縄文時代の環境について、WEBに掲載されていた3本の論文をまとめてみました。物理だけやっている訳ではありません。縄文も忘れていません。以下は各論文の引用です。なにより興味深かったのは、農耕を始めなくても(農耕を始めてしまえば、生態系は破壊され、皆-殺し合う現在の人類の歴史が始まります)、食べ物への拘りが生態系の多様性を低下させる可能性があるということです。この事態に対して縄文人は、「分散する」=大集落から出て行く(祭りの時以外には集まらない)ことによって生業の多様性を取り戻し、人口を適正な水準に抑えたのです。極悪非道な弥生人=農耕民とは違うな 〜 と再認識した次第です。


旧石器時代から縄文時代へ
国立歴史民俗博物館考古研究部 春成秀爾

自然環境の変化,大形獣の絶滅と人類の狩猟活動との関連

 後期更新世の動物を代表する大型動物のうち,ナウマンゾウやヤベオオツノジカの狩猟と関連すると推定される考古資料は,一時的に大勢の人たちが集合した跡とみられる大型環状ブロック(集落)と,大型動物解体用の磨製石斧である.これらは,姶良Tn火山灰(AT)が降下する頃までは顕著にその痕跡をのこしているが,その後は途切れてしまう.AT後は大型動物の狩りは減少し,それらは15,000〜13,000年前に最終的に絶滅したとみられる.その一方,ニホンジカ・イノシシは縄文時代になって狩猟するようになったとする意見が多いが,ニホンジカの祖先にあたるカトウキヨマサジカが中期更新世以来日本列島に棲んでいたし,イノシシ捕獲用とみられる落とし穴が後期更新世にすでに普及しているので,後期更新世末にはニホンジカおよびイノシシの祖先種をすでに狩っていた可能性は高い.

 縄文草創期の始まりは,東日本では約16,000年前までさかのぼることになり,確実に後期更新世末までくいこんでおり,最古ドリアス期よりも早く土器,石鏃,丸ノミ形磨製石斧に代表される神子柴文化が存在する.同じような状況は,アムール川流域でも認められている.また,南九州でも,ほぼ同じ時期に土器,石鏃,丸ノミ形磨製石斧(栫ノ原型)に加えて石臼・磨石の普及がみられ,竪穴住居の存在とあわせ定住生活の萌芽と評価されている.豊富な植物質食料に依存して,縄文時代型の生活がいち早く始まったのであろう.しかし,東も西も草創期・早期を経て約7,000年前に,本格的な環状集落と墓地をもつ定住生活になる.更新世末に用意された新しい道具は,完新世の安定した温暖な環境下で日本型の新石器文化を開花させたのである.


地質ニュース659号 2009年7月
縄文時代の環境 その1 −縄文人の生活と気候変動− 川幡穂高

1.はじめに

 縄文土器という言葉は,日本における最初の発掘報告書である「大森貝塚」(1879)の中でアメリカ人生物学者,モース(Edward Sylvester Morse)が,東京都大森貝塚で発見された土器を英文報告書でcordmarked pottery(索文土器)と記載したのが始まりである.その後,縄目文様という発想から「縄文式土器」となり広く使われ,現在に至っている.

 縄文時代の草創期は,最終氷期最盛期の極寒より気候は改善していたが,依然として寒冷な気候が残っていた.海水準は最終氷期最盛期(120m)よりは随分上昇していたものの,現在より数十m程度低かった.その後,気候はより温暖化し,海水準も現在とほぼ同じレベルとなった.縄文時代中期頃には海水準は現在より2−3m高かったとされ,関東平野では内陸まで海岸線が入り込み,「海進」の状態となった.

2.縄文土器と縄文生活

 縄文土器は口が広くて深い形が多く,この形は深鉢形と呼ばれているが,縄文時代という約1万年間,土器の基本形として継続された.

 新しく日本に広がった落葉広葉樹林は,亜寒帯針葉樹林と比較すると,森林の中で採取可能な食べ物類が非常に多かった.例えば,ドングリ,クリ,クルミなどの木の実(堅果類),ウバユリ,カタクリ,ワラビ,ヤマノイモなど,野生の植物性食料資源は質的にも量的にも大変優れたものであった.

 しかし,デンプンの中でも生のβデンプンは,そのままでは消化しにくい.熱と水でその結晶を壊して,αデンプンに変化させることにより最終的に人間の体にとって栄養となる.そういった意味でも縄文土器は煮炊き用(加熱処理)の容器として非常に重宝であった.デンプンと同様,人間にとって重要な栄養素であるタンパク質に関しても,私たちは加熱して食べることが多い.これは,タンパク質には加熱により凝固するという性質があり,熱することで固くなるからである.熱によるタンパク質の凝固は,栄養素の吸収という点よりも,咀嚼(噛むこと)によって細かく砕きやすくなるということで消化吸収を助けるという意味が強い.

 縄文土器を用いての加熱処理,特に煮沸には消毒という効果もある.食品は微生物に汚染されやすく,食中毒の要因となる微生物が食品上で繁殖する.このように煮沸の発見は,生活のレベルを格段に向上させたと言える.

3.縄文時代の食生活

 縄文人の主要な食物は,堅果類と根茎類を中心として,補完的に魚肉や獣肉を摂取していた.タンパク質はアミノ酸から構成されているが,元素は,炭素(C),窒素(N),酸素(O)などである.この中で,炭素,窒素は同位体比を持っており,これらを調べることにより,元々その動物が摂取した餌の種類を特定できる.

 ドングリなどの堅果類や野生のヤマイモ類はC3型植物に分類される,タンパク質については,その約40%が魚介類から,30%が獣肉,30%がC3型植物からの摂取という食事をしていたと推定されている.

4.縄文時代の人口と東西分布

 縄文時代を通じて,人口は東日本に多く西日本に少ない.基本的に西日本での人口密度は東日本の1/10にも満たず,人口密度が東北地方と逆転するのは弥生時代に入ってからである.このような人口の対照性は,食料と関連していると考えられている.野生のイモについては東西日本で大きな違いはなかった.一方,落葉広葉性のドングリは東日本に,照葉樹林のドングリは西日本に分布しているが,落葉広葉性のドングリの方が単位面積あたりの生産高が高かった.さらに,三内丸山遺跡などの縄文人にとって最も重要な食料資源であったクルミ,クリ,トチなどの大型堅果類や河川を遡上するサケやマスなどの資源は,東日本にひどく偏っている.サケやマスの漁獲高は,北海道で特別高く,太平洋側の北関東から東北まで,日本海側の北陸から東北までの地域で高くなっており,これらは縄文人の生活に非常に大きな恩恵を与えたものと考えられる.本州のこれらの地域では,上
記の食べ物に加えてシカ,イノシシなども多く,狩猟に十分依存した生活を営め,人口支持力が高かった.

5.縄文時代の人口の変遷

 全国の人口は縄文早期には2万人前後であったものが,中期には26万人と増加し,その後,後期に16万人,晩期には8万人へと減少した.この変化は気候変動によりもたらされた.縄文時代中期には日本は全国的に温暖となり,食料も多くなり,人口密度も人口も増加した.特に,関東地方では1平方kmあたり2人以上と古代社会としては高人口密度の状態となった.その後,気候は寒冷化し,最終的にピーク時の半分以下の人口となってしまった.縄文後期には人口減少に伴い貝塚も少なくなっていた.

 縄文時代後期以降には,日本列島の西端である九州に大陸よりさまざまな文化あるいは文明が伝わってきた.すなわち,水田耕作ベースとした人口支持力のある技術は弥生時代(約1,800年前)の人口を約60万人へと増加させた.しかしながら,一方で,移民の流入は,流行性の疫病ももたらした可能性が高く,これは急速に人口密度の高い地域に伝播していったと考えられる.

6.縄文人の寿命と生活

 縄文人の形質は草創期から晩期まで基本的に大きな変化はなかったと言われている.頭蓋骨の研究によると,縄文人の骨格は現在のアイヌ人と統計的に全く同等と言っても過言でないほどよく類似しているという.寿命に関しては,前期から晩期までの15歳以上の人骨234体の解析によると,最も死亡例の高い年齢は男性で30−34歳,女性で20−24歳であった.30代後半以上の年齢層の割合は低く,60歳以上はほとんどいなかった.死亡率を男女別に見ていくと,10 代後半から20代にかけては女性の方が高く,30代以上では男性が高く,その原因は出産にあると考えられている.すなわち,近代社会の前には,乳幼児および妊産婦の死亡率が高いのはいずれの場所でも同様であった.

8.2 縄文前期(環状集石の阿久遺跡)

 環状列石,環状石籬はストーンサークルと呼ばれ,イギリスなどでよく見られる.環状列石は日本の縄文時代の遺跡にもしばしば報告されている.環状列石中心部からこの日時計中心部を見た方向が夏至の日に太陽が沈む方向になっていたり,祭祀の場や墓として利用されたらしい.阿久遺跡は縄文前期(約6,000〜5,000年前)で,長野県諏訪郡に位置し,現在のところ最古級の環状集石が見られる.


『縄文時代の食と環境』
「科学」2017年2月号掲載
羽生淳子 カリフォルニア大学バークレー校教授

 世界的にみると,食料生産の集約化と大規模化は,社会格差の増大と大きく関連している。経済成長を肯定的に捉える成長パラダイムの支持者は,増え続ける世界人口を支え,食料危機を乗り切るためには,集約化と大規模化による環境・社会問題は必要悪と考えて,経済成長の必要性を前提とした上での環境・社会問題の緩和を提言する。これに対して,リベラルな研究者の間では,世界における食料生産の総量は不足しておらず,先進国への富の集中に起因した食料の不均質な分配が発展途上国における食糧危機の原因である,と考える視点が支持を広げている。

縄文時代の食料と人口

 食料生産における過度の集約化とその弊害は,いつごろから存在したのだろうか。この問題を考えるにあたって重要な事例が,東日本の縄文時代中期における人口,生業と気候変動の問題である。

 東日本縄文時代の人口減少について,約4200 年前における地球規模の長期的な気候寒冷化(いわゆる4.2K イベント)を,その主原因と考える説が多い。しかし、人口減少はそれより前の4800 年前頃から始まっていたらしいこと,また,人口減少に先立ち,植物質食料に依存した生業の特化が進んでいたらしいことが明らかになってきた。

三内丸山遺跡の盛衰と食・生業の多様性

 円筒上層e式期(約4900年前)には,それまで多量にあった磨石のほとんどが姿を消し,石器組成の主体は石鏃となる。続く榎林式期以降,三内丸山の集落規模は急激に減少し,遺跡の居住は終わりを告げる。

 石器の機能から三内丸山遺跡の居住者の食を復元すると,居住の開始期には動物性食料の比重が高く,その後,徐々に木の実などの植物質食料の重要性が増した。しかし,過度の植物質食料への依存は,食・生業の多様性喪失と生業システムの脆弱化につながり,大集落を維持できなくなったのではないか,という仮説を立てることができる。

 研究の焦点のひとつは,4.2Kイベントより以前に,システム崩壊の直接の原因となる,より短期(数年〜数十年単位)の気候変動があったのか,という点である。