「イスラームとは何か」 小杉 泰 1994年 講談社現代新書
娘も女房もそれなりにイスラームと関わりのある事物が研究対象とする人間なので、生禿も少しは知っておこうという訳で読んでみました。
この本を選んだのは、著者自身がイスラームに共感しているからです。宗教と言うのは、第三者的に知るのと、信じる者の心で感じるのと、二つの解り方がありますが、今回は後者を大切にしてみました。
という訳で、この本を読んでいる間は生禿も「インシ・アッラー」です。
○ イスラームの成立
「イスラームは紀元7世紀のアラビア半島で生まれた。当時のアラビア半島は、文明世界の外にあった」「古代オリエントが文明の揺籃の地であるが、その中にはアラビア半島は含まれない。メソポタミアには都市文明が生まれ、イランにはアケメネス朝ペルシャが紀元前6世紀に成立した」。
「イスラーム登場前夜、ササン朝ペルシャと東ローマ(ビザンチン)帝国が、東西に覇を唱えていた」「中国やインドから来た商品がイエメンに陸揚げされたものをマッカで中継して地中海東岸に運び、地中海世界の産品をその逆の方向に運ぶ。このルートが盛んになったのは、東ローマ帝国とペルシャ帝国の対立でメソポタミアを通るシルクロードが衰えたためと言われる」。
「当時のアラビア半島の住民のほとんどが、遊牧生活をしていた。マッカのクライシュ族は、5世紀末にはこの町を征服して、定住民となった。遊牧生活では部族の成員は平等と考えられ、相互扶助の精神が讃えられる。そうした倫理感覚は、自己中心的になったマッカの商人の間では急速に失われた」。
「ムハマンドが生まれた「像の年(570年)」は、紅海を超えて南アラビアに進出したエチオピア軍が像に乗ってマッカに攻めてきた「アラビア半島は部族社会で、かつ統一された中央政権も無い」。つまり、後進地域のアラビア半島が独立を維持し、住民が自由な生活を維持するためには新しい社会制度が必要だったのです。
「マッカを脱出したムハンマドは、ヤスリブへと移住し、この都市に国家を作った」。「ヤスリブは、新しい原理に立脚して政治組織が作られ「預言者のマディーナ(町)」として知られるようになった。部族主義に代えて、信仰を基礎とする共同体を樹立し、宗教共存による安全保障の原理を打ち立てた。ウンマ(イスラーム共同体)の理念と原理の祖型が作られた」。「ムハマンドは、政治指導者、調停者、裁判官、立法官などの役割を担わねばならなかった」。「ムハマンドが没する時点には、アラビア半島は歴史上初めて統一されていた」。
○ 啓典と教義
「アッラーの外に神無し」「ムハマンドは神の使徒なり」。この二つの言葉は、「サウジアラビアの国旗の中に書き込まれている」。そして、「1992年以降、アフガニスタンの国旗にも書き込まれている」。
「旧約聖書とクルアーンの世界では、現在の人類とは「洪水」以降の人類であり、その祖にして神の使徒であったノアが、五大預言者の筆頭に挙げられる。次に、セム的一神教のアブラハム。ユダヤ教のモーセ、キリスト教のイエス、イスラーム教のムハマンドである」。
「ヘブライ語で「ヤハウェ」と言っても、アラビア語で「アッラー」と言っても同じことである。現代アラブ世界のキリスト教諸教会はアラビア語の聖書を使っているが、そこでは「神」はもちろん「アッラー」と書かれている。「アッラー」とは、神(イラーフ)に定冠詞(アル)が付いたもの、つまり神そのものを意味する」。
「ムハマンドは神の使徒なり、は共同体形成の契機である」。日本だけでなく、世界中に見られる『神権天授説』です。政治は祭祀(宗教)と深く結び付いています。それは、現在ではあからさまな宗教の形はとってはいませんが。← これは、他国の人間を殺すのを奨励するために、明らかに宗教団体では無い靖国神社を、神社と偽って腐れ安倍の非人がお参りしたがっているとかいう上っ面の宗教問題や、右翼とかいう人殺しも出来ない腰抜けの思想とは何の関係もありません。『民主主義という宗教』という、もっともっと根の深い問題ですので別の機会に論じることにしましょう。
「「アッラーのほかに神なし」は神と人間の間の垂直的な関係を規定する」「「ムハマンドは神の使徒なり」は人間同士の水平的な関係を規定する」。
○ 共同体と社会生活
「ムハマンドは、モスクで教えを説き、教友達と共同体と諸事を相談し、政務その他の決断を下した」。「アカバの誓い=「正しいことについては、背きません」ということは、仮にムハマンドが虚偽や悪徳を命じるとしたら従う義務はないことを意味する。誓いの前には、自分たちが約束する内容をきちんと理解しているか、確認がなされた」。
こうして、「マディーナにつくられたイスラーム共同体は、クルアーンの原理・原則を適用して、法が支配する社会を建設する」。
「イスラームは誰にも納得できる原理・原則によって新社会の建設を試みた」、つまり、原則としては納得できないことには従う必要はありません。また、「アラブの族長は、同等の者の中で抜きん出た者であって、支配者ではないし、その地位が世襲されることもない」。
「「寡婦と結婚せよ」というのは、ムハマンドが信徒に勧め、自身も実践したところであった。マディーナ時代が相次ぎ、戦死者も多かったからである。寡婦の救済は、社会問題であった」。これは有名な話ですよね。実際に、ムハマンドは年増とばかり結婚しています。そして、「いずれの社会でも男女の数はほぼ等しいのであり、一夫一婦が常態である。それはイスラーム社会でも変わらない」。クルアーンにも、「公正にしてやれそうにないなら、ただ一人だけ娶るがよい」と書いてあるそうです。
「イスラーム国家の領土の拡大は、多くの非ムスリム住民や改宗したばかりの信徒を生み出し、従来のコンセンサス政治ではたちいかなくなった」。
「ムハンマドの教えとは、彼の現行・指示・許認可などである。預言者慣行(スンナ)がハディース(語られた言葉)に語られている」。
「クルアーンとハーディスに規定が無いときには、ウラマーが規定を探求して判断を下す」。「後の時代になって、専門家集団としてのウラマーが成立する」。
「イスラーム世界の中で人的ネットワークを通じて、徐々に合意が形成されていく。この合意をイジュマーと呼ぶ。イジュマーは、実際にはウラマーの合意を指す」。「イスラームで法と呼ぶものは、クルアーンやハディースを典拠として、法学者の解釈を通じて生成する」。
「マドラサ(学院)制度が12世紀以降に発展して、ウラマーも制度的に整備されてくる」。
イスラーム法は、『政教一元論』です。対して、「キリスト教は、律法を強調しすぎる弊害を改める教えとして登場した」。「イスラームは、法の強調においてユダヤ教に似ている。また、最初から国家を持って始まった。ユダヤ教の律法主義とキリストの精神主義を合わせたものと見ることができる」。
「宗教的な認識を(ギリシャ哲学のような)理屈でこね回しても、信仰心にはつながらない」「神への畏れと来世への期待によって、誠実に生きようとすることが宗教であって、神の属性を論じることは美徳ではない」。
「アッパース朝第七代カリフのマームーンは、「知恵の館」を建設し、ギリシャ文献の翻訳事業を推進した」。これが、後のルネッサンスに繋がっていきます。ヨーロッパでは、キリスト教の弾圧によってギリシャの文献が失われていたのを、アラブやトルコから逆輸入することになります。
神学者のガザーリーは悟ります。「神学は、神について知る為の学問であるが、それによって神を知ることはできない。人間として超えてはならない則というものを確立した。神秘主義は「神の秘密を知ろうとする道」と解することができる」。その通りですね。論理では知り得ないことがあるという事実は、全き「科学」です。それを神秘主義と片付けるのは非科学です。
「クルアーンの教えは、「これは汝らのウンマ(共同体)、単一のウンマである」を原則とする。分派に与しない人々が主流派、すなわちスンナ派となっていく。スンナ派は、人の世の事であるから理想ではなく現実が支配する」。
「ウンマの大多数が承認するハーディスに語られている内容をもって預言者の教えとみなす。イジュマー(共同体の合意)を形成し、その合意に従う多数派を意味する。合意できる点を見い出していくことが大事である」。
「初期のシーア派にはイエメン出身者が多かった。イエメンはシバの女王に代表されるような、長い王朝の歴史を持っている。初期のシーア派はイラク地方などで支持者を集めたが、これは古代ペルシャ帝国の故郷である。第三者イマーム(フサイン)がササン朝ペルシャの最後の王の娘と結婚し、預言者の血筋とペルシャ王朝の血筋を結合した。シーア派が住民の過半数を占めている国としてイラン、イラク、バハレーンなどが挙げられる」。
「オスマン朝は、1453年にコンスタンチノーブルを征服した。この都はイスタンブールと改称されて、オスマン朝の帝都となった」。17世紀のウィーン包囲戦では、「イスラーム軍が引き上げたのを喜んだウィーンの人々が、敵の旗印の形のパンを焼いて祝ったのがクロワッサンの起源である」。クロワッサンって …、そうなんだ!
「イスラーム国家の崩壊と植民地化によって、イスラーム社会においてクルアーンの教えが実践されない状態がもたらされた」。「キリスト教はローマ帝国の支配下で、被制圧者の宗教として呻吟した。従って正義と力とは関係ない」。「イスラームは宗教だけではなく、それを社会に実体化するための法を含んでいる。法を実施するには、権力が必要である」。
「アフガーニーは雑誌「固き絆」でイスラーム改革を訴えた。その後を受けて、ラシード・リダーは「マナール(灯台)」を発行した」。「イスラーム改革は「正しいイスラームによって、信徒の生活と社会を改革する」ことを目的とする」。
しかし、「19世紀末から20世紀の前半は、むしろ西洋化を目指す思潮の全盛期である」。「オスマン帝国は崩壊した後、トルコを開放したムスタファ・ケマルは、トルコ共和国をトルコ民族の国とした」。
「カタル、バハレーン、アラブ首長国連邦といった国は、20世紀が終わる頃でも独立後20数年の青年国家に過ぎない」。「植民地や保護国も独立するといちおうイスラーム国として分類されるが、国家や経済のレベルで植民地時代に脱イスラーム化している以上、簡単に昔ようなイスラーム国に戻る訳ではない」。しかも、「国境が強制的に画定され、それが民族紛争に繋がっている」。
「イスラーム帝国の常として、オスマン帝国は多民族・多宗教国家であり、民族・宗教の共存が実現していた」。「イスラーム的な同胞性の原理から言えば、民族や人種による差別は否定されるべき行為である。オスマン帝国を最後に、同胞原理に立脚した国家は無くなり、民族国家の時代となった」。
「ユダヤ教徒が民族化して、ユダヤ人になってしまった。その国家をパレスチナに作ろうと移民を組織した」。このシオニズムに対して、「7世紀以降、ユダヤ教徒が聖地に行けるようになたのはイスラームのお蔭ではないか。街区が三宗教に区分されたエルサレムは、宗教共存の実践として長く讃えられてきた。それを20世紀になって、ヨーロッパからやってきてムスリムを追い出して、ユダヤ教徒だけのパレスチナにした」と反発するのは当然す。
「イスラーム復興運動が現実の力となるのは、1960年代以降である。石油による経済力の向上、社会主義の失敗、民族主義への幻滅の結果として、イスラームに目を向けるというケースが多い」。「民主化したことにより、農村部の普通の人々の票によって、イスラーム的な価値が再び現れるということが起こっている」。
再びオリエントは、キリスト教国による強い圧力を受けています。「現代のイスラームは危機意識によって特徴づけられる」。そして、「クルアーンの原理に立脚しつつ、民意に基づく政治原理を打ち立てる」。「シュラー(協議)をイスラーム民主主義の基礎とする」。というような、イスラーム民主主義による社会再建が模索されています。
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