ドラッカーが流行ってます。経営論の開祖はバーナードでしょうし、経営論を学術的に確立したという意味でもバーナードの方が優れています。ですが、今はドラッカーです。
ドラッカーは「知りながら罪を犯すな」と警告します。ドラッカーを待つまでもなく、マックス・ウェーバが、分業によって人々が全人格性を失い、職業倫理の危機を招くと指摘しています。
ドラッカーの価値は、「社会は一夜にして企業を潰す力を持つ」などのようなジャーナリスティックな言い回しにあります。彼は独自の仮説を立てた訳ではなく、時代に必要な言説を嗅ぎ分け、書き立て言い立てる文筆家/講演者です。多くの場合、研究者よりもジャーナリストの方が影響力を持ち、有名にもなります。役割分担として、ドラッカーのような伝道者も必要です。
「知りながら罪を犯すな」は、壊れてしまった人間の倫理に警告を発しはしますが、「ではどうするか?」に回答を与えてはいません。何らかの立法措置が必要なことは確かです。生禿的な考え方では、会社の犯罪は実在しません。行為主体は法人(会社)ですが、罪を犯すのは個人です。罰金は会社が負い、前科は個人に付く。管理責任者だけでなく、現場で関わった者も前科者になる制度が必要です。但し、告発した者は、前科者になることを免れます。そういう制度を確立しないと、日本が危ないのです。
アメリカを獣の資本主義、金融市場原理が支配する国と思っている人が多いようですが、日本はアメリカ以上に倫理崩壊に直面しています。アメリカは「悪いことと知りながら、バレ無ければ」という罪の犯し方ですが、日本の場合は「私が悪いんじゃない」という言い訳だらけで、いじましくて情けないものです。救いようがありません。全人格を疑われる罪人です。正面から罪を犯す人間に対しては「罪を憎んで人を憎まず」と言えますが、犯した罪を認めようとしない腐り果てた者は全否定するしかありません。そういう状態から、日本を救出しなければなりません。
ドラッカーは、企業について「独自の使命を果たせ」その中で「最適なあり方を自ら決定せよ」と論じます。ドラッカーの真骨頂は、西欧的な企業論です。アメリカ人の多くが抱いている西欧への憧れを上手く突きます。「収益最大が最適とは限らない」と、銭勘定だけに振り回されるアメリカ経済を戒め、自らのレーゾンデートル(存在意義)を見つめる品位を訴えます。
一方で、実際の助言では、生産性を高めるには「1.アウトソーシングする」。何故か?「それを最も『一生懸命やる』(専門の)会社に任せる」のが能率が良いに決まっている。「2.無駄なことはやらない」「会議の招集を、『関心のある人は出てきて下さい』にすれば、不要な会議参加を省ける」と具体的な助言をします。その上で、「生産性は易しくて難しい」。例えば、「金を掛けて、機械を導入すれば能率は上がる」が、「首切りによってモラルが低下する」。「見掛けの能率は上げるのは易しいが、ホントウの生産性がどこにあるのかは難しい」と『深いい話』で逃げる狡さがドラッカーです。
生禿は、正面から堂々と、変動費を固定費化する危険を冒さないと有意性は確立できない、と当り前のことを言いますが、ドラちゃんは言わない。固定費を変動費化するのは安易だよ、と指摘はするが、変動費を固定費化する信念が無いと独自の優位性を築き上げることはできないという当り前は無視する。小狡いよね。人間が小せえ!そこが好い。人々が安心できる。役には立たないが怖くない。見習わなくっちゃ!!!