「がんを生きる」 佐々木常雄 2009年 講談社現代新書

 薬学部での「職業(治療者)として患者の死に向かい合う」講義のために、死に行く自分自身の生のために、読みました。この分野の本は少しは読んできましたが、独自の考え方を示してくれる筆者の声は一聴の価値があります。死に対する“正直”な物言いは“目から鱗”がたくさんありました。講演会があったらぜひ聴きに行きたいと思います。 以下は、この本の要約と引用です。


 2000年頃から「患者本位の医療」の号令のもと、知る権利と自己決定権と検証権(セカンド・オピニオン)などにより、患者自身が治療法を選択し、遂には死が近いことを知らされることになったのです。

 専門学会を中心に、標準治療を決め、治療ガイドラインを作り、公開してきました。痛みを制御し、薬で眠る(セデーション)もできるようになりました。

 死の教育を受けても、自分自身が死に直面した時、「悟り」は吹っ飛んでしまいます。宗教なしで、死の恐怖を乗り越える術を探したいと思いました。

 かつて、真実を知らされていない患者さんは、看護婦にいろいろなことを聞き、痛みや悩みを訴えました。医師や家族に言えない鬱憤を看護婦に吐き出すこともありました。痛みがあってもモルヒネはあまり使われませんでした。看護師は、この状況に耐えられなくなりました。

 胃癌や大腸癌などの固形癌では、使える抗癌剤も少ない。抗癌剤の感受性試験は、生検や手術した癌組織を使って、その人の癌細胞にどの抗癌剤が効くかを調べ、その結果で効く抗癌剤を調べ、その患者さんに投与する方法。

 EBM(科学根拠に基づく医療)≒標準治療を行うことが基本とされました。患者本人にストレートに医学データを話すことで、「冷たい」印象を与え、患者と医師の間に壁ができてしまったのです。医師に対して、コミュニケーションスキル研修が行われるようになりました。訴訟が増えてきたこともあり、一般的な検査にまで同意書に署名を求めるようになりました。

 「死を受け入れよ、じゃなくて、生に執着せよって言って欲しい」「どんなに確率が低くても、完治を信じる自分がいる」「本人が望みもしないのに余命を告げる意味があるのか」絵門ゆう子。

 人間は生きたいのです。多くの人は、希望を持ちたいのです。死が近づいた時、医師が患者さんの意向にどれだけ添えるか、患者さんと医師が心を通じ合わせられるかが大事です。

 患者さんが死を受容したように見えても、患者さんはそのように見せているだけなのです。不安の時期を過ぎると、今度は退行して子供のような心情になるのは、癌患者さんによく見られる心理過程です。

 自らが末期癌と闘いながら、聖マリアンヌ医大精神科教授の岩井寛氏は「医療の進歩で自然死ができなくなった。これから死を与えられる人は苦しまねばならない」「人間の尊厳とか、医の倫理とかが問い直される時代がくるでしょう」と言います。

 栄養サポートチームが、診療報酬加算が取れることも関係して緩和病院に導入されます。栄養管理が緩和病棟全体の生存期間を延長するという報告もあります。

 過去に「老衰」として自宅で亡くなった方の多くは、「脱水死」でした。点滴が行われれば、生き延びたでしょう。

 「ホスピスで何をしたら良いか分からない」と言います。患者さんはホスピスは死への一直線と考えています。治療法が無くなって、死ぬ時まで苦痛なく暮らしたいと思ってホスピスに入る方は多いのです。今の病院に最後までお願いするわけにはゆかず、在宅では家族に迷惑をかけるからホスピスに入られる方もたくさんいるのです。

 自宅で最後まで過ごすには、人手がある、お金がある方でなければ難しいのが現状です。食事と用便が自分でできなければ、誰かが家にいる必要があります。配偶者も高齢であれば一人では無理です。

 患者が重要と思っていることは、信頼できる医療従事者、苦痛が無いこと、家族に看取ってもらうこと、家族の重荷にならないこと、そして、尊厳。患者が重要と思わないことは、生の意味、死の意味、ホスピスに入ること、不安について語り合うこと、残された時間でやりたいこと、です。

 大事なことは、患者さんと医師の信頼関係の修復です。短い命を言われて生きる時は、自分の我侭を通して欲しいと思うのは当然のことっです。短い命の告知は、その為にある筈です。ホスピスでは、疾患を扱うのではなく、人間を扱います。

 証拠に基づいた治療で、検査・治療日程を一定化し、入院から退院までの経過を示す「クリニカルパス」。同じ疾患、同じ病期で、他の病気を持っていなければ、どの患者さんでも同じ日程になります。無駄も省けて、電子カルテ時代の診療のあり方です。

 「私が医療に期待するのは、生命に対する深淵な哲学ではありません。この世に残る人も、去らねばならない人も、惜しみ惜しまれながら別れていく。哀切がなくして、末期医療は完成しないと思います」川平恵子(川平ひとし氏の奥様)

 人間は自分の死が(生が)意味あるものでありたいと思う。同じ死でも若い人と老人では、悲しみが違います。若い子に死なれた親には、子に会える天国が必要です。

 釈迦は、あの世は無くても良いと考えました。しかし、それでは民衆はついてゆけない。そこで「現世では観音菩薩が救ってくれる」「死後は阿弥陀如来が救ってくれる」という(釈迦の教えとは何の関係もない)宗教が必要だったのです。終末期には患者さんも医療者も「来世観を持つ」ことで、患者さんとの会話が増えるという論文もあります。

 「死に向かい合うことによって、世界の秩序は崩れ落ちてしまう。日常は生き続けるためのもの。死ぬ時には、何の意味も無くなる」西研

 「死後の世界は無いと決め、死は別れだと考えた」岸本秀夫。岸本秀夫氏は、死を見つめ、一つ一つけじめをつkて、最後の別れをして、死に向かって逝かれました。

 死を告げられた時、過去に受けた死の教育は役に立たない。「(キューブラー・ロスのように)死んでいく時にいくつかの段階があるように書かれたものがありますが、戯言です。僕は死を受容なんてしていない」アーサー・クラインマン。他人の死は、あくまで他人の死なのです。死の教育で死の恐怖が無くなるなら、宗教など不要です。「体験できない死の準備は不可能である」ウラジーミル・ジャンケレヴィッチ。

 キューブラー・ロスはクリスチャンの精神科医。その最後は予想と反するものでした。看取りの達人は、脳血栓で倒れ一人暮らしをしました。「神はせせら笑った。40年も仕えてきて・・・本当にいまいましい」。キューブラー・ロスは、長い怒りの時を過ごしました。

 「短い命を聞いてから意欲が湧いてきた。アイディアが浮かんでくる。こえまでになく仕事がしたくなった」という患者さんもいます。「人間は誰でも何かを後世に残したいと願っています。死への恐怖によってこれが目覚めます」デーケン。

 奈落から早く這い上がる人は、生きていてまだ役に立つことがあるという思いがあります。早く気づくには、周りの人の心の支えも必要です。「大事にされている命だ」というメッセージが患者さんに伝わることが大切です。人は誰でも、心の奥に安心できる何かを持っている、と確信することです。

 どうしようもなく頭の中で堂々巡り。人に打ち明けられない時は、書いてみることです。眠れずに夜が怖くなる。それは危険信号です。「心の塊」を、外に出すことが大切です。

 昼、人前では平気そうにしている。それは、そのように装っているだけです。

 泣きたい時は泣く。それでスッキリします。心の重みが外に出ます。

 何でも話せる相手がいることは、心を外に出せるので楽になれます。心の専門家に聞いてもらうだけで違ってきます。

 自分がやっておきたいことをやる。それが一つ一つでき、次の目標を生きることができます。

 死生観とは諦めることではない。悟ったふりをすることでもない。自分の思うような人生を生きることだと思います。たった一度の人生です。人生、不公平だからこそ、少しでも納得して頂けたらと思います。私は、応援しています。