「時間は後戻りするか」と「リーマン幾何入門」を読んで考えたことをまとめておきます。

 時間は実在しません。「時」は常に「今」です。人間の認知(記憶)により、過去や未来が想像されます。数理としては、「零次元」。この「今時-点」の軌跡が「仮想-時間(一次元)」になります。何らかの周期運動で計測する「時刻」を、「時間」の測度と見做します。図示もできるし、計算もできる。物体と運動の時間発展を表式することもできてしまう。「時間」は幻想だけれども、人間がこの世界を理解するには必要不可欠なのだと思われます。なのですが、実在しないので、縮もうが歪もうが「カラスの勝手」なのか?これをどう扱うべきか?さっぱり解らない!

 座標は、物質空間に貼りついているのか、それとも絶対尺度として物質とは対応せずに仮定すべきものなのか?物質に貼り付いていれば、物質の密度の揺らぎで座標の尺度は不確定になり、計測も計算も不能になります。物質空間と切れた絶対尺度なら、現実の物理を表現することはできません。座標とは何なのか?全ての空間は「アフィン空間」であって、計測不可能なもの。人間が理解できる写像を「捏造して」、有用な理解(近似解)を得るにはどうすればよいのか?リーマン幾何はその解答なのだと考えていましたが …、そうも思えなくなりました。

 極限概念の「乱用」。大局の「曲がり」を、極限の「平ら」を繋ぎ合わせて計測する。「理屈」としてはあるのだが、本当にそれは「論理」と言えるのか。極限≒0を無限に繋ぎ合わせても0ではないのか?線形なもの=平坦なものしか理解できない人間が、「曲がっているかも知れない」ものを理解できるのか?現実を描写できているのか?

 数理と物理の乱暴な混ぜ合わせが、実在とは無縁のものとなっていないか?ある現実の一面を射影として捉えて、部分としては辻褄があっているとしても、全体像は理解できないままではないのか。その一部が、加速器実験で「実証された」として、それが本当にこの宇宙の実在を捉えたと言えるものなのか?それは本当に現実世界なのか?
 小さいもの(微分≒無限小:極限)は「真っ直ぐ」で、「真っ直ぐ」なものは「足せる」。これにより、大局の曲がった/歪んだものも計測できる、という理屈。解るけど割り切れないところが残りますよね。本当に測れるの?

 変分理論も同じ。余計なことをしなければ、無限小の動きの運動ポテンシャルは不変。無限小の変化=運動ポテンシャルの変化がゼロの経路をつなげば、最短経路になるという理屈。これも解るけど、大丈夫なの?という不信感がありませんか?

 無限を回避するのが理論物理学の課題というけれど、微分によって、極限という無限を取り入れています。これって矛盾してない!?と思うのは私だけ?

 リーマン多様体がスッキリ理解できれば、時空の理解も進むと考えたのですが …、微分を乱用することに対する疑念が強くなっただけでした(感覚として見通せる微分方程式は大丈夫だと思うのですが)。

 高校生の頃、エントロピー増大の法則を知って考えたこと。生物がこの宇宙に誕生した理由は、この宇宙の絶対均衡=エントロピー増大を促進し、宇宙の均質化を早く実現するため。その為に、人類のように資源を無駄遣いする「知的」生命体が出現した。絶対均衡は宇宙の「死」であると同時に、絶対の「安らぎ」なのではないのか?

 粒子の非線形な相互関係(相関)が、大局の非平衡な振る舞いをもたらします。エントロピーの増大もカオスも創発現象も、日常世界の範疇であれば、感覚で捉えられる物質の体制の変化として、「現象論」で捉えることができる筈だと考えられます(カオスは計算機で力づくで結果を出すので、現象論ではありませんが)。

 根源から一貫した数理を、線形な数学で扱うのは無理があるのではないか(数学は結局は線形なものしか扱えないのだが)。であれば、非線形な現象を、あくまでも「現象」として捉える。「熱」は実在しないけれど、熱の現象は「熱力学」という現象論で、今日に至るまで改変を受けずに、見事に説明しています。

 遠回りにはなるけれど、熱力学のような現象論に立ち戻って、考え直してみようか?と思い始めています。