顧客ロイヤルティと従業員ロイヤルティは連動します。顧客ロイヤルティは、顧客経験で形成されますが、顧客経験は顧客と従業員が共有するものです。ロイヤルティを持った従業員が、顧客のロイヤルティを作るのです。
ロイヤルティを高めて『儲かる商売』をしたいなら、『終身雇用の正社員』の仕事を当にするしかありません。年俸650万円で安心して働き-暮す。そういう「従業員の元気な会社」が日本を支え続けるのだと思います。
「中庸」と言うのは「無難」ではなく、「最適」なのです。月収20万円も200万円も「不適切」。最大多数の最大幸福をもたらすのは、多くの人々が月収45万円で安定した暮らしをすることです。これを、市場の倫理で実現できないなら、法制度を動員しても実現すべきです。「国際競争力」などという事実無根の幻想によって、経済の活性をこれ以上害することは許せません。
「論語」の「中庸」の意味については、議論百出です。「中」は、「偏らない」、同時に、「中間をとればいい」ということでもありません。生禿的な解釈では、ものの見方考え方が、特定の「観点」や「視座」に偏らず、事実を事実のまま見つめる『平凡』な感覚で理解するのが『中(空)』の識です。「庸」を、朱子は「平常」と解釈しています。より、一般的には、「易(か)わらないこと」を意味します。生禿的には、物事の恒常(法/法則)を見定めることだと理解しています。
中道は、仏教用語で、極端な/特定の概念に偏らない自由な立場/視点による仏道修行を意味します。「苦」「楽」のふたつをニ受(にじゅ)、「有る」とか「無い」という見解を二辺(にへん)と言いますが、そのどちらにも囚われない、偏らない立場が「中道」と理解されます。
また、アリストテレスの「メソテース」が、仏教の「中道」と通じるとも言われます。「ニコマコス倫理学」で、人間の行為や感情における過不足を調整する徳としてメソテース(中間にあること)が挙げられています。英語では“GoldenMean”。アリストテレスによれば、この徳性が「思慮」(実践知)です。
どの時代でも、何処であっても、最適は「あるがままの真ん中」、現実の常識の中にあります。
生禿は、「中道」から「最大多数の最大幸福」を思い起こします(ちょっと変ですが)。ベンサムの、「快楽や幸福を生むものが善であり、苦痛や不幸を生むものが悪である」「社会の善は、その構成員の善の総計である」という考え方は、論理的には定義不能ですが、現実的には「何とはなしに」理解できます。それはまた、「社会全体が幸福にならなければ個人の幸福もありえない」という性善説に基づく楽天的な人間観に立つものです。
生禿の「中道」は、楽観的なところが、お釈迦様とは正反対です。 全ての世帯に月収45万円を、「出来る」と信じています。そう思わなければ、絶対に実現しませんからね。
【四季の言葉 − 田植え】
田を植える人=早乙女
稲作に関する労働や習慣には神が関わり、多くは村落共同体全体のこととして行われてきました。中でも田植えは重要な神事であり、まつりだったです。
ロイヤルティを高めて『儲かる商売』をしたいなら、『終身雇用の正社員』の仕事を当にするしかありません。年俸650万円で安心して働き-暮す。そういう「従業員の元気な会社」が日本を支え続けるのだと思います。
「中庸」と言うのは「無難」ではなく、「最適」なのです。月収20万円も200万円も「不適切」。最大多数の最大幸福をもたらすのは、多くの人々が月収45万円で安定した暮らしをすることです。これを、市場の倫理で実現できないなら、法制度を動員しても実現すべきです。「国際競争力」などという事実無根の幻想によって、経済の活性をこれ以上害することは許せません。
「論語」の「中庸」の意味については、議論百出です。「中」は、「偏らない」、同時に、「中間をとればいい」ということでもありません。生禿的な解釈では、ものの見方考え方が、特定の「観点」や「視座」に偏らず、事実を事実のまま見つめる『平凡』な感覚で理解するのが『中(空)』の識です。「庸」を、朱子は「平常」と解釈しています。より、一般的には、「易(か)わらないこと」を意味します。生禿的には、物事の恒常(法/法則)を見定めることだと理解しています。
中道は、仏教用語で、極端な/特定の概念に偏らない自由な立場/視点による仏道修行を意味します。「苦」「楽」のふたつをニ受(にじゅ)、「有る」とか「無い」という見解を二辺(にへん)と言いますが、そのどちらにも囚われない、偏らない立場が「中道」と理解されます。
また、アリストテレスの「メソテース」が、仏教の「中道」と通じるとも言われます。「ニコマコス倫理学」で、人間の行為や感情における過不足を調整する徳としてメソテース(中間にあること)が挙げられています。英語では“GoldenMean”。アリストテレスによれば、この徳性が「思慮」(実践知)です。
どの時代でも、何処であっても、最適は「あるがままの真ん中」、現実の常識の中にあります。
生禿は、「中道」から「最大多数の最大幸福」を思い起こします(ちょっと変ですが)。ベンサムの、「快楽や幸福を生むものが善であり、苦痛や不幸を生むものが悪である」「社会の善は、その構成員の善の総計である」という考え方は、論理的には定義不能ですが、現実的には「何とはなしに」理解できます。それはまた、「社会全体が幸福にならなければ個人の幸福もありえない」という性善説に基づく楽天的な人間観に立つものです。
生禿の「中道」は、楽観的なところが、お釈迦様とは正反対です。 全ての世帯に月収45万円を、「出来る」と信じています。そう思わなければ、絶対に実現しませんからね。
【四季の言葉 − 田植え】
田を植える人=早乙女
稲作に関する労働や習慣には神が関わり、多くは村落共同体全体のこととして行われてきました。中でも田植えは重要な神事であり、まつりだったです。