以前から訪ねたいと思っていた保渡田古墳群。やっと行ってきました。女房と一緒に。

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 保渡田古墳群は、高崎(群馬県)駅からバスに30分以上揺られてやっと到着です。

 古墳時代前期(4世紀)まず、東海地方を起源とする前方後方墳が造られました。続いて、大和を起源とする前方後円墳築かれています。土器で見ると、群馬県独自のもの、次に東海西部の流れをひくものが定着し、やがて大和の力が及んだと考えられるそうです。現在の天皇家を形成した大和朝廷以前にも、中国大陸から、朝鮮半島から、皆殺し遺伝子を発言させた弥生人達が押し寄せて、皆殺し合いを行っていたようです。

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 八幡塚古墳。当時は東日本有数の古墳で、6000本以上の円筒埴輪が立つ重厚な古墳だったといいます。なにしろ埴輪群像が可愛い。何故か生禿は、弥生人は嫌い(日本国民の大部分がご先祖様を皆殺しにした敵ですからし方ありません)なのですが、埴輪だけは好きなんです。

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 墳丘は、三段に築かれています。堀を掘った土と近くから集めた土を盛り上げ叩き締めて築かれ、斜面には川から採取した石で葺き(葺石)、中段平坦面玉石が敷かれています。

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 保渡田古墳群の古墳は、外堀と内堀と中島を持ちます。内堀の中の4つの中島は、祭祀(葬礼儀式)の場(あるいは、陪塚)と考えられています。

 西には浅間山。手前に二子山古墳。その麓に、古墳時代の水田跡があります。東には三井寺遺跡と古墳時代の集落跡があります

20201123X5s065舟形石棺
 八幡塚古墳の頂点から降りたところに舟形石棺。脇には副葬品室がありました。

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 さて正午も過ぎ、お腹が空いたので公園内の土屋文明文学館の二階にあるレストランへ。高崎の駅前でなにか食べようかと思っていたのですが、バスへの乗り継ぎで時間がなく、調べた限り「一軒きりの観光地のレストラン」という危険な選択になってしまったのです。

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 食べたのはオムライス。これがフワフワで … 見事に期待を裏切って、美味しい !(^O^)! 感動しました。高崎駅前で慌てて食べなくて良かった〜〜〜。

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 デザートも美味しかったのですが、なんと言っても凄かったのが、珈琲への拘り。沢山の種類があって、どれも飲んでみたくて、選ぶのに苦労しました。私が選んだのは、「コスタリカ セントタラス ガンボア農園」。「上品で良い香り」の説明通りの味と香り。堪能しました。考古学に興味のある方は(という人はもう訪れているでしょうから、そうでない方も)是非是非、保渡田古墳群を訪れて、古墳群を見ながらここで珈琲を味わって下さい。最高の一時をお約束します。

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 この古墳群の埴輪で特徴的なのは、こういう盾を持つ武人です。頭が尖って … タンポポの花が載っていて ← 誰が載せたの? 最も心惹かれる造形です。

20201123X5s131 20201123X5s146埴輪列と埴輪の立て直し.JPG
 二小山古墳。ここは復元はされていません。脇には、埴輪列と埴輪の立て直しを説明する展示がありました。

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 遥か向こうには山々が連なっています。

 放送大学の講座「考古学」で、この古墳群の発掘-復元-展示が取り上げられていた理由が、現地を見て腑に落ちました。仏像などでも、作った当時の「キンキラ」に復元したものを嫌う愛好家は少なくありません。そういう人たちは、「当時の人たちが、何を思って作らせ、それを見た人たちが何を感じたのか」という考古学としての知見には全く関心がなく、ただ古ぼけた=「古いというだけの価値」をありがたがっているだけの知性も感性も貧弱な哀れな人たちなのです。

 この古墳群を発掘-修復/再現-展示するにあたって、復元して当時の人々と同じ「すげ〜」を感じさせる古墳と、保存するための修復に止めた古墳の両方を見せています。お見事!女房とそこのところの感動を共有しました。考古学に関わる人が、絶対に訪れるべき場所である理由を理解しました。

 かみつけの里博物館。解説が適切で、この古墳群を担当した学芸員の水準の高さに感心しました。

20201123X5s181水田 20201123X5s183
 古墳時代には、榛名山山麓は水田化されていました。5世紀の水田は、畳二枚ほどの小さなものだったそうです。

20201123X5s192蒸し器
 蒸し器。 榛名山当南麓一体は、噴火によって火山灰でパックされていました。出現した、古代の集落の跡から、当時の人々の暮らしが蘇りました。

20201123X5s196飾履 20201123X5s203
 渡来系の遺物も発掘されています。これは、飾履(靴)。金メッキした銅板で作られ、ガラス玉をあしらってあります。底にもガラス玉が付けられ履いてあるくことはできません。

20201123X5s219盾を構える人
 盾を構える人(保渡田八幡塚古墳)。頭上に横棒を載せたものが多い。魔除けの埴輪と考えられているそうです。

20201123X5s224鎧を着た人物 20201123X5s228
 鎧を着た人物(箕郷町上芝古墳)。杯を差し出す高貴な女子(保渡田八幡塚古墳)。

20201123X5s234盾持人
 盾持人。何とも言えない表情です。

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 八幡塚古墳の築造工事の様子を推定復元したジオラマ。王の生前から造り始められたようです。

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 馬に下げる鈴付けの飾り(保渡田薬師塚古墳)。馬もこんな重荷に耐えていたんですんね。お疲れ様です。

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 バスが来る時刻まで、中庭の埴輪を眺めながらのしばしの休息。

八幡塚古墳 パンフレットからお借りしました
 これは生禿の勝手な妄想なのですが、(エジプトのピラミッドでもそうですが)多くの人々は古墳作りに一方的に駆り出されたというのではないような気がします。勿論、強制だったに違いはないのですが、この苦役に参加することで、田圃を一枚与えられたとか、そういう報酬があったのではないかと想像しています(そのためにあんなに田圃が小さかったのではないかとも妄想しています)。そうやって、権力に対する服従心を植え付けていく。アメとムチです。服従が浸透すると、そのような「装置」は必要なくなる。そうやって大和朝廷が完成していったのではないかという訳です。