「吾思う故に、我有り」(「コギト」と略されます)は、歴史上最悪にして空前絶後の出鱈目です。デカルトは「[1]は[1万分の1]に等しい」と言いました。小学生4年の生禿には、そう聞こえました。「西洋人の脳味噌は腐敗している」のだと、科学の事実として正当な判断をしたのでした。「我」は人間全体です。ですが、人間の意識(理性)=「吾(悟性)」は、神経細胞の最大限で1万分の1以下しか意識できません。西洋近代の科学哲学を代表するデカルトが[部分は全体に等しい]と叫んでいるのですから、西洋人の頭脳は狂っているというのは極めて適切な評価です ← 小学生4年にして、これ程の明晰さを示すとは ・・・、流石は生禿ですネ ?(-.-)?

 30歳になった生禿は、コギトのもう一つの解釈を、自ら体験することになります。パリで暮らした10日間の、思い出に残る逸話を一つご紹介しましょう。

 生禿が打ちのめされてふて寝をしていると、ドアの外から声が聞こえます。「いい天気だからリュクサンブール公園に散歩に行きましょう」。生禿は応えます。「散歩する気分じゃない」と。すると、少し怒気の混じった声で「それ何?ちゃんと説明して!」と。

 西洋人は、自分のする事為す事の全てが自己の意思のに依るものだと「信じて」います。自分の心臓も自分の意思によって打っているというオウム真理教でも思いつかないようなブッ飛んだ邪教を信じているのです。「悲しいから泣くのではない、泣くから自分が悲しんでいることを認識するのだ」という科学の事実を知らない遥か昔からの伝統です。自らの意思が自らに関わる全てを支配している。だから自分の行動の全てを明確に説明する義務(アカウンタビリティ)があるのです。恐ろしいことです。狂気というより凶器です。そうなんです。その脅迫が、西洋科学の真髄=限界なのです。

 説明責任は、理性による全ての支配を信仰します。それは、殆ど命懸けです。すると何が起きるか? この世の全てを上っ面の理屈で理解しようとする強靭な意志が生じます。カントの「純粋理性批判」をそのように読むと、別な視点が出てきます。自然を支配する法則を手に入れようとする強烈な意思です。そのことが、西洋近代科学を成立させたのです。

 デカルトに代表される西洋科学は、「要素還元主義」を特徴とします。「全体」を理解しないのです。荷車は、車輪と荷台などに分解され、その組み合わせが荷車です。組み合わせ方はどうでもよく、荷車にならない組立をしてしまってもです。荷車を荷車としているのはその組み立て方なのに、それを無視するのです。目先に見えている部分が全てです。これ程の馬鹿馬鹿しい考え方が行き詰らない訳はありません。ですが、行き詰るまでは前に進むのです。それが思念する能力の無い西洋人の限界であると同時に、誰にでも分る理屈で多くの人々を教化し、大衆物質文明を開花させたのです。

 コギトは、吾が自分の全てを知りたい。その理屈で出来得る限りの物を手に入れようとする意思です。浅はかであると当時に、素晴らしく下衆な物欲の実現を達成する近道です。決して非難すべきことではありません(見下すべきことではありますが)。

 ところで、「吾思う故に、我有り」の「有り」は「在り」と記すべきではありません。実在しないものを指しているから「在り」と書くのは不適切です。