「自由はどこまで可能か」 森村進 2001年 講談社現代新書

 ずっと前にちょっと話題になった本。ブックオフにあったので読んでみました。著者も含めて、「論理の虚弱さ」と「直感の健全さ」を感じさせる著作でした。学生時代以来ご無沙汰していたハイエクの著作を読み返してみましょう。 以下はこの本の要約と引用です。*印は、私の見解です。私はこの著者の言う「人間中心の自由主義」を否定します。人間だけが生きる権利を持っているなどという傲慢不遜にして極悪非道な考え方を完全無欠に否定します。何故なら、私は「真っ当な」生き物だからです。私はこの宇宙の全ての存在の自由を認める自由主義者です。この著作の多くの部分の主張は認めますが、人間中心主義には明確に反対します。


■ はじめに

 私は法哲学者として、リバタニアリズムを共感をもって研究してきました。

 「経済理論家または政治哲学者の主要な仕事は、今日政治上では不可能であることが政治上で可能になるようにするように努めることだ。私の提案が実行不能であるという意見は、提案を発展させるのに妨げとはならない」(フルードリッヒ・ハイエク「貨幣発行自由化論」)。

 *以下、リバタニアリズムを単に「自由主義」と表記します。

■ 自由主義とは何か

 米国は伝統的に自然権論的自由主義思想が強い。多くの自由主義者は、福祉国家がなくなっても人々の暮らし向きは悪化しない。不効率な官僚機構よりも、市場に委ねる方が生活は向上する」と主張する。

 現代の経済学の新古典派もオーストリア学派もシカゴ学派も市場経済を指示するが、その論拠は異なる。

 新古典派は、市場は均衡に達し資源配分の効率をもたらすと考える。そのためには、完全雇用や有効需要促進を目標として政府が市場に介入することを許容する。対して、ミルトン・フリードマンに代表されるシカゴ学派は、市場への介入を否定する。

 オーストリア学派は、不確定性に満ちた世界で社会の繁栄を実現するには、自由主義市場しかないと考える。そこでは、完全情報の静的な市場観とは異なる動的な市場観が前提されている。市場の意義は、一物一価の均衡状態をもたらすところにあるのではなく、競争や企業家行動という市場プロセスを経て、情報が局所で発見され有効に利用されていく点にある。特に、ハイエクは自主的秩序を尊重する。

■ 自由主義な権利

 自己所有権は、「私に体は私のものだ」「私の労働の成果と対価は私のものだ」と表現することができる。

 平等論者が自己所有権を否定するのは、「人は生まれながらに恵まれた環境にあったとしても、その人物はそれに値するわけではなく、分配の不平等を正当化するものではない」からだ。

 表現の自由とは、自分が自分の身体を用いて表現する権利であって、自己表現のために他人の身体や財産を利用することや、他人を強制して自分の表現を見聞きさせることは含まない。各人の権利の領域は、身体と財産によって画されている。他者に対して行為を請求する請求権は、自由権の中に含まれない。それは他人の自由を制約する。

 自由権の行使は一部の人々にとって不利益なこと、不愉快なことを含むかもしれないが、それは自由な社会のコストである。但し、誤った情報による損害は、それを救済を認める。

 著作権や特許権などの無体財産権も、自由主義者が認めにくいものである。有体財は特定の人しか利用できない。他の人々による利用と両立しない。財産権を認める根拠である。著作権などの無体の財には自然な排他性が無い。無体財産権は、利用する自由の制限を強制している。

*私は著作権を否定しています。ですから、自らの名義で特許を取得したことはありません。共同事業者が私が開発したものの特許権を取得して何億円儲けようと私はそれに一切関与していません。

 子供については自己所有権だけでは不十分である。

 血液や臓器の売買は禁じられていても、無償の譲渡は奨励されている。無償の譲渡を許す場合に、有償の売買を禁止すべき根拠を見出すことは難しい。自己奴隷化は部分的な譲渡ならば許されている。週に40時間他人の下で働く契約は有効である。毛髪の売買も可能である。生命や身体は本人の決定に対しても不可侵ではない。

 自由主義者である私でも、臓器売買はすべきではないという直感を抱く。我々は臓器売買に対して嫌悪感を持つ。しかし、それを禁止する根拠にはならない。

 労働によって自然から取り出したものには所有権が発生する。労働によって他の人の共有権を排除する何かが付け加えられたことになる。

 ジョン・ロックは、土地の開墾者の土地所有を価値創造という論拠によって正当化している。人間が豊かな生活を送るためには、自然資源の私的所有が必要だとしている。

 天然資源は誰の所有にも属さない。すると誰も資源を継続して利用できず、有効な使用はできない。結局、それ以上正当化できない「直感」に訴えかけざるを得ない。その直感がどの程度の説得力を持つか、そしてそれが他の説得力ある直感と矛盾しないか、その帰結が受け入れられるかである「。

*私は土地の私有権を認めません。一代限りの使用権を認めます。他の人々の反対があれば、それを調停する仕組を作ります。
 例えば、ある事業化が他の人々に有益な土地利用をしていたとしても、その子孫がその土地の占有を継続する根拠にはなりません。馬鹿息子が下らぬ生活をするために、土地が所有されるのを誰も許容しません。

 価値を作り出した者は、その財への権利を持つ、という主張は直感的に説得力がある。同時に、自分が作り出した損害への責任を負っている。

 人が他社の権利を侵害することなしに価値を創造したからといって、その価値への財産権を持つとは限らない。集合住宅の庭で、承諾を受けて、美しい花を咲かせたとしても、何も得るものはない。価値創造の活動が他人の支配する領域で行われたからである。活動が誰のものでもない領域で行われたならば、それは私の自由な領域の拡張と見做すことが自然である。

*人間が自然を支配し所有するという傲慢不遜にして極悪非道な考え方をする人間は、自由主義者ではない。自由主義者は、他の生物の生きる権利を否定しません。

 財産権は国家の強制無しにも習慣法上存在した。約束した以上、強制してでもそれを履行させるのは許されるという契約義務の概念は、国家法秩序とは独立に存在する。貨幣も無政府状態で成立する。貨幣発行権を国家が独占することには弊害ある。

 過失責任は、損害の発生につき、故意か過失がある場合にだけ損害賠償責任を負うという原則である。個人の自由な活動を保証するために、原則として過失責任原則をとってきた。

 破産制度により、債務者が裁判所による破産宣告を受けると、残った債務は免責される。債権者の同意がないのに、債務を裁判所が帳消しにできるのか?私有財産に対する侵害である。会社の有限責任も同様である。株主が会社の活動から生じる利益を受ける程度には限界が無いのに、損失を負担する額に限度があるのは不当だ。会社の借金を公的資金で支払うのも正当化できない。

■ 権利の救済と裁判

 国家を認める自由主義者は、国家は警察や裁判所によって国民の権利を守ると考える。国家は任務を適切に果たさない。軍隊は必要を超えて拡大する。裁判には不効率で、権利の実現には役に立たない。

 経済を支えているのは、「約束は守る」という人々の意識だ。法制度ではない。異なった利害を持つ人々が共存できるのは、人々の自発的な相互行為による。

 米国には民間の「代替紛争解決」サービスがある。その裁定は裁判所の判決と同様に強制執行が可能となる。誰でも提訴に応じなければならないので、公裁判はなお必要とされる。

 賭博や売春や麻薬などの「被害者無き犯罪」は誰の権利も侵害するわけではないから、その処罰は不正である。

 刑罰制度の存在が、社会に安心感を与えていることを否定するのは難しい。受刑者を教育して更生させることは刑罰の目的ではない。直接の被害者の救済を優先させるべきである。刑罰制度は被害者の救済を妨げている。

 プライバシーは、表現の自由を侵害する。自由主義においては認められない。

■ 政府と社会と経済

 「権力は腐敗する」アクトン卿。自由主義者は、社交と市場を尊重する。社会と国家は区別される。社会は個々人とその行動の総体である。

 自由主義者は、社会的制裁が個人の規律や秩序が保たれると考える。道徳の実現は、政府の任務ではなく、社会を構成する人々の行動の結果である。

 共同体主義者は、脱退が困難な共同体、民族や国家や地縁や家系を尊重する。

 郵便や賭博のように、民間を排除する理由は無い。公営企業の独占は経済自由への侵害である。役人には予算や権限を拡大しようとする動機はあるが、適正に行動する動機は無い。「市場の失敗」以上に「政府の失敗」は大きい。

 利己性と無知を免れない人間性により、市場は人間社会に不可欠だ。市場こそ、個人の自由が実現されている秩序である。

 市場経済の枠組みの中では、競争に敵対という含みは無い。国際貿易にも敵対は存在しない。諸個人がそれぞれ異なった利害を持っていて、各人の目的が両立しないとしても、人々が敵対しているわけではない。

 自由競争は、新古典経済学で言う「完全競争」では無い。完全競争への拘りは、現実の競争の不完全を理由に、市場への介入を正当化する。問題なのは不完全競争ではなく、競争が存在しないことである。

 経済不平等は、各人の自由な行動の結果である限りにおいては不正ではない。公平という概念は濫用されやすい。公平は市場経済の目的ではない。絶対貧困の救済は必要だが、相対貧困は政府による介入を正当化しない。

 分業は不平等を生む。貧富の格差それ自体は問題ではない。

 現代日本を含む、利益配分型の政治は、原理上不正である。政治権力の不平等を防ぐには、利益集団の参加の平等性ではなく、政治権力自体の最小化が必要だ。政界と財界の癒着をなくすためには、利権そのものを無くすべきであるのと同様だ。

 民主主義は理想化できない。人々は自分自身の利害については道理判断が可能だが、国家や地球に関わる問題には限られた知識しか持っていないし、自己利益が優先される。

 民主制の主権者は「全体ととしての国民」であって、「個々の国民」ではない。人権は国家主権に優先する。民主国家も独裁化する。

 参加民主主義には、国民と国家を一体化させ、忠誠心を強要する。前近代の国家の多くは、国民に税金を納め社会秩序を守る以上のことは要求しなかった。人々が義務を果たしている限り、国は生活に介入しなかった。民主国家は、国民が国家の歴史と文化に一体感を持ち、愛国心を持ち、国家目的に協力するように強制する。国民皆兵と民族歴史教育は、民主制において正当化される。あらゆる国民が政治に参加する権利を認められているからである。

 人々は、投票時に何をしても、政府のあらゆる政策に責任を負わされる。

 法の下の平等は、結果の平等や機会の平等の実現のための介入を求めるものではない。

 税金の無駄遣いは自治体で顕著である。地方分権に正当性は無い。

 税金を取られる人は参政権を持つべきだ。定住外国人にも、国政と地方の参政権を与えるべきだ。

 参政権は政府の存在を前提とする権利。参政権を根拠に政府や国家の存在を正当化することはできない。

 人権は特定の国家への所属によって与えられるものではない。全ての人間が持つ権利である。

 外国からの入国や移民も制限すべきではない。外国からの不法労働者は、日本の社会に富をもたらし、労働力の国際配分を効率化している。

 「民族」とは、近代に「発明された」「想像の共同体」にすぎない。各個人は自分の国から平和裏に脱退する権利を持つ。

■ 家族と親子

 国民の教育権と国家の教育権。義務教育は子供の自由に反すると主張できる。教科書検定制度は認められない。

 特別な事情が無ければ、生みの親が子供を育てる権限と義務を持つ。しかし、親の権限は絶対ではない。年齢にかかわらず、子供は親元を離れる権利、養親を見つける権利を認めなければならない。子供が逃走を試みたいという事実が、親の養育の権限が疑わしいことを示している。

 財の無償の贈与は可能でなければならない。相続制度は廃止すべきだとする主張もある。

 現代の多くの国家が一夫一婦制だけを認めている。婚姻を法で定めなければならない理由は無い。多くの法制度は既婚者を優遇しているが、法の下での中立性と衝突している。共同生活者の権利義務関係は契約で定めることができる。契約自由の原則から、共同生活者の法関係は、当事者が自由に決められる。

 婚姻制度も相続制度も無く、子供に対する親の養育義務はあるが、子供が親を扶養する義務はない。自由を愛する人は、それを血縁からの解放と考える。

■ 財政政策あるいはその不存在

 自由主義者は、公共投資や財政赤字に反対する。

 政府が公共事業に投資するには税金が必要である。納税者はその分だけ支出が減る。そのかわりに儲からない事業に政府が資金をつぎ込む。その結果、富の総額は減少する。多くの人々は、公共事業から得られる「見える利益」に目を奪われて、「見えない損失」を想像できない。民主主義において圧力団体は、社会全体の富を減少させる。結果として、その分だけ多くの失業が発生する。

 公共事業が過剰になされても、均衡財政ならば、自ずから制約がある。現代は、財政赤字が認められる。増税よりも公債発行の方が納税者にとっても直接の負担が少ないため、政治家は公債に頼る傾向がある。

 国債保有者と納税者は別の集合である。納税者が国債保有者に所得の移転を行わなければならない制度は、大部分の国民を貧しくする。

 ハイエクは、民間が通貨を発行できる制度を主張した。本来、貨幣は政府が作り出したものではない、社会の進化で自生したものである。

 法人税は、法人から利益を受け取る個々人への課税との二重取りになるから、理論上は正当化できない。法人を利用して個人では得られない特権を享受する場合は別だが。

■ 自生秩序と計画

 貨幣制度と銀行制度は、政府の権力を強めるための有害な制度である。

 自由な制度は、模倣されることにより発展する。規制は、権力を持った人々の願望が形成する。

 ハイエクは、意識的な社会制度の設計に反対する。自生秩序は、人間の行動の結果である。特定の人間の意図によるという意味での「人為」ではない。言語と法と市場は、自生秩序である。普遍妥当性を持つ制度設計をハイエクは批判し、進化論的試行錯誤過程を尊重する。ハイエクの進化論-合理主義では、設計主義者は成功した秩序を破壊するものとなる。

 社会制度のかなりのものは自生秩序ではない。イギリス社会のコモン・ローは、法律家が不文律に対する解釈であり、自生とは言えない。自主秩序が法になったと言えるのは、共和政期のローマや、中世欧州の国際商習慣くらいである。

 自生秩序は、言語、道徳、作法、市場の約束事にはある程度あてはまるが、法について妥当するかは疑問である。

 習慣法は相互に利益を与えることによって人々の自発協力を得なければ効力を持たない。制定法は、押し付けられてものであるだが、習慣法が全て個人の自由を守るとは言えない。奴隷制度も習慣法たりえる。

 同質な社会ならともかく、赤の他人で成立している近代社会で、暗黙の習慣が誰もが共有していると期待すべきではない。共同体内部の礼儀作法は、抑圧的なものもある。日本の公共事業における談合も、自生秩序であり、当事者にとっては合理性を持っている。

 個々人の自由を尊重するとは、個々人の計画を尊重すること。町づくり計画は、役人や運動家や学識経験者が決定する。財産を効率よく運営することに動機づけられているのは、財産を持っている本人である。集団計画は、特定の利益集団が他人の負担の上に、特権や美意識や使命感を追求する手段である。

■ 批判と疑問

 最小限の社会保障は認めるべきだろう。自分の能力と財産だけでは生きていけない人もいる。相互扶助や慈善団体を過小評価するつもりはないが、最後の保障として公保障が正当化できるだろう。日本国憲法に保障された「健康で文化的な最低限度の生活」である。

 環境問題の多くは、私有財産制度と表裏一体の自己責任原理の不徹底から生じる。その際、無過失責任主義を取るべきである。また、将来の世代への配慮義務も認めるべきだ。資源が無主物として扱われると、その資源は濫用されやすい。

 不必要な環境破壊の最大の元凶は政府である。山奥のダムや道路の建設。自由市場では決して実行されないものだ。社会主義国の環境汚染は資本主義国よりも深刻だった。統制経済は環境を悪化させる。

 多くの自由主義者は、人間にとっての価値しか認めていない。人間中心主義の価値観に疑問を持つ人は多い。生物は生態系のために生きているのでもないし、生態系が生物体の利益に適合するとは限らない。

 政府が景気回復のために市場への介入を行うことを求める人は多い。自由主義者は、一時の現象に左右されて、普遍な価値を見失わない。

 自由主義者は、教育の自由化ではなく規制撤廃を、公共事業の停止を、国債と財政政策の廃止を主張する。