「考古学入門」 浜田青陵 1976年(原著1929年) 講談社学術文庫
日本の考古学を始めた先生が、90年前に書いた本です。知見は古いのですが(それも面白いです)、考古学の根っこが理解できるという点では出色の文献です。しかも、この本は小学生向けに書かれているのです。「解りやすくて深い」。驚きという他はありません。この本に出会えた事は幸せです。
著者は一時期、早稲田中学校に席をおいていたとのこと。大先輩ではありませんか。その後、東大に進み、京大で史学科陳列館の担当者に採用され、後に教授となります。京大の考古学講座は、日本の最初の考古学講座です。感激です。大先輩の名著に接することができて嬉しい限りです。
以下はこの本の予約と引用です。
〇 博物館の種類と役割
日本ほど学校が整っている国は世界中に少ないと追われています。日本は博物館は整っていません。大英博物館には図書館が設けてありまして、学問をする場所になっています。
〇 考古学という学問
考古学は、遺物ばかりで研究しなければならない時代のことを調べます。
〇 旧石器時代室
旧石器時代のはじめに使われたのは、打ち欠いた跡のあるように見えるだけの「原石器」です。人間の拳ほどもある大型のものが一番古い石器と言われ「セイユ期の石器」と呼ばれます。次に作られた「アシュール期の石器」は、製法が細かくなります。用途に応じて石槍とか石剣ちか石包丁とかに分かれていきます。薄く平たいもの、先が鋭く尖ったものが「ムスティエ期」のものです。さらに精巧な「ソリュートレ期」。要領よくできている「マデレンン期」と変化します。
石器時代の後の後半から、動物の骨た角で作ったものも出てきます。その中には、彫刻をしたものもあります。旧石器時代の中頃から、動物を上手に彫刻に表現しています。クロマニヨン人は大きな絵も描きました。スペインの北の海岸アルタミラの丘の上の洞窟で発見されました。動物の絵は、石の凹凸を利用して、突出部を動物の腹部とし、黒と褐色の色彩で描いています。暗い部屋の中で、動物の脂肪を灯したと思われます。
旧石器時代の最後の頃には「オーリニャック期」。文字のようなものが書いてある「アジール期」があります。
〇 新石器時代室
新石器時代になると、自然界の状態も今日と接近し、旧石器時代とは文化も違ったものになり、人類も現在の世界の人々と同じ種類になります。
海岸線は今よりも陸地に入り込んでいました。海岸近くに居住して、魚や貝を獲っていた者が多いようです。貝塚は、貝殻や骨、石器や骨器や土器を捨てた場所です。
イタリアの北部やスイスでは、湖水の中に棒杙を打って、その上に小屋を作って住んでいました。陸地との交通は小舟に乗りました。敵の襲撃を逃れ、猛獣の害を避ける。不潔物を水に捨て、生活な生活をするためだったでしょう。
石器の形は、小型になり、様々な種類のものが発達しました。弓矢が用いられるようになりました。
粘土で形を作って火で焼いた(素焼き)土器も発明されました。土器によって動物の肉も植物も煮ることができるようになり、今まで食べられなかったものが食べられるようになりました。集めた食料の貯蔵もできるようになって、労働力に余裕ができ、様々な活動ができるようになりました。
巨石記念物が作られるようになります。立て石(メンヒル)や行列石(アリニュマン)や環状列石(クロムレヒ)や石机(ドルメン)です。ドルメンは、テーブルの下の人間を葬った墓です。後には、石で作った長い廊下のような室ができ、その石の上に土をかぶせて高塚としたものが現れます。多数の人間が力を合わせてなされたものです。社会ができてきます。
最初に発見された金属は、金と銅と鉄です。金は装飾にはなりますが、柔らかくて刃物にはなりません。鉄は地中から取り出すことが容易です。エジプトでは、早くから鉄が使われました。広く使用されたのは、容易に作れる青銅です。中国では殷から周の時代までは青銅が使用されました。
ヨーロッパでは、鉄器時代の最も古い時代を「ハルスタット時代」と呼びます。オーストリアのハルスタットの古墳から鉄器が発見されました。その後の「ラテーヌ時代」は、スイスの地名です。ギリシャの文明も鉄器時代のものです。ギリシャ以前の文明、クリート島もエジプトも青銅時代に属しています。
〇 日本の先史時代室
(当時は)旧石器時代の遺物は日本では見つかっておりません。朝鮮と台湾の石器時代には、日本と全く違った、別の種族が住んでいました。
貝類は動物の中でも早く形を変えるもので、昔の蜆(しじみ)は今よりも大きかったようです。螺(ばい)でも角度が違っているし、赤貝でも線の数が変わっています。
昔はたくさんありましたけれど、近頃はお百姓さんも石器であることを知るようになり、自分で拾ってしまいますし、それを集める人も多くなったので、たやすく拾うことができなくなりました。
ヨーロッパでは、旧石器時代の後の方では寒かったので、洞穴の中に人間が住んでいたことがありました。
石器時代の人間は、貝塚あるいは住居の近くを1メートルぐらい掘って、そこに死体を埋めました。棺の中には空気が侵入して腐りやすいが、直接土の中に埋めるときは空気が入りにくいので、よく保存されます。足を曲げて膝を体につけ、跪いたような形をして埋めました。体を曲げて葬るのは、ヨーロッパの石器時代にも、今日の未開人の中にも見出されます。死んだ者が生き返り害さないように、足部を曲げて縛ることがありました。
金属の器物は土の中で腐ったり、他の物に作り直したりするので残りにくいのです。石器は腐らないので残ります。
・石器の分類
石斧
磨製石斧:石を磨いて作った石斧
打製石斧:石を打ち割って作った石斧
矢の根(石鏃)
黒曜石や粘板岩や頁岩の原石を打ち欠いて作った(打製)
石槍
柳の葉の形をした長さ10センチ以上のもの
石錐
小型で一方が尖っている
石匙
一方につまみがあり他の側は鋭い刃になっている
獣の皮を剥ぐために使用した
錘(おもり)石
平たい石塊の上下を少し打ち欠いて、紐糸をかけたもの
網の重りとか、機織りに使用したものと言われている
石器は作り方や形が似ていて、世界中その変わりは少ないのです。石よりも強くて折れにくい、(猪や鹿の)骨や角も使われました。
・骨角器の種類
錐(きり)
縫針
釣針
銛(もり)
貝で作った腕輪は、今日でも南洋の未開人の間に見うけられます。
残っている土器はたいてい壊れたものです。この当時の土器は、ロクロを使用しなかったのですが、形が整っています。素焼きですが、黒ずんだ茶色で、炉に燻されたのが多いのです。水を入れると染み出します。この土器を長く使っていると、魚や獣の脂が染み込んだりして、水が染み出さないようになります。
土偶は写実ではなく、模様のように型にはまったものです。顔でも眼・鼻・口が区別されていないのが普通です。何か宗教上のために作られたもので、玩具ではなかったようです。もし玩具なら、人間の顔を写したものにしなければならないと思います。
西日本からは窯が進歩し、同じ形をした土器がたくさん出てきます。弥生式土器は、職業として製造されたようです。東京本郷の東大の裏の弥生町にあった貝塚から出た土器から名前を取りました。
弥生土器は日本人の祖先のもので、縄文土器はアイヌの祖先のものであろうと言われています。日本に近い南朝鮮には、縄文土器は発見されません。どちらかと言えば、弥生土器に近いものが出ます。北朝鮮からは、縄文土器に多少似た線の模様のものが出ます。
中国の旅順や大連のあたりの土器は、弥生式に近いものが普通です。河南省あたりでは、墨色の絵の具で模様を描いた土器が発見されます。西方諸国の文明が中国に入り込んだものと想像されます。台湾の石器時代の遺物は、中国のものと似ています。沖縄のものは、日本の縄文式土器と同じ性質の土器が出ます。
中国や朝鮮の石器時代は、日本とは関係ないようであります。弥生時代になって似てきます。石器時代には、日本は朝鮮や中国とは違った独立の発達をした民族が住んでいました。
中国の古い(周の時代の)銭が日本で発見されます。中国から金属が日本に伝来しました。日本でも青銅器を作るようになったのですが、材料は中国から持ってきました。
銅鐸は古墳から出たことはなく、近畿地方の岩の間や山陰などから一度にたくさん出ます。九州地方からは出ません。中国にはこれと同じものがありません。日本では、青銅器時代は短く、すぐに鉄器の時代に移ってしまいます。
〇 日本の原史時代室
鉄を使っていた人間は、今日の我々と同じ日本人であったことは疑いありません。日本では木材で家を建てたので、無くなっています。残っているのは、お墓です。日本人の古いお墓は、土饅頭のように高くなっているので高塚とか古墳とか言います。一番古い形で、最後まで残ったのは、円形の塚です。丸い塚はどこの国でもあります。人間の死体を地上に置いた上に土を盛りかけると丸い塚ができます。
前方後円墳の円と方のつなぎ目のところの両側に、小さい丸い丘がついているものを車塚と呼びます。四角い形の塚は、中国の秦や漢の時代からあったものです。古墳は、円塚から前方後円墳そして四角塚と変化しました。そして、やがて円塚だけが行われるようになりました。
塚の上には丸い磧(かわら)石を載せて、全体を覆っていました。墓の外には埴輪を巡らしました。中国では、漢の時代(の以前)から陸墓の前に像を並べました。埴輪の埴は粘土のことで、輪は輪の形に並べることだとする説があります。塚の頂上には家型の埴輪を、堀の外側、墓の前のところなどに人や馬の埴輪を並べました。埴輪によって当時の風俗を知ることができます。
石人や石馬は、朝鮮の新羅と同盟していた、福岡や熊本に見ることができます。
古墳の石室は、時々乞食などが住んだりしております。冬は暖かく夏は涼しいと言います。古墳の中には、山の崖に横に穴を開けた「横穴」もあります。仏教が盛んになってからは、火葬が行われ御堂を建てることになります。
古墳の副葬品の代表は勾玉です。古い時代の勾玉は、頭の穴のところに3つか4つの切れ目がついています。一方からあるいは両方から円錐の穴があいています。奈良時代になると、コの字の形になります。勾玉は、日本以外では南朝鮮から出るだけですから、日本独特のの玉といえます。狩りをして獣を獲り、その牙や歯に穴を開けて飾りにした風習が、勾玉になったのだという説があります。
古い時代の古墳には多数の鏡を棺の中に入れているのがあります。鏡は日本特有のものはありません。中国でも鏡は悪魔除けです。平安時代以降は、日本らしい優雅な模様の鏡を作るようになります(和鏡)。
古墳時代の刀剣は直刀です。柄(つか)の頭が鎚の頭、拳を曲げたような形をしている「こぶつちの太刀」は、中国にも朝鮮にもありません。鎌倉時代以降になると、日本刀が作られ、中国へも輸出されます。
瓦は、中国の隋の時代に、朝鮮から輸入されました。瓦は大きく、今日の瓦の2倍ほどもあります。天平時代(奈良時代)には、屋根を軽くするためでしょう、瓦が小さくなります。
お寺の建築が中国〜朝鮮から伝わり、神社は古い時代の日本の家の形を残しました。
〇 朝鮮と満州の古墳室
日本の植民地だった任那と九州の文化は似ています。