昨日の続きです。 せっかく、岩槻にきたのですから、さいたま市岩槻郷土資料館を訪ねます。閉館30分前に飛び込みました。

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さいたま市岩槻郷土資料館は、真福寺貝塚を中心とする岩槻周辺の遺跡の出土品などを展示しています。最初の展示物は、六千年前の真福寺貝塚の再現模型です。

岩槻の地形は高台と低地が入り込み、起伏に富んでいます。台地に入り込んだ谷の先端では、かつては、地下水が湧き出し、低地へと流れ落ち、元荒川、綾瀬川に注ぎ込みます。

縄文時代には海面が上昇し、七千年前にその極みに達し、六千年前には遠浅の海となって、貝を採集するのに良い場所となりました。低地に侵入した海は、その後の寒冷化に伴って遠のきましたが、四千年前になると再び気候が温暖化し、海が低地に侵入しました。この時期は七千年前より気温が上昇しなかったので、大きな谷のみ海が侵入しました。貝塚の、貝の量は減り、鹿や猪などの獣骨が増えています。

縄文時代早期(〜7000年前)
住居は地面を浅く堀くぼめたテントのような簡単なものでした。煮炊きは屋外の炉で行われ、土器は柔らかい床に突き刺せる尖り底の土器が使われました。

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木の実を磨り潰すのに用いた石皿。真ん丸い大きな石皿は、縄文の民が定住したことを示しています。

縄文時代前期(〜5000年前)
海抜10m付近が海岸線となりました。竪穴住居は深く大きくなり、屋根が高くなり、屋内に炉が設けられました。食糧の計画的に得られるようになり、定住できるようになりました。土器は、尖り底から、床に置ける平底のものに変わり、貯蔵や供え物にも使われるようになりました。

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石剣と石棒。祭り用の石器です。石の剣は、祭儀用にしかならないでしょうネ。

縄文時代中期(〜4000年前)
気温は現在よりも暖かく、山麓や海辺などに大規模な集落が作られました。芋などの(半)栽培が行われ、長期間の定住が可能になりました。土偶や石棒を持ちいて、自然の恵みなどを祈るようになりました。

縄文時代後期・晩期(〜2000年前)
気候はやや寒冷化し、集落は低湿地や微高地に作られるようになりました。焼畑による農業が営まれていました。祈りの道具が多様化し、装飾品も作られました。

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縄文土器が展示されています。良いものはなさそうですが、多くのものが出土していることを窺わせます。

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展示されている土器を上から覗くと、土器の中に何かを入れた袋が入っています。倒れたりしないように重しを入れているのでしょうか?

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この資料館の目玉の一つでしょう。弥生時代中期の須和田式壷。かなり大きな土器です。

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縄文土器では、真福寺貝塚から出土した縄文時代晩期の注口土器。上野遺跡出土の加曾利E式深鉢、が目を惹きました。

真福寺貝塚は、縄文時代後期から晩期にかけての集落遺跡。一辺10メートルの大型住居跡が発見されました。泥炭層にあるため木の実など種子や、獣骨類など動物遺体も豊富に出土しています。この遺跡から出土した高さ16センチメートルのミミズク形土偶は、東京国立博物館にあります。

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他にも岩槻の風俗を伝える様々な展示がありました。何故か、どこの博物館でも古民家の縁側には三毛猫が寝ています。ワンパターンというか・・・、このテンプレートはどこで作られたのでしょうか?

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岩槻駅の周辺は、川越ほどではありませんが、古い街並みが楽しめます。勿論、人形の町ですから、女子高生もとっても可愛いです!(^^)!

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最近流行の女性専用のお手軽フィットネス。岩槻にも進出しています。