ワイルの「空間・時間・物質」を読んでいてつくづく感じたこと。数理(抽象)と物理(具体)との混同が現在の物理学の混迷を招いています。数理としては妥当でも物理では不当。物理では適切でも数理としては疑問。それらを混ぜこぜにすると、わやくちゃです。それらについてまとめてみました。
1)多様体の個々の長さは「足せる」のか?
即ち、多様体の「長さの単位」は一意に定まっているのか?
擬真空の密度が一定でないとしたら、物体の長さは多様体の個々の断片で変化します
異なる密度の空間にある物体(≒空間)を「足す」方法はあるのか?
密度の変移する擬真空(空間)に座標を定める方法はあるのか?
2)空間を物理としてどう定義できるのか?
一定の仮定(公理系)の下で、幾何学は成立します
リーマン幾何は、「ユークリッド幾何」を含む「汎幾何学」です
なのですが・・・
擬真空とは何か?が解き明かされないまま、物理としての空間をどう定義するのか?
零点力量が変移し、質量の密度も異なる空間では、物体の長さも速さも変わります
ですから、長さと速さで定義された現在の「時刻」は、その「場」限りの時刻です
それ以前の問題として、空間とは一体なんなのか?
幾何では、それは“架空”の存在です 〜 何もない空っぽな容物
物理では、それは物質です
全く異質な概念を一緒くたにしているのですから、出鱈目になるに決まっています
幾何では、それは“架空”の存在です 〜 何もない空っぽな容物
物理では、それは物質です
全く異質な概念を一緒くたにしているのですから、出鱈目になるに決まっています
3)電磁波は真空を定速で伝播しないのでは?
光子の運動質量は零ではありません
運動する光子は質量を持ち、重力を感じて重力レンズ効果を生じます
光子は静止することはありませんので、静止質量は無意味です
擬真空は「何も無い」どころか、膨大な力量と質量の源です
電磁波は「真真空」の中を伝播できません
電磁波は媒質によって速度を変えます(赤方変異/ドップラー効果)
擬真空≒宇宙空間という媒質を伝播する電磁波も定速ではあり得ません
マクスウェル方程式で光速は、どうして定数として出てくるのでしょうか?
光子は「とても軽い」ので、電磁波は速く動けます
宇宙や大気の密度は疎なので、ある上限に近い速さで飛べるだけ?(実は変数)
ボゾン(力素)は走り、フェルミオン(質源)は留まるのは何故か?
スピン1/2とは?その本質は一体何なのか!
「物体は場(空間)の中を動く」「波動は場の振動そのもの」
エネルギーが移動するのが波で、物質は「その場」を動いていない
では、物質が動く波と、擬真空が伝える波はどこが違うのか
媒質を一定とすれば、音速も光速も不変なのは当然のこと
4)何故?時刻は一次元なのか?
空間の次元は何次元でもアリなのに、時刻が一次元のままなのは何故か?
時刻は、長さと速さから「こさえた」次元だからです
「時刻」次元は、実体の射影ではなく、一つの計算結果に過ぎません
5)等方で一様ではない空間(擬真空)の中でも、運動方程式は作れる筈です
等方一様な領域(内界)を仮定します(あくまでも仮定)
その外界の情報は境界で得られるとします(近似は禁じない)
内界に限って言えば、運動方程式は一意に定まる筈です
内界を平坦と仮定し、その補正としてリーマン多様体と用いることは許容される?
内界と外界の時刻は異なるので、時刻を統一する術は無い
それがどのようなものになるのか?
一般相対性理論は、古典力学の補正の役割しか持っていません(ブラックホールは、意図しなかった「オマケ」であって、アインシュタインが意図したものではありません)。「時空の歪」などいう大衆受けする話題を提供したから影響が大きそうに感じますが、物理として大きな位置づけは持っていません。
パチンコ玉の大きさに縮んだ太陽の中も空間。現在の地球の大気も空間。地球上に居る私が、元太陽の中に入ったら目に見えない程に小さくなる。この二つの空間をつなぎ合わせた時、「距離」という概念は成立しません。「物理」は、「近傍」でしか成立しないものなのです。
素粒子の物理(量子論)は、実験結果で検証され、物性物理と結びつき現実世界にも様々な影響を与えています。その発展である、超弦理論は統一理論としての期待されています。
私が目指しているのは「空即是色」の物理です。音や色や熱などはこの宇宙に実在しません。私達は、この宇宙の真実を感じ知ることができません。私達にできるのは、私達の「識」が「真」に対する何らかの射影となっていると仮定した上で、「真」を直接に知ろうとせず、「識」の範囲内で、私達の現実感において腑に落ちる、「理(ことわり)」を見つけることです。
射影としての「理」ですから、「真」であることを保証しません。我々の識≒経験の中で、矛盾の無い説明であれば、複数の「理」が成立します。その時は、その中で「計算」が簡潔なものを「妥当性と共有性が高い」と評価します。
上記の観点から言えば、現在の物理学は妥当性の低いものです。一部の「計算結果」は実験結果を説明してはいても、その知を共有することが困難なものになっています。「学」の根本としてそれは「間違って」います。超弦理論も一部の結果は「合っている」けれど、その計算過程(理論)は妥当ではないと思われます。
では、共有すべき物理は、どのように定義され、どう表式されるのか?探求の旅は続きます。まずは、人間に見える世界で、少なくともマクロな領域では整合性のある物理が描ければ・・・と考えています。
人間には平坦で線形な世界しか理解できません。無理やり人間の理解を超えた世界を描こうとしても「歪んだ」ものになるだけです。高次な世界を想定しても、結局は3次元空間に射影するなら、最初から三次元で充分ではないのでしょうか。この宇宙が何次元なのかはどうやっても不明なのですから、人間が感じる次元の理論しか必要とはしていないのです。
高校数学で解る、簡潔な表式が必要です。とは言え、双曲幾何の美しさには「何かある」と感じます。中央アジアの原始アーリア人に発する自然哲学に学んだであろう古代ギリシャ人も円錐幾何を楽しんでいました。ミンコフスキー空間と双曲幾何の計算上の一致は何を意味するのか?物理とは別の次元で、数理の美意識として興味があります。
ミンコフスキー時空の「時刻」は、光速不変を前提にしていません。光速が変動しても成立します。ミンコフスキー空間は、「時刻」を空間化する「計算技法」であって、「時間」について論じる際に考慮しなければならないものを何も含んではいません。従って、光速が不変でなくても使える便利な計算法として、今後も「使える」のです。
素人には責任も納期もありません。「ぶっ飛んだ考え」を思いつき、それを追求しても、教職を追われたり、科研費が貰えないことを心配する必要はありません。だから、「玄人を超えなければ素人ではない」のです。研究の玄人には玄人の役割と責任、そして達成感があります。素人にも役割と、そして快楽があります。
往々にして、革新は素人から生まれます。その可能性は、万二つです。その当てにならないワクワクを味わい尽くす無責任な快楽が素人にはあります。玄人のような考え方をする素人なんて、何の役にも立ちません。タダの暇潰しです。カルチャーセンターに通う暇人です。私は素人ならではの快楽を味わい尽くしたいと思います。
最後に、この宇宙の成り立ちについての「仮想」を述べます。勿論、ビッグバンなどという邪教は否定します。宇宙に一様に存在する背景放射は、ビッグバンを否定しています。ビッグバンがあったとすれば、背景放射が一様である筈はありません。
常遍の「今(無)」(=無限な時間=ズルワーン)の「揺らぎ」から、「空」(=有限な擬真空)が広がります。「空」には、「果てしない(≠無限)」「力」が偏在します。「空」の揺らぎ=「力」の顕在は、力素と質源が励起し、運動と物体が生じます。
物質は空間になります。空間には(物質と同様に)大きさと重さがあります。運動は時刻の計測を可能にし、事象(出来事)の記憶が「過去」や「未来」を想像します。
現代の物理学は、古代ギリシャの天球やエーテルを復活させているように見ます。何故?こんなに似ているのか!人間の感覚は変わっていません。宇宙の実態はともあれ、それを感じる側の性質が、物理に映されるのは当たり前。我々は、我々自身の「感じ方」と「世界の在り方」を分離できないのですから、し方ありません。この宇宙の在り方は、人間の観照の結果であって、この宇宙そのものではないのですから。「真理」という人間が作った「虚構」を楽しみ遊ぶ。それが学ぶということです。
やっと梅雨明けしましたね。