無自覚認知について

最近の認知科学では、「無意識、あるいは潜在意識は、意識のうちの架空の部分で、抑圧された記憶を収めているとされる。抑圧の理論では、経験の中には思い出そうとするとたいへんな苦痛を伴うようなものがあり、そのためこうした記憶は地下室にしまい込まれてしまうのだ、と主張している。こうした苦痛を伴う抑圧された記憶は、神経症や精神病、あるいは夢といったかたちで現れるという。トラウマ経験が抑圧されるとか、あるいはこれらが神経症や精神病の原因であるとする説には、科学的根拠はない」とフロイト流の「無意識」を否定しています。
ですが、日常用語での「無意識」は、今だにフロイトの亡霊に悩まされています。それが、生禿が神経科学や認知科学を論じるときに「無意識」という言葉を避け「無自覚」という言葉を使用する理由です。

また、ユングやタートなどは、無意識を超越的な真実の源泉だと考えている。これを事実だとするような科学的根拠は、存在しない」のです。最近のアフォーダンス論もこの系譜に属するものだとも考えられます。

「なぜ自分が問題を抱えているのか見いだそうとして、あるいは超越的真実を見いだそうとして、無意識の世界へ入り込もうと生涯をささげている連中には、私はこう言ってやろう:あんたらは長い時間を無駄にしている。時間なら、記憶や神経科学の本を読むのに使った方がいい」という指摘は適切である。(以上の「」で記した引用は、http://www.genpaku.org/skepticj/unconscious.html からの引用です)

現在の「知覚心理学」は、無意識(無自覚)的推論説では、「知覚は無意識的推論だ」とするヘルムホルツの知覚論と、「知覚は体制化過程だ」とするゲシュタルト心理学を否定します。

無自覚認知は、体性感覚をはじめ、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、平衡感覚、内臓感覚など殆どの感覚が含まれます。そして、手続き的記憶と言われる技能やノウハウなど無意識で記憶される非陳述記憶も無自覚認知の一つなのです。

これに対して、宣言的記憶と呼ばれる、事実や知識として学習などによって意識的に記憶される意味記憶といわれるもの。エピソード記憶と呼ばれる、卒業式などのイベントや人との出会いなどの出来事(思い出)として記憶に残るものは、意識される認知/記憶です。これらは、人間の殆どの行為を説明しません(もっともらしい説明はいくらでもできますが)。

ヘルムホルツ的見解(無自覚的推論)と言われる「3次元の視覚対象と、2次元の網膜像は1体1対応ではない。このように不確定で不十分な感覚情報を、生体内に蓄積した既存の知識や記憶、期待や推論などの「内的媒介過程」が積極的に働くことにより、安定した一つの解釈に自動的に至る過程を無自覚的推論という。これにより我々の知覚が成立しているとする考えは、ヘルムホルツ的見解と呼ばれる」は、その限りでは事実であろうと考えられます。

しかし、この無自覚推論が、ギブソンのアフォーダンスのように、「環境がわれわれ(知覚者)に与えるもの。環境世界は物質的な存在ではなく、意味や価値を提供するものである」という考えに至る誤解を招きやすいものとなっていることも否定できません。

最近の知覚・認知心理学は、意識化や知的処理を伴わずに自動的に進行する知覚過程が強調されています。但し、無自覚な認知は、意識に通告されます。意識的に考えることは無くとも、意志決定結果は通告されるのです。行為の大部分は無自覚に決定され実行されますが、少なからぬ部分が意識に通告され、意識からの無自覚神経過程への作用もあることを忘れてはなりません。
かつては、生禿も無自覚過程を強調していましたが、最近の「無意識認知」ブームには辟易とする部分がなくはありません。意識的な「知性」も行為に作用しないわけではないからです。「ロックは、知覚を脳の神経生理活動にも数式による計算理論にも還元せず、観察者が抱く知覚印象レベルで手堅く議論する合理的枠組みを構築した。そしてそれを、巧妙な実験手続きにより証拠立てていった」ことも忘れてはならないと思われます。(但し、ロックがギブソンに傾倒していくことには疑問を感じざるを得ませんが)

認知科学にも、理論物理学と同様に、未だ「統一理論」がありません。