「俳句と川柳」 復本一郎 1999年 講談社現代文庫

 最近、良い句ができないで苦しんでいるので(最近だけじゃなくて、ず〜と出来ていないという“真実の”突っ込みは入れないように!)、抜け出すヒントを得ようと読んでみました。お陰さまで、「川柳とは何か」が少しは見えてきました。ありがとう御座いました。

 以下は、この本の要約です(*を付した部分は生禿が調べた部分です)。


むめが々(梅が香)にのっと日の出る山路かな 芭蕉
 * 余寒の山路を歩いていると、まるで梅の香に誘われるように、忽然として暖かい太陽の光が射してきた

 俳句のルーツは発句であり、川柳のルーツは平句なのである。川柳は、七・七の前句があり、それに応えての付句である。

朝顔に鶴瓶とられてもらひ水 千代女

 俳句には、「切れ」があることによって、一句は、二重構造と完結性を獲得し得る。俳句の下に「かな」を付けてみた場合、すんなりと意味が通ってしまうのは、切れていないのである。

さやかなる月を隠せる花の枝

 俳諧の付合の前句を省略した「武玉川」「柳多留」は、俳句になる前の段階。投稿(要投稿料)よる柄井川柳評の景品付きの点取俳諧の「万句合」は、「川柳点の前句付」と呼ばれ、「川柳」という呼び方の元となった。

ふる雪の白きをみせぬ日本橋

本ぶりに成って出て行く雨宿り

餅のほかふくれっつらせぬ三が日 ごまめ

 発句と平句の違いは、発句は、季語と切字(切れ)が必須の条件とする。平句は、季語を必要としないし、切字は拒絶することにある。

道問えば一度に動く田植笠

どうしよう蚊がきて止まる子の寝顔 *現代風に言葉を改めてみました

偽善らしいからと乞食にくれず行き 久良岐

美人去ってカルタ会散会し 瓢哉坊

厚化粧して涼みとは解せぬなり 丸謄坊

一ぺんはどうせ死ぬさと鰒(ふぐ)を食い
 * 一遍とは「一にして、しかも遍く(あまねく)」。南無阿弥陀仏を一遍(一度)唱えるだけで悟りが証されるという教義。

見合いの写真二三年前のやつ 佐久良

 剣花坊の「時事批評」は、川柳は風刺・批評(穿ち)であることを示した。詩情は乏しいという面もある。川柳は「うなずかせる文学」、俳句は「感じさせる文学」である。また、俳句は自然詩であり、川柳は人事詩である、という傾向がある。

海岸の松は逃げ出す姿なり

 切字は、句に完結性と二重構造をもたらす。切字には、句中にあるモノローグ(独白)の「切字」と、句末にあるダイアローグ(対話)の「切字」がある。[首部+飛躍切部]で、二つの世界をぶつけることにより、「二重構造」をもたらす。そして、距離が離れているほど面白い。

 日常用語で使われていない「かな」「けり」「や」といった、切字の使用率が下がっていく。

秋の蝶 山に私を置き去りぬ 阿部みどり女

この人の欠点はただ自慢ぐせ 仲川たけし

ご意見はともかく灰が落ちますよ 野里猪突

A4で45枚ほどの恋ごころ 今川乱魚

あなたとのままごと道具整理する 広瀬ちえみ