昨日は講義の日でした。

大学のシャトルバスがあると聞き、昨日はバスで行ってみることにしました。これだと、何回も電車を乗り換えずに済むので楽です。

確かに乗り換えは少なく楽でした。でも大問題があります。ギリギリの時間にしか着かないことです。「間に合う」のですが、遅刻しないで教室に入れるだけでは、授業の準備ができません。準備作業そのものは、アシスタントの先生がやってくれていますが、それで済むというものでもありません。という訳で、バスに乗りながらヒヤヒヤしていました。ウブな生禿としては、もうドキドキものです。

開始5分前に教室に飛び込んで、パワーポイントのファイルをアシスタントの先生に渡します。ヤレヤレと思ったら、今度はパソコンが不調でプロジェクターの投影ができません。アシスタントの方が事務所に代械を取に行きます。その間、用意した投影原稿なしで授業をします。朝からのドキドキもあって、話がトっ散らかります。

しかも、今日は一連の講義の中でも、最も難しいテーマ「QOL(クオリティオブライフ)のマーケティング」です。生活の質…、まずは…「健やか」であること。では…、「生きている」とは、どういうことか…。話は哲学(宗教)になっていきます。

細胞分裂

例えば、上図を見て下さい。単細胞生物のAが細胞分裂で増えていきます。さて…、Aは「いつ死ぬのでしょうか?」。そうなんです、西洋人が「命の本質」と考えている「自己増殖する」もの=生殖細胞は、これと同じ細胞分裂で無限に増殖します。多細胞生命体の中で無限に増殖するという意味では、癌細胞と同じ仕組みです。西洋の発想では、生殖細胞という永遠に生きる「生命の本質」に、死すべき個体(我々の一人一人)は「使い捨て」にされるのです。乱暴に要約すれば、これがノーベル生物学者ドーキンスの「利己的遺伝子」です。

ゴータマ・シッダールタは「命とは、蝋燭と炎のようなもの」と言われています。「蝋燭と炎」は不可分一体で「輝く」のです。勿論、蝋燭は個体、炎は生殖細胞です。炎が無ければ蝋燭は、蝋燭とは言えません。炎は、蝋燭が無ければ炎として存在することはできません。命の本源は、この全体なのです。

命(炎)は蝋燭から蝋燭へ、受け継がれていきます。では、命は「いつどこで始まったのか?」。誰が最初の炎を点けたのでしょう?そのマッチを擦ったのはプロメテウスなんでしょうか?このような考え方は、一神教の考え方です。全能の神が全てを作る。宇宙にも命にも「始め」が出てきます。この宗教に属するのが「ビックバン予想」です。事実による根拠が何もありませんので、「ビックバン」は仮説ではなく予想です。

問題は「始め」ではありません。問題なのは、「始め」があれば「終り」があるということです。この終りは、「この世の終わり」です。そして、終末論の教義はオウム真理教と同様に「殺戮」を再生産していきます。十字軍を引合いに出すまでもなく、終末論を持つキリスト教は、少なくとも何千万人という人々を虐殺してきました。そして今も…。それが一神教の終末論の必然です。

「この宇宙にも生命にも、始めも終りも無い」「今と言う永遠が在るだけだ」というのが生禿の「教義」です。「始めと終り」は、科学では解明できないことですから「宗教」です。宗教を非科学と見下す非科学人間は、学問世界の「標準理論」だというだけで終末論を受け入れてしまいます。そしてその結果としての殺戮も。

世界保健機構のQOLの測度に「宗教での魂の充足」が入ったのは当然です。モスリムの学者が強硬に主張したので“spiritual”が健康の必須条件になったいうのは見当外れでしょう。人間は、無宗教では生きてはいけません。日本人の多くは、無宗教という邪教に侵されています。

軽重文化改

生禿の宗教は、縄文のアミニズム(天照ではなく八百万の神々への信仰)です。ケルトの精霊と同根です。生禿が、ファイナル・ファンタジーではなく、ドラゴン・クエストなのは、そういう理由です ← そっちかい!