私たちは生まれた時から「解らない=怖い」死に向かっています。ですが本当に解らないのは「生きている」ということです。死は生きている「物」が、単なる物体に戻ることです。では「生きている」って?一体何なんでしょう。

ご供養の歴史を簡単にまとめてみましょう。

日本人は日常生活から死を遠ざけます。昔から死を表す言葉を他の言葉に言い換え、死を表す行為は避けます。病院で死を迎えるようになり、他人の死に触れる ことが少なくなって、現代社会の風景から死が死につつあります。

人間は死者を埋葬する唯一の動物であるといわれています。4万年以上前から葬儀は行なわれています。北イラクのシャニダール遺跡では、ネアンデルタール人の墓地が発見されています。

日本でも『古事記』に、天の若日子の葬儀の記述があります。まず遺体を安置する「喪屋」という小屋を作り、「岐佐理持(旗を持つ役)」「掃持(喪屋を掃 除する役)」「御食人(死者に食事を供する役)」「碓女(死者の膳に供える米をつく役)」「哭女(悲嘆を表現する役)」という役割が分担され、死者の霊を 慰める歌や踊りが行われたと記録されています。

近代の村落社会は、直系男子相続による大家族制度を基礎とする農業共同体。その葬儀は、村落の共同事業でした。血縁関係による同族/親族、信仰による講 仲間、近隣集団の組合の「合力」によって執り行われました.

近代の葬儀では、まず「湯灌(逆さ水)」をし、「通夜」を行なう。翌日は、遺体を棺に納めて焼香をし、庭先で人々と別れをして出棺。一同が葬列を作っ て、檀那寺向かい、僧侶が読経をして、墓穴に棺を埋めます。通夜は「本当に死んだか」を確かめるためとも言われています。明治30年代ごろから、葬儀の簡 素化が起こります。明治中期の火葬率は3割未満であったといわれています。火葬が一般化したのは、昭和に入ってからのことです。

現代では、葬儀社を利用することなしに葬儀を催すのは不可能になっています。葬儀社の起源は江戸時代の桶屋であると言われています。本格的に葬儀業者が 出現したのは、明治時代に入ってからのこと。明治政府の神仏分離令によって寺請制度が廃止され、寺が葬儀の手配をすることが少なくなって登場したのが葬儀 屋です。明治時代に存在した葬儀屋には、棺桶の製作、造花の製造、葬列の手配、装具の貸出がありました。第二次世界大戦前の葬儀屋は、葬儀の運営ではな く、葬具の製造・貸出業でした。
戦後の新生活運動による葬儀の簡素化によって冠婚葬祭互助会が発達した。現在でも市場の4割を占めています。葬儀業が物品賃貸業から、葬祭サービス業に なりました。

葬儀業への参入は、許可や認可、届け出の規制が全くなく、誰でも葬儀業と名乗ることができます。葬儀業界は、専門事業者だけではなく、互助会、農協、生 協などがあります。市場占有率からみると、専門事業者が約50%、冠婚葬祭互助会が約40%とこの2業種でほとんどを占めています。また、新規参入が増加 すると同時に、倒産・廃業も続出しています。特に小規模経営の業者が淘汰され、寡占化が進んでいます。

現在では、厚労省認定資格の「葬祭ディレクター」は、消費者の視点に立てる者を葬祭ディレクターとしています。

関西で9割以上の市場占有率をもつ燦ホールディングス(葬祭小会社:公益社)は、「明朗会計」「上場企業」「葬祭ディレクター所持者が160人以上」 「葬儀施行実績」「品質ISO・環境ISOに審査登録」「仏壇仏具・墓所墓石も扱う」こと売りにしています。