「言語の脳科学」 酒井邦嘉著 2002年 中公新書
タイトルに反して、この本はノーム･チョムスキーの「人間の言語能力は、脳の生得的な性質に由来する」という教義を解説する著作になっています。
「はじめに」で、「私は大学で物理学を専攻し、大学院では生物学と生理学の研究を行った」と、科学を身に着けた人間であることを強調しています。そして、科学の知識と技術を身に着けても、科学の魂の無い学者は大勢います。著者は、「言語物理学」を標榜していますが、物理学を科学の基準だとする認識は『思考停止』以外の何物でもありません。
著者は、「言語のサイエンスを始めるには「○○主義」の呪縛が解けなくてはならない」と述べます。これは明らかに間違いです。この人は本当に認知科学を学んでいる？！科学以前に、物の見方考え方(思想宗教)が定まっていなければ、我々人間は『何も見えない』のです。そう言う認知科学の基本的な事実を無視した物言いは、ワロタwwwとしか言えませんね。自らチョムスキー信者であることを明らかにしているのだから、遠慮なしに思想宗教の違いで片付ければいいのに。
「言語のプロセスの大半は意識に上らないまま進行しているので、言語そのものを内観法で調べられない」のが、言語研究の難しさです。この本でも、その苦しさは、余す所なく表現されています。まず、「言語において、無意識的なプロセスが意識的なプロセスを生み出すのか、またはその逆なのかがまだわかっていない」という述懐からこの本は始まります。
この本を読んだ成果は、手話が自然言語であることを知ったことです。「言語の科学の主要な対象は音声言語と手話である。手話も自然言語である。文字には、表音文字だけでなく表意文字もあるので、文字の定義は一定ではない。文字は、人間が発明したものだから、科学として定義を与えることにはあまり意味が無い」。
言語能力について著者は、正統派の進化論で説明します。「舌下神経管の太さは、現代人は類人猿や類人よりも２倍太く、３０万年以上前の化石人類は現代人並みだった」。「言語が何かの必要性から生まれたと考えるのは誤りである。人間は脳が進化したから言語を使えるようになったのである」。「母語における文法の獲得や使用は、無意識に行われるのに対し、第二言語は習得するときに意識的な反復学習が必要である」。
著者は、言語処理について、モジュール仮説を採ります。チョムスキー信者ですから当然ですが、それなりの根拠があることも確かです。まず、「思考は言語とは異なる働きである」。「ワーキングメモリーに障害のある患者でも、言語理解や文法処理は正常である」。「脳の機能局在を証明する古典的な手法は、機能Ａに障害、機能Ｂは正常という患者と、機能Ａは正常、機能Ｂは障害という別の患者が存在するという二重解離である。ブローカー失語とウェルニッケ失語はその典型例である」などの、基本的な知見が整理されます。
次に、漢字と仮名についての興味深い障害に言及します。「「煙草」が読めて「たばこ」が読めない」。「漢字と仮名の問題は、日本の失語症研究が世界的に有名になった例である」。これは、「漢字と仮名の読みに対応する独立したモジュールがあるという仮説」を導きます。
そして、欧米では「一つ一つの文字は知覚できるのに、文章を正確に読めない」という障害が多く、「欧米では全人口の５％から１０％もの患者がいる」そうです。初めて知りましたが、患者は明らかに社会的弱者であり、その社会保障は大きな負担になっているのでしょうね。
「チョムスキーの先生だったハリスは、文と文の意味関係を規定するために「変形」という考えを導入した。文の要素を、名詞はＮ、動詞はＶ、のようなパラメターを使って定式化した」。チョムスキーの生成文法は、ハリスの変形文法を元にしたものです。
この著作で最も興味深かったのは、以下の記述です。「最も言語の多様性が顕著なのは、パプア･ニューギニアとアフリカ中部の熱帯地帯である。それぞれ千以上の言語を含み、互いに話が通じない」。昔から、言語の多様性を疑問に思っていた生禿としては、興味津々です。
最近の脳科学の新しい知見は、その多くが脳機能イメージングによってもたらされています。「血液中のヘモグロビンは、酸素が結合した状態(酸化ヘモグロビン)と離れた状態(還元ヘモグロビン)で磁気的な性質が変わる」。「ｆＭＲＩの空間分解能は１ミリメートル程度、時間分解能は数秒以下である」。「生きていて変化する脳の状態を見ると、脳の働きを知る手がかりが得られる」のです。但し、「人間の脳をニューロンレベルで調べられる技術は無い」のですが・・・。
手話についての記述は、興味深いものがあります。「日本で一般に使われている手話は、ネイティブ･サイナーの使う日本手話だけでは無い。健常者が参加する、手話サークルや講習会では、日本語語順に従って手話単語を並べたもの(シルコム)を使っている」。「聾者の使う日本手話と、中途失聴者の使うシムコムは、違う言葉なのである。テレビで見かける手話の放送は、日本手話ともシスコムとも違う人工言語であることが多い。これは、聾者と中途失聴者の両方に理解できるように、日本手話とシスコムの折衷案として工夫されたためである」。そうなんだ。
そして、「周りに言葉が無くとも、子供たちは言語を創ってしまう能力を持っている」「日本でも、明治初期の聾学校でマイムがクレオール化することにより、日本手話が生まれた」。おぼろげですが、言語が多様な背景が理解できました。『言語は自然発生し得る』とすれば、ある時ある所で、突如として新しい言語が生まれる可能性はあるからです。
「生後間もない乳児は、初期状態の聴覚能力として、世界の様々な言語で用いられる普遍的な母音(１３種類)を聞き分けられる」「生後１２か月頃で母語以外の言語に対する識別能力を失う」のだとすれば、世界にある様々な言語は、遺伝的に用意されていたからこそ成立したことになります。
それに、バイリンガルについて、「そもそも両親が異なる言語を使っていることを、「○○語」という概念を持たない１、２歳の幼児が分かるはずがない」という指摘は尤もです。
では、チョムスキーは正しいのか？それは、解りません。ですが、現時点で、間違っているとも言えません。注目すべき、面白い仮説だと言えるだけです。残念ながら、言語学は、ここ４０年(生禿の学生時代から)大して進歩していないようです。難しい研究分野ですね。
