マザー・テレサの死について調べてみました。

 宗教者は死に際してとても見苦しいと言われています。傲慢で我儘で、宗教の教義は言葉。その上っ面を教えてきてだけですから、内容は理解していない。多くの看護師たちが口を揃えて、宗教者の死に際のみっともなさは筆舌に尽くしがたい、と言うそうです。特に、終末介護(ターミナルケア)に関わってきた宗教者は、迷惑の限りを尽くすと怖れられています。

 マザー・テレサがどんな死に方をしたかを知れば、本当はどんな生き方をした人なのかが解ると思い、ネットで調べてみました。

 やはり、ネットですから?全く方向の違う記事が出てきました。その代表を2つ挙げてみます。

<タイプ1>
 自分の死を予感したマザー・テレサが、その間際にはきっとイエスが迎えに来るだろうと期待していたにもかかわらず、彼女を迎えに来たのは、なんと悪魔でした。
 これは本当の話で、悪魔が来たので彼女はヴァチカンに悪魔祓い(エクソシスト)を依頼し、それは実際に執り行われたそうです。しかし、それでも悪魔は立ち去ることなく居続け、マザー・テレサの落胆は相当なもので、落ちるところまで落ちたそうです。
 彼女は、「私が最期にハグをしなければならないのは、悪魔かも知れない」と気づき、訪れて来た悪魔とハグをしたそうです。すると悪魔は消え去りました。マザー・テレサは、それは悪魔だったのではなく「やって来たのは自分だった」と、気付いたのだそうです。マザー・テレサが最期に結び付かなければいけなかったのは、彼女が仰ぐイエス様ではなく、悪魔=自分の闇でした。

<タイプ2>
 マザーを敬愛する人々は、神に対する深くて不動の信仰心が彼女の献身的・犠牲的な奉仕活動の源であり、純粋な利他愛の土台であると思ってきました。マザーはしばしば神への信仰を力強く語り、人々を励まし勇気を与えてきました。マザーは絶えず神に感謝の祈りを捧げています。私たちは、神への信仰のゆえにマザーの人生は、常に明るく積極的で希望に満ちたものであったと考えてきました。
 ところが彼女が霊的指導者(霊的指導担当の神父)たちに宛てた手紙には、それとは全く反対の“神の存在への疑念”が延々と述べられています。マザーは神の存在に疑念を抱き、亡くなる直前まで“神の不在感”という「心の闇」に悩み苦しんできたのです。“Come Be My Light”の出版によって、マザーを悩ませ苦しめてきた「心の闇(霊的闇)」の存在が広く知られるようになりました。

 <タイプ1>は、「光」があれば影=「闇」ができるという穿った見方。「闇」を否定すれば「光」も消えます。光を否定すれば、その闇も消滅します。こうして、マリア・テレサの光も闇も消滅します。マザー・テレサをカトリックの売名行為と揶揄する人々はこの説を採るでしょう。生禿は、「売名行為上等!」。大切なのは実際に為し得た事なのですから。

 しかし、マザー・テレサは、「光と闇」に取り込まれれなかったという証拠も示されています。フォースも無ければ、ダークサイドもありません。マザー・テレサは、そんな子供じみた馬鹿話のネタになるような玉じゃあありません。

 神の不在を感じる真っ当な人間であったことが、彼女の貧しい人々への愛が「人間としての真心」であったことを何よりも雄弁に示しています。生禿は、マザー・テレサは、真っ当な人間として、死を恐れ、神の不在に慄き、悲しみの中に死んでいった。見事な人間の死だったと思われます。

 聖人に列せられたマザーの信奉者は「奇跡」を信じる狂信者です。その狂信を封じるために“Come Be My Light”が出版されたことにも敬意を表したいと思います。出版された時点では、ローマ法王庁も真っ当な判断が出来ていた、ということでしょう。