「心と体の対話」 神庭重信 1999年 文春文庫
読もうと思って忘れていた「体心」についての本です。現在、ホットに語られているのは、癌を中心とする精神免疫学、特に終末医療のＱＯＬ。その分野の臨床医でもある神庭重信氏が、問題点を整理しています。この分野の入門書として、間違いなく好著だと思われます。
「心と体の関係を、脳と免疫系を中心とした生体防御機構に焦点をあてて研究する学問を精神免疫学と呼ぶ。脳と免疫系がネットワークを形成して、情報をやりとりしている。脳が感覚受容できない存在、病原微生物の侵入や腫瘍細胞の増殖、こうした抗原に対しては、免疫系が装備されており、発見し、記憶し、そして反応する。その情報は、免疫細胞が作り出す情報伝達物質によって脳に伝えられる」。
この本の主題は、ヒポクラテスの『病者への愛』。「古代ギリシャ医学の礎を築いたヒポクラテスは、健康と病気を自然の現象として観察した。医師は、我々の体に備わっている健康な状態に戻そうとする自然の力を助けるのが任務であり、『病者への愛があるところに癒しの技術がある』と強調した」。
「生き物は非線形」であり、「科学では捉えきれない」という立場からの捉え方こそが、科学だと納得できます。
「情動に伴う変化は、闘争や逃避のための準備である。ところが、慢性的な不安や緊張、恐れや怒りといった情動反応は、もはや本来の生物学的意味を離れ、身体を恒常性をかき乱す結果しか生まない」。「ストレスが過剰で慢性の場合、アドレナリンやグルココルチコイドの過剰は様々な障害を生む」。
「全ての感覚情報の経路は扁桃体と連絡路を形成している」「全ての感覚入力の意味認知に、扁桃体が関わっている」「扁桃体は、強い情動を伴う記憶を刻む」（情動記憶）。
「動物に生得的な情動表出を引き起こす刺激は「鍵刺激」と呼ばれている」「生得的な情動は、扁桃体と視床下部を中心とした「古い脳」で処理される」。「前頭葉は、情動に過去の経験と学習による修飾を加える」。
「殺傷能力の強い動物ほど、同種間の攻撃行動を抑制する脳内機構が発達している。人は弱々しい攻撃能力しか持たない生物種であるがために、攻撃を抑制する情動の仕組が弱かった」。人間が何故？仲間を殺戮するのか。著者は、動物行動学者の説を支持しています。人間という獣の完成度の低さ、不調和は絶滅を以て終わらせるしか無いようです。
映画『リンカーン』が話題になっていますが、そのリンカーンについては様々な精神医学上の問題も取りざたされています。「リンカーンは、敬虔なキリスト教の信者であった。愛息を三人も失い、何度もうつ病を繰り返したと言われている」。自殺を図ったこともあるという説もあるようです。やっぱり、人間は『生きてるだけで丸儲け』という“気分”になれるかどうかが、幸福に生きられるかどうかの分かれ目なのでしょう。
ＱＯＬ≒幸福な気分について、「幸福感が高いのは、結婚と信仰が影響している」「収入や所有、外見など、外的な条件が生む喜びには慣れが生じる。人生の幸福感の基線に与える影響は長くは続かない」。「人は、環境に受け身である限り、その環境が望ましいものであっても、幸福ではない。価値のある活動に積極的に参加し、自信のゴールを目指して前進する時に、より多くの幸福感を感じ取ることができる」。「幸福感を持つ人の共通の特徴は、自分自身が好きであること、主体的に生きているという感じが持てていること、楽観的であること、外交的であること。とても幸福だと答えた人は、仕事、住居、家族構成の変化に拘らず、十年後にも幸福であった」。ありきたりのことを述べただけですが、臨床医の実感でもあるのでしょう、説得力があります。生禿の言う『現実に向かう主体としての楽観』という実感にも符合します。
双生児研究に依れば、固有の経験の影響が幸福感を決定していると言われています。「幸福感の決定には、遺伝の関与が高い」が、「幸福感を決める環境因子としては、同じ家庭に育つかどうかではなく、一人一人の異なる経験が大きな影響を及ぼす」。
「人格を構成する、遺伝規定性の強い成分」を気質と呼びますが、「気質は、大脳辺縁系の構造と機能に由来すると考えられている」「情動反応は、この気質に関係する」と言われています。
「優しい心とは感じることである」。「頭で想像することと共感することには大きな隔たりがある」。経験の大切さという点では、頷けますね。
免疫が深く関与する疾患では、感染症のような単一病因論は成立しません。「天然痘は撲滅することができたが、しかし多くの病気の成立が、天然痘のように単純なものではない」のです。
「がんを発症した人の特徴として、幼児時期に親と密接な関係が持てなかったこと、穏やかな仮面の下で感情を抑制し、そのはけ口を持てていなかったことがわかった」。「がん発症の危険率を高める性格的特徴として、幸福感の低さ、生活に対する満足感の低さ、社会的孤立感をあげた」。
「自分の意見を主張し感情を伝えることに臆病である必要はない」には、臨床者としての説得力があります。一方で、「がんの疾患の要因として心理的要因を強調することは、患者の生きようとする精神力の不足を責めることになりかねない」の指摘も、人間への眼差しを感じるものです。
「人は暗示により免疫反応を起こす」こと。また、「花粉症や蕁麻疹などの�儀燭離▲譽襯�ーは、精神的な影響を強く受ける」が知られています。
「情動ストレスは、視床下部を中心とした情動性自律反応、すなわち神経内分泌系と自律神経系の反応を介して、免疫系に影響を及ぼす」。
「免疫細胞が初期応答で産出する物質と、情動ストレスに反応して視床下部。下垂体が産出する物質とが同じものである」。「生物学的なストレスであれ、情動ストレスであれ、生体がストレスに対して起こす初期応答には共通性が認められる」。
がんと向き合っている科学者は、『活性酸素が癌の原因』などという馬鹿げたことは言いません。「一日にがん細胞が三千個から六千個生まれる」と、がん細胞の発生頻度の高いという事実認識から、癌に関わる免疫反応が論述されていきます。健康食品の宣伝文句を並べたような下品な著作とは違いますね。
「免疫機構による監視が働いていて、がん化した細胞を殺している」「ＮＫ細胞がサイトカインで活性化されると、がん細胞をより効果的に傷害するＬＡＫ細胞に変化する」。それでもがんの発生が防げないのは、「がん細胞は、キラーＴ細胞が認識していた腫瘍抗原を認識できないようにカムフラージュする仕組みをもつらしく、これによって免疫細胞からの攻撃を逃れることができるらしい」「がん遺伝子の過剰発現やがん抑制遺伝子の機能不全が起きて、がんの増殖測度が早くなることも考えられる」「何らかの原因で免疫監視機能が抑制される場合もあるかも知れない」と、簡潔に癌の病因が推定されています。流石です。
癌の発症に関わる免疫反応は、リウマチのそれとは逆の関係になります。「末梢リンパ球の５〜６％は、自己と反応するＴ細胞からなると言われる。これらのＴ細胞が自己を攻撃しないように免疫寛容の機構が備わっている。ところが何らかの原因で、自己の組織や臓器に対して免疫反応を起こし、臓器を傷つける。これが自己免疫疾患である」。ですが、リウマチの患者に特徴的な性格傾向は、癌患者と相似しています。「自己犠牲的、厳格、几帳面で、痛み、障害の悪化を訴えたり抱える悩みを表に出したりせず、怒りを発散するのが苦手」「抑うつ感や不安感が強く、ストレス対処が不十分である」。
専門医としての以下の主張は傾聴すべきでしょう。「心理介入の目的は、免疫機能を高めるだけでなく、受動的で、無力感から絶望へと導かれやすい自分から、回復への望みを抱き、治療にも積極的に関わり、ケアやサポートをより効果的に受けられる自分へと、患者自身が変わっていくこと、そこに大きな目的がある」。
後半は、著者の専門領域だけに論述にも切れ味が増します。
専門医として「インフォームド・コンセントに必要な時間を診療行為として認める診療報酬の改正も必要」。「権威者が下々に通達するような『告知』という用語を使っていて気にならない」ことも問題としています。
「心の支えが強調されるあまり、心の問題はその道の専門家に任せようというような、心身分業が安易に求められ危険」を指摘し、「患者が絶対の信服をおくのは主治医であり、精神科医の口から『大丈夫』と繰り返されたとしても、主治医のそれを代ることはできない」と断じます。
「専門家し、細分化した現代医療において、病気にしか目が届かなくなる。しかも日本の場合、専門医は多忙を極めている。しかし、主治医とは、患者の事を最もよく理解して責任を持つ医学の専門家なのである」。
最後に、著者は意味深長な逸話を投げかけます。
「1858年、フランス、ピレネー山脈の都市ルルドに住む１４歳の娘ベルナデットが、郊外のマザビエルの洞窟に薪拾いに出かけた時に、貴婦人が話しかけてきた。その予言の如く泉が湧き、その泉の水に触れることによって、不治の病に冒されながらも治癒する患者がいることが知れ渡った。ルルドはカソリック教徒の巡礼地の一つとなった。当時のパリにいた偉大な精神医学者のジャン・シャルコーですらが、サルペトリエール大学病院の精神疾患を抱えた患者を巡礼列車に乗せてルルドへ旅立たせたと聞けば、驚く精神科医も多い筈である」。
「もはや医学的治療の対象とならない患者に、他に何をしてあげられるのか考えつかない。そのような科学に偏り過ぎた思考や態度を養った医学の風潮にこそ問題がある」。「自然科学は心を扱うことを拒み、経験は時に独断に姿を変え、親切な心は冷静な判断を見失いやすい」。
「医師を信じることで回復する患者がいる」ことは間違いのない事実。だからこそ、「医師や医療が信頼されていない、のが問題」なのだと訴えてこの本は締め括られています。
