源

 定住地を持たない縄目文土器ホライズンは前3000年以降、ウクライナからベルギーまで北ヨーロッパの大半に広がった。ヤムナヤと縄目文の双方の広域文化は、前2800〜2600年頃にドニエストル川上流の山麓=ウクライナの広陵地で、互いに接していた。

ギリシャ語の起源

 ギリシャ語は、アナトリア語派の分離以降で、ステップを起源としない唯一の主要語派である。ギリシャ語には、アルメニア語とフリュギア語と共通する特徴がある。この二つの言語は、前1200年以前にヨーロッパ南東部で話されていた言葉から派生している。これらの言語は、ブルガリアへのヤムナヤ移住者の言語から発達した可能性がある。

西方の初期印欧諸語の消滅

 ヨーロッパには印欧人による(組織的な)侵略はなかった。地元民との契約をし、移住を続けた。

《15. 北部ステップの二輪戦車の戦士》

世界最古の二輪戦車

 シンタシュタは直径140メートルの要塞化された円形の町で、周囲は土塁と木製の門塔で囲まれていた。土塁の周囲は堀が巡らされていた。

 シンタシュタで行われた供儀の細部は「リグ・ヴェーダ」で描かれた葬送儀礼の供儀と驚くほど似通っていた。産業規模の鉱業と冶金が始まり、防御設備は攻撃能力が高くそして大きくなったことを示している。黒海・カスピ海のクルガンの埋葬儀礼や、車葬墓、ウラル川の東のステップ武器形式は、ウラル川の境界地帯がついに消滅したことを示していた。

森林境界地帯の消滅 森林の「縄目文」牧畜民

 シンタシュタ文化の起源はずっと西の方だ。ドニエストル川とドニエプル川の間のトニポリエ地域で、前2800〜2600年に縄目文土器ホライズンと球状アンフォラ文化とヤムナヤの人々が交流した結果、なだらかに起伏する丘陵地と森林ステップ地帯の河川流域にまたがって地域文化が入り組んだ。後期トリポリエの複雑な混成集団が、キエフ周辺の森林ステップ地域でドニエプル流域文化を生み出した。

・ドニエプル中流文化とファティヤノヴォ文化

 ドニエプル中流文化の人々は、牧畜経済をドニエプル川とデスナ川を遡って、現在のベラルーシの森林地帯へ持ち込んだ。

 ドニエプル中流とファティヤノヴォの両文化の人々の移住は、ラトヴィア語とリトアニア語関連した、バルト語方言の地域と重なっているバルト諸語は、今日よりもはるかに広い地域で話されていた。

 ファティヤノヴォの集団はヴォルガ川を下って東に進むにつれて、西ウラルの山麓で銅鉱石を発見した。そして、クマ川下流周辺に、長期にわたって集落を築いた。ファティヤノヴォの冶金産業の中心地になり、バラノヴォ文化と呼ばれている。

・アバシェヴォ文化

移住民・牧畜民・交易者

・シンタシュタの祖先

・中央アジアと森林地帯にいた狩猟民と交易者

 ウラル=トボルのステップの北で、ウラル山脈東麓の森林地帯に暮らしていた採集民は、前期シンタシュタ文化に影響を与えなかった。自然環境の豊かな川岸の定住地帯に住んでいた。

気候変動と技術革新

前2500年頃以降、ユーラシアのステップは冷涼で乾燥した機構の影響を受け、前2000年頃にはひときわ乾燥化した。森林は後退し、草原が拡大、低湿地は干上がっていった。ウラル南西は、前2100年頃、牧畜民が入り込り入り交じりながら、トポル川とウラル側の流域に挟まれた環濠集落に定住し始めた。牛のための冬の湿地帯を失う危険が、定住を促す誘因となった。シンタシュタの集落は守りは固めてあったが、低い湿地にあった。

 シンタシュタ式の防壁で囲んだ定住地が、前2100〜1800年の間にウラル=トポルのステップでは20ヶ所以上設けられた。防御設備は。土塁や塔が必要になった。激しさを増す抗争は戦術面での技術革新、軽量の二輪戦車の発明を促した。

 ポントス・カスピ海ステップの東端にあったシンタシュタの社会の位置は、採集民から都市文明まで、数多くの文化に彼らを触れさせることになった。

 戦争は、社会・政治の変化を引き起こす。権力獲得の新しい機会を生み出した。競合する首長の囲に護衛が常駐するようになり、その規模がましてついに軍隊になり、そこから国家が生み出された可能性もある。前1300年から、交易は40倍に増えた。戦いは富を必要とした。

環濠集落と武器 二輪戦車部隊の新しい戦術

 シンタシュタの墓では武器が埋蔵されている頻度がより高かった。新しい武器、投槍に使われる尖頭器だ。

・シンタシュタの二輪戦車 戦争の原動力

 チャリオットは、二輪のスポーク型車輪を、ハミをつけた馬に引かせ、立ったまま操縦し、通常はギャロップ(襲歩)で走らせる。スポーク型の車輪が高速を可能にした。輪木(リム:車輪の外側)は木材を繋ぎ合わせて円にしなければならない。スポークにもリムにも、高度な加工技術が必要だった。

 チャリオットはステップで発明され、戦争に使われていた。二輪戦車は中央アジアを経由して近東へ導入された。前2900〜2000年にかけてエジプト初期王朝・アッカド帝国・ウル第三王朝時代の王たちの軍で、戦闘用のカートやワゴンに代わって使われた。

 前1500〜1350年頃、シリア北部にいたミタンニ人チャリオット戦術は、古いインド語派の二輪洗車用語とともにステップのどこかから取り入れた可能性がある。二輪戦車を中心とした大きな部隊が編成された。それは大きな富が必要だった。前2100年以降のシンタシュタの時代に、北部ステップで紛争の規模と激しさが増した。

 シンタシュタ文化の埋葬の供犠は、「リグ・ヴェーダ」の最古のテキストに描かれたものに似ている。シンタシュタの首長の葬儀と「リグ・ヴェーダ」の弔いの賛歌の類似から、チャリオット葬には詩が付きものであったことが窺われる。詩と会食は、独占権、序列、権力を強調した葬儀の中心だった。

アーリア人の起源

 古インド語の最古のテキストは「リグ・ヴェーダ」の二巻から七巻までの「家集」だった。これらの賛歌と祈祷はは前1500〜1300年頃に「巻」つまりマンダラ(仏教が後に図像に用いる)に編纂されたが、その多くはもっと古い時代に創作されていた。「アヴェスター」の最古の部分、韻文詩集は、イラン語の最古のテキストで、前1200〜1000年頃にザラスシュトラによって創作されたと思われる。双方の言語の親であり、文字に書き記されなかった言語、インド・イラン共通語は、前1500年よりも以前に遡る。シンタシュタ時代に話されていただろう。古体古インド語は古体イラン語から、前1800〜1600年頃に分離したのだろう。

 リグ・ヴェーダとアヴェスターは、双方に共通するインド・イラン人としてのアイデンティティの本質が、言語と儀礼、文化によるものである点で一致していた。その儀礼を営む者が、アーリア人なのだった。神々と人間の間の貸し借り、宇宙の秩序を脅かすものがダスユ(非アーリア人)だった。正しい言葉で営まれる儀礼は、アーリア人であることの核心だった。

 シンタシュタとアルカイムで発掘された儀礼の遺物と、リグ・ヴェーダに描かれたものは類似している。クルガンに言及して「死者をこの丘に埋めさせよ」、柱で支えて屋根を取り付けた募室や、支柱で支えた壁「お前を傷つけないでくれ」なども含まれる。シンタシュタとポタポフカ=フィラトフカの土坑墓の描写である。リグ・ヴェーダに描写された王の葬儀における馬の生贄は、シンタシュタで発掘されたものに合っている。リグ・ヴェーダには、葬儀に伴った宴も描写されている。シンタシュタの会食を窺うものと一致する。シンタシュタの逆さに置かれた壺も、リグ・ヴェーダの記述「王は大地に水を流す」と一致する。

 シンタシュタで儀礼・政治・戦争の革新が起きたことは、ユーラシアのステップとその後の文化に長期にわたる影響を及ぼした。ユーラシア・ステップの後期青銅器時代の主要な文化集団であるスルブナヤとアンドロノヴォの両ホライズンは、ポタポフカ=シンタシュタの複合体から発達した。

 冬至に行われる若者を戦士の階級に入会させる儀式は、印欧の多くの神話と儀礼で言及されている。その主たる象徴はオオカミだった。犬は死を表していた。ケルベロスやサラニューは黄泉の国の入口を見張っていた。少年が戦士になるには、死の犬に餌をやるのだった。リグ・ヴェーダでは、冬至に生贄を捧げ、誓約によって結ばれた戦士団はヴラティヤと呼ばれ、彼らは犬の祭司とも呼ばれていた。ヴラティヤに関連した儀式には、詩の暗唱や二輪戦車レースなど、多くの競技が含まれていた。

 北部ステップのドン川上流とトボル川の間の文化は、「リグ・ヴェーダ」と「アヴェスター」のアーリア人と共通する。前2100年〜1800年の間に彼らはチャリオットを発明し、環濠集落本拠地とする首長性社会を築き上げ、新種の武器で武装し、新しい総裁儀礼を生み出した。大規模な採掘を始め、金属を生産した。彼らの活躍は、ユーラシア大陸一帯に反響を巻き起こした。

《16. ユーラシア・ステップの開放》

 紀元前2300年から2000年までに、古代世界の遠く離れていた地域同士が交易と制服によって、相互に関連した制度へ引き寄せられ始めた。交易を動かしたのは、アジアの金属、貴石、装飾石、珍しい木材、皮革製品、家畜、奴隷、そして権力に対する欲望だった。知識と権力、そしてその権力を引き寄せる能力を手に入れ、それを支配するようになった。最終的には、模倣と盟約により、運命は近東・イラン・南アジアの傑出した都心の富と結びつくことになった。多くの地域の文化がこの影響を受けた。前1500年には、シリア北部で、古インド語を話し、チャリオットを走らせる傭兵部隊がミタンニ王朝を創始した。

青銅器時代の帝国とステップから来た傭兵

 前2350年頃、アッカドのサルゴンがメソポタミアとシリア北部で反目し合う王国を征服して、超大国=アッカド王国に統一した。アッカド時代に均等の美術品には、垂れ下がるたてがみと短い耳、ふさふさした尾の馬の姿が描かれるようになった。アッカドの印章には、戦闘場面で馬に乗る姿が描かれている。

 エラム語はイラン西部で話されていた。イラン高原には、城郭都市と交易中心地が存在していた。

 アッカドの軍隊と交易網は広大だった。アッカドは不作に苦しんでいた。アッカド時代の気候は冷涼で乾燥していた。帝国の経済は打撃を被った。アッカド北部の都市は放棄され、住民はメソポタミア南部の灌漑された氾濫原に移動したようだ。イラン西部の高地から首長連合であるグティ人がアッカド軍を破り、前2170年にアッカドを市を制圧した。

 2100年頃、ウル第三王朝の初代国王がグティ人を追放し、メソポタミア南部の支配権を取り戻した。シュメール語が王政の言語として使われた最後の時代だった。シュメールのウル第三王朝とイラン高原のエラムの都市国家の間で、休戦期間を含み1世紀に及ぶ戦争が始まった。馬は、ウル第三王朝時代にまとまった数が出現する。

・錫の交易と北方への出入り口

 錫は青銅器時代の近東では最も重要な交易品だった。錫は同量の銀よりも10倍の価値があった。錫と銅の合金である青銅は、鋳造し易く、砒素銅よりも硬い、明るい色の金属だった。

バクトリア=マルギアナ考古学複合体

 前2100年頃、イラン高原の北を流れるムルガブ川の三角州に入植者が入った。ムルガブ川はアフガニスタン西部の山岳地帯から流れ、砂漠を180Kmにわたって蛇行し砂漠に広がり、そこに沈泥を堆積させて豊かな植生が茂る孤立地帯=マツギアを生み出していた。中央アジア屈指の豊かなオアシスとなった。移住者たちは城壁を巡らし都市を築いた。この人々は、イラン高原の紛争から逃れてきた人々かも知れない。

・ステップから中央アジアへの移住者

 ステップからトゥガイへ移住してきた人々は、チャリオットを持ち込んでいた

・ステップにおける中央アジアの交易品

 前1900年以降、ザラフシャン川流域で接触地帯が発達して南方へと拡大し、BMACの町の中心にある城壁まで含むようになった。古インド語の方言は、こうした状況においてイラン語と分離したのだろう。

ユーラシア・ステップの開放

スルブナヤ文化はステップ西部のウラル山脈からドニエプル川までの後期青銅器時代で最も重要な文化だった・アンドロノヴォ・ホライズンは、ウラル山脈からアルタイ山脈と天山山脈まで続く東部ステップにおける。後期青銅時代の主要な複合体だった。どちらもヴォルガ川中流とトボル川の間のポタポフカ=シンタシュタ複合体から発達した。スルブナヤとアンドロノヴァが前1900年から1800年にかけて出現すると、史上初めて中国の周辺部からヨーロッパの辺境地帯にまで、文化が連鎖した。新技術と原材料が大陸一帯へ伝わり始めた。ステップの世界は、銅合金の冶金とチャリオットによる戦争において、技術革新の中心地となった。チャリオットを操る中国の商王朝の王や、ギリシャのミケーネ文明の王侯など、前1500年頃の古代世界の両端にいた同時代の人々が、ユーラシアのステップにいた後期青銅器時代の牧畜民に技術面で恩義を受けていたのだ。

西部ステップの牧畜と採集 農耕無き定住

 ウラル山脈の西では、ヴォルガ川中流域のポタポフカと後期アバシェヴォの集団が、前1900〜1750年頃にポクロフカ複合体へ発展した。ポクロフカは原スルブナヤ相で、スルブナヤ文化はここから急速に発展した。

ウラル山脈の東 様相 − 牧畜から交易へ

森林ステップ地帯の金属加工職人

 セイマ=トゥルビノ・ホライズンは、北部ステップで交易や紛争に採集民がいち早く参入したしたことを示すものだ。

 セイマ=トゥルビノの金属加工職人は、ペトロフカの職人と共に、中央アジアの北で錫入りの青銅を日常的に使っていた最初の人々だった。

ウラル山脈の東 様相 − 技術と言語の拡散

 アンドロノヴォ・ホライズンは、前1800年から1200年にかけてウラル山脈の東のステップに存在した後記青銅器時代の主要な考古学的複合体で、ウラルの西にあったスルブナヤ・ホライズンと近縁だった。

 アンドロノヴォ・ホライズンの拡大は、ウラル山脈の東にあるほぼ全ての草原で牛と羊の牧畜に基づいた経済が成熟し統合されたことを意味していた。この地域にも定住地が出現し、50人から250人の住民が大きな家々に暮らしていた。冬の間も井戸から水を汲むことができた。

「リグ・ヴェーダ」に残された痕跡

 前1900年頃には、ペトロフカの移住民はザラフシャン川流域のトゥガイで銅を採掘し始めた。アンドロノヴァの人々もやってきて、カルナブとムシストンで錫を採掘するようになった。前1800年以降になると、アンドロノヴァの採鉱野営地やクルガン墓地、牧畜野営地が、ザラフシャン川中流域から上流域まで広がった。アンドロノヴォの他の集団はザラフシャン川下流とアムダリア川下流の三角州へ移動し、定住して灌漑農業を営むようになった。

 前1800年頃、BMACの城壁を巡らせた中心地は急激に規模が縮小し、それぞれのオアシスが独自形式の土器を作るようになった。

 前1800年から1600年にかけて、鉱物と畜産物の交易を支配することによって、アンドロノヴァ=バギヤブの牧畜民は古いBMACのオアシスの町と城壁で大きな経済力を持つようになった。チャリオット戦のおかげで、彼らは軍事支配力を手に入れた。社会・政治面だけでなく軍事面における統合も続いただろう。やがて、

 前1600年には、イラン東部と中央アジアのBMAC地域にあった古い交易の町や都市と、煉瓦で防備を固めた私有地は放棄された。チャリオットの部隊は、新しい軍事技術として近東一帯に出現した。古インド語を話すチャリオット戦士の集団が前1500年頃シリア北部で、フルリ語を話す王国の支配権を握った。彼らの誓約が言及していた神々=インドら・ヴァルナ・ミトラ・ナーサティア(アシュヴィン双神)と概念は「リグ・ヴェーダ」の神々と概念でもあり、古インド語の方言=サンスクリット語だった。ミタンニの君主たちは、同時代に東のパンジャーブ地方へ進出した人々と同じ民族だった。「リグ・ヴェーダ」はパンジャーブで前1500年〜1300年頃に編纂された。双方の集団とも、バクトリアとマルギアナでアンドロノヴォ/タザバギヤブの粗製の沈線文土器形式を作っていた混合文化を出身母体としていたのだろう。

 「リグ・ヴェーダ」の言語にはその融合した起源の痕跡が多数残っていた。インドラという神の名とソーマという薬および神の名は、どちらも接触地帯からの借用語で、非インド・イラン語の言葉だった。インド・イランの力/勝利の神であるウルスラグナの属性の多くは、外部7から取り入れられた神であるインドラに受け渡され、そのインドラが新興のインド文化の主神となった。インドラは250篇の賛歌=「リグ・ヴェーダ」の四分の一の主題となった。この神は他のどの神にも増してソーマという興奮剤(おそらくマオウ由来の飲料)と関連していた。これはBMACの宗教から取り入れた飲料と思われる。インドラの台頭は、古インド語の話し手だけ見られた特徴だった。後世イランのアヴェスター語の文献では、インドラは小物の悪魔と見做されている。イラン語方言は、北部ステップのアンドロノヴォとスルブナヤにいて、南部の文明とは距離を保ち続けた人々の間で発達したのだろう。古インドの言語や祭祀は、中央アジアの接触地帯で発達したのである。

・インド=イラン祖語とヴェーダ語への借用語

 接触が始まった当初、シンタシュタまたはペトロフカの文化はその双方がBMACから一部の語彙と祭祀を取り入れて、それがインド・イラン共通語55語の用語となった。薬のソーマなどもその一つで、これはハオマとしてイランの祭祀に使われ続けた。接触の次の段階では、古インド語の話し手が古いBMACの集落の陰で暮らしていた時代に、この同じ言語から大量に言葉を借用した。

ユーラシアを横断する橋

 後期青銅器時代には、ステップは大陸の周辺に発達したギリシャ、近東、イラン、インド亜大陸、中国の文明間を結ぶ橋となった。チャリオットの技術、馬と乗馬、銅合金の冶金術、そして戦略的な立地故に、ステップ社会はかつてないほどの重要性を持つようになった。バイカル湖からの軟玉は、カルパティアの山麓のボロティア埋蔵遺跡から出土した。ステップからの馬と錫はイランで見つかっている。バクトリアの土器は、カザフスタン北部のフェドロヴォの集落址で発見された。チャリオットはギリシャから中国まで、古代世界のいたるところに出現した。ステップから中国への道は、タリム盆地の東端を抜けて続いていた。前1800年の砂漠の周辺の墓地には、茶色の髪と白い肌をし、羊毛製品を身に着けた人々の干からびたミイラが保存されている。中国とタリム盆地の境界には亀茲文化が前2000年から1600年の間に、ステップ様式の青銅器を手に入れていた。スルブナヤとアンドロノヴォのホライズンはステップを、文化の回廊へと変容させた。その変容はユーラシアの歴史の力学を永久に変えたのである。

《17. 言語と行動》

馬と車輪

 前4200=4000年には、ポントス=カスピ海ステップに暮らす人々は、襲撃と退却の際に馬に乗り始めていただろう。騎馬による部族間抗争が始まった。ステップの部族の指導者は、前5200〜4800年ごろに馬と牛を飼い始めると、石器の槌鉾を持ち歩き始めた。前4200年には、人々は移動力を増した、襲撃隊は数百キロの距離を移動して、バルカン半島の銅で財産をつくり、それを交易に使用した。前4200年頃の古ヨーロッパの崩壊の一部は彼らの仕業だろう。

 ステップの騎馬の牧畜民と定住型の農耕社会の間の関係を誤解されてきた。遊牧民は農耕者よりも良い暮らしをしていただろう。また、周辺の農耕民を略奪するだけでなく、良好な関係を築いた/融合した地域もあった。

 再構築された印欧祖語の語彙と印欧の比較神話学から、統合を推進した重要なものは、1)保護者と被護者の間の誓約で結ばれた関係。これが強者と弱者の間の、神々と人間の間の相互の義務を定めていた。2)客人と主人の関係。通常の社会集団外にいる人々にまで保護を広げたものだった。不平等な立場を認めた制度は前5200年頃に牧畜経済を受け入れ、顕著な貧富の差が出現した時代まで遡るだろう。二つ目の制度は、ヤムナヤ・ホライズンの初めに無秩序な空間への移住を規制するために発達したものかも知れない。

 車輪付きの乗り物は前3300年頃にステップに導入された。初期のワゴンとカートは、円盤状車輪の遅い乗り物で、牽引動物は牛だったと思われる。ワゴンのおかげで牧畜民は川沿いを離れて、ステップの奥地まで長期間の移動ができるようになった。ワゴンによる大量輸送と馬に乗る高速の移動は、ステップに経済に革命をもたらし、ユーラシアのステップの大半を開放した。それと共に印欧祖語も広まり、ゲルマン・バルト・スラブ・イタリッチ・ケルト・アルメニア・フリュギアの各言語の種が捲かれた。

 高速なチャリオットは、ウラル・ステップ南部のシンタシュタ文化の墓地に、前2100年頃に出現した。二輪戦車の組み立ては驚くほど難しい。特別に訓練された馬力のある駿馬群も必要だった。高速で走る二輪戦車を操縦しながら、正確に投槍を投じるのはさらに難しい。歩兵や騎兵に援護されたチャリオット戦士の部隊は、致死力の高い戦闘を実現した。都市国家の君主たちも称賛するものとなった。

 チャリオット戦士の英雄世界は「イーリアス」の詩と「リグ・ヴェーダ」の中に記憶されていた。二輪戦車は中央アジアとイランの文明に前2100年頃に導入された。見慣れないシンタシュタとペトロフカの異邦人が、北方から新種の馬に乗って、ザラフシャン川の土手に最初に現れただろう。前2000年から1800年の間に、ザラフシャン川流域に住み着き、銅と錫を採掘し始めた。馬と二輪戦車は近東一帯に出現し、都市間の戦争は馬に依存するようになった。古インドの宗教は、ザラフシャン川とイランの間の接触地帯にいた北方出身の移住者の間で、古い中央アジアと新しい印欧の要素が融合して、その混合物として発生したのだろう。この時代以降、ユーラシアのステップの人々は、中央アジア・南アジア・イランと直接かかわるようになり、さらに仲介者を通じて中国とも結びついた。ユーラシアのステップは政治と経済の回廊となった。

 ユーラシア大陸が東西方向に広がり、ほぼ同じ緯度にあるため、似たような環境間で、農耕・牧畜・車輪などの新技術が急速に広まった。しかし、ウラル山脈の境界地帯ののような恒常的な文化の境界は、それらの新技術の伝播を、数千年は遅らせた。牧畜技術はウラル川中流のサマーラ川源流近くで、前4800年には採用されていた。同緯度のカザフスタン北部のステップにいた近隣の狩猟採集民は、その後も2000年近く家畜化された牛と羊を拒んでいた。ウラル川の境界地帯の場合、フヴァリニア海(古代のカスピ海)がウラル山脈の東西に棲む人々何千年も隔てていた上に、それに取って代わった塩性の砂漠ステップも、徒歩で移動していた採取民にとって重大な生態学的な障壁となり続けた。ポントス=カスピ海ステップでは、恒常的な部族間の境界地帯が多く存在していた。というのも、この地域に環境の明確な移行帯が存在していたためであり、ここでは遠距離移住が続いた複雑な歴史があったためだ。

考古学と言語

 ポントス=カスピ海ステップの地域外への印欧祖語方言の拡大が、組織的な軍事によって引き起こされたとは考えにくい。印欧祖語の方言の拡大は、フランチャイズ経営のようなものだtったろう。少なくとも何人かの首長は、新しい地域へ移動したに違いない。彼らの社会制度は、神話・儀礼・制度にによって維持されていたのであり、それを外部の民が受け入れたのだ。彼らが導入した同盟・義務・神話・儀礼の制度は、世代から世代へ受け継がれていた。

 前3000年頃にドナウ川流域へ移住したヤムナヤの首長たちの名前や功績は不明だが、再構築された印欧祖語と神話の助けを借りれば、彼らの価値観・信仰・通過儀礼・親族制度・政治的理想については、何かしら言ういことはできる。同様に、前2000年頃、シンタシュタの首長の葬儀に伴って夥しい数の動物を供儀に付した人々の個人的な動機を理解しようとするなら、「リグ・ヴェーダ」を読むと、公共の場での大盤振る舞いに付随した価値を理解するための、新たな視点が与えられる。

 「友や傍らの仲間に自分の食べ物を与えない者は、友ではない。その男からは背を向けよ。ここに彼の住む場所0は無い。別のよそ者でも探し、気前よく与えてもらえばよい。ひもじい者は、強い者に与えてもらうがよい。ひもじければ、どこまでも続く道を眺めさせよ。富はチャリオットの車輪のように、回りながらやってくるのだから。」

《訳者あとがき》

 東海道五十三次に描かれた馬は引き馬ばかりであり、車輪は幕末の大八車のものですら、平安時代の牛車と変わらない構造だった。

 歴史言語学の説明は、印欧諸語の話者の価値観が、日本人の感覚といかに異なるかがわかる。誓約やホスピタリティの意味を、日本人は理解し損なっている。

 縄目文のある土器は、縄文時代の遺物と関連を思い起こさせる。ラーメンの器の模様=雷紋はシンタシュタが起源の文様で、ギリシャ=ローマから中国まで印欧語を話す人びとと共に広がったものだった。