明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い申し上げます。

H270102s142


 どういう訳か新年早々の物理学です。お許しあれ・・・。

「時間という謎」 森田邦久 2020年 春秋社

 著者は、物理を学びながら哲学に堕落した?人物。それでも、自然哲学を目指してもがく姿には好感が持てます。


 人間の認知は、現実世界という実体の写像、実地の地図であるとしましょう。我々は射影を現実だと勘違いしているのかも知れないのですが、それしか知覚できないのだからし方がありません。人間が意識できる世界は、時間と空間という枠組みの中での意識。時間や空間が実在しないことが理解できたとしても、時間の枠組みに囚われ続けるのでしょう。その構図をどうやって物理として表式できるのか?それが難問です!

 現時点での生禿の考え方=自然哲学をまとめておきましょう。← こういう個人的な内容はブログに載せるべきではないかも知れませんが、いつでもどこでも見られる忘備録として使っているので悪しからず。


 時間の問題を、現代物理≒計量の問題として捉えるならば、結局は「広がり」をどう捉えるのかという問題に帰着します。

 物理学は微分と積分を導入することによって「質点」から、「線」へそして「面」へと扱う範囲を拡げてきました。空間だけでなくそれは時間でも同様です。時間での微分と積分は、物理計量の中心です。「時点」から「時間」への流れは、物理学を物理学たらしめたと言っても過言ではありません。

 微分と積分とは、究極として「極限」という「怪しげな」ものを受け入れるか受け入れないか。もっと簡単に言ってしまえば、実際の問題として「零(空)」と「無限(常偏)」を受け入れるのかどうかという問題だと思われます。

 極限という概念は、「学校で教わった」「偉い学者が言った」から「正しい」と信じている、科学とは全く無縁な人々=科学という宗教の信者にとっては疑問の無いものなのかも知れません。ですが、自然哲学を目指す生禿にとっては「極限」をどう捉えるかが大問題なのです。

 そもそも「時点(=現在)」にしても、「質点」にしても、長さのないもの、広がりのないものですから、この世に実在しないものです。実在しないものから出発した計量は科学たり得るのか?

 「現時点」は実在しません。あるのは「事象の知覚」と「事象の記憶」です。それを扱うのは、純粋に神経科学〜認知科学〜心理学の問題、哲学の問題であって、科学の問題ではありません。物理が全ての学問の根本なのではなく、人間が何をどう捉えるのかという心理学が物理学の基盤となっているのです。

 心理学の結論として「時間とは〇〇と認識されるものだ」ということになれば、物理学はそれを基盤として計量していけばいいだけです。

 一方で、「極限」の問題、無限と零(空)の問題は「哲学の領域」と考える人もいるでしょう。生禿も同感です。但し、この場合の哲学は、認知科学や心理学と同義です。

 極限(零と無限)を中心に、世界の生成を妄想してみましょう。世界は常偏に生成-消滅され、始まりも終わりもありません。世界は拡がり、縮まります。ある宇宙では膨張を続けているように見える時期もあるでしょう。それが、我々が住む「この宇宙」です。

・無の無限の揺らぎから空(場)が生じる
 無*無限=空 〜 0*∞=φ
・空の揺らぎ(励起)から有(力)が生じる
 空*無限=有 〜 φ*∞=1
・空(場)の接続から力がいつでもどこまでも拡がる
 有/空=常偏 〜 1/φ=∞'
・力の場が励起して質(粒子)が生じる
 空*常偏=質 〜 φ*∞'=1.

 「無」は「無い」ので無限に広がっています。無限の広がりから「揺らぎ:演算子*」が生じます。「空(場≒今この(場)所)」は空っぽではありません。ですからその「揺らぎ」は「力」を生み出します。その時に、「虚」の力も生まれるのか?空と虚は共役である可能性があります(揺らぎによって生じた虚の力と実の力の平衡状態への回帰が時間の矢だという解釈も成り立つのですが … 解りません)。「力」が生じれば、やがて質量を持つ素粒子も生成され、世界が現れます。

 生禿は、時間は実在しないという立場を採っています。実在しないのですから無限に広がっています。空間も、時間と同じ意味で「無」であるのか?まだ解りません。時間の無限の広がり、その揺らぎから生じた「空(場)」が空間である、と理解すればスッキリするのでしょうが、そこが未だ腑に落ちていません。

 以下はこの本の要約と引用です。哲学らしくくどくどとした言葉遊びの羅列が多いので簡潔にまとめました。また、*印は生禿の所見です。


《はじめに》

 現代物理学の成果も踏まえつつ、「時間は経過しているのか」について考察します。時間が経過するという立場を「動的時間論」と呼ぶ。その中で、過去や未来の存在を認めない立場を「現在主義」と言う。

 時間の非対称性には、熱力学と心理学(記憶は過去のものしかない)のものがある。非対称性と方向性は異なる概念である。静的時間論では、時間の向きは「記憶がある方が過去である」というように決めることができる。

《1. 時間の経過について》

 現在主義は現在にあるモノだけを認める。動くスポットライト説では、現在が出来事の系列の上を“動いて”いく、時間が経過する。現在主義は、必ずしも時間次元の実在を前提としない。時間が経過するとは、モノの性質が変化することだと捉える。現在を認めない時間モデルでは、時間が経過するということを記述できない。「この瞬間が今だ」という直感を現在主義は反映している。但し、現在主義では時間は経過していない。因果概念も成立しない。しかし、現在の状態の原因となる過去の状態は存在したのでなければならない。

*アインシュタインですら、空間と時間の次元は異質なものだとしています。時間は完全に空間化し得ない「何か」なのです。物理で論じているのは、計測概念としての「時刻」であり、「時間」では無いと考えた方が適切かと思われます。

《2. 量子力学と時間》

 波動関数の収縮とは、(相互作用によって)固有関数へと不連続に変化し、観測値が固有値になるということだ。波動関数は、物理状態ではなく、私たちの知識の状態を記述しているだけかもしれない。

*多体問題を統計でしか理解できないということと、この世界は統計で動いているということは、全く別の問題である。それは人間の認知の問題なのであって、物理の問題ではない。

 近接作用を否定は、非局所相関の肯定に等しい。*近接作用は局所性であり、点の集合に近似される世界の表現を与える。

 閉鎖系と言って良いのは宇宙全体のみである。閉じていると考えて良い系を「準閉鎖系」と呼ぶ。物理法則は相関関係(因果関係)を定式化したものであり、局所性が確保されていなければならない。

《3. 相対性理論と時間》

 時刻は時計によって計測される。波の速度は波源の運動状態にかかわらず媒質に対して一定である(これが、ドップラー効果が生じる理由である)。真空中の(*真空という媒質の中での)光速は一定である(*空気中を伝わる音波が同じ速度であるのと同じだ)。

 宇宙が閉じているならば、宇宙全体のエネルギーは零だとされる。動力(エネルギー)は零だが、ポテンシャルは負であり、打ち消し合う。この意味での「無」から、時空の大きさが有限な状態が生まれることができる。

《4. 相対性理論と現在》

 無からの創世が正しいならば、多数の宇宙がある(*それらの宇宙の全体が宇宙ではないのか?)。もじ時間に始まりが無いなら、動的時間モデルは不可能である。

 物理学には「時間の経過」という概念が含まれていない。時間が経過しているように感じることと、実際に時間が経過していることの次元の異なる問題である。

《5. 熱力学と時間》

 ルートヴィッヒ・ボルツマンは、統計手法を用いて熱力学第二法則を力学へ還元しようとした(H理論)。温度とは、物質を構成している分子の運動エネルギーの平均値である。

 熱平衡状態(エントロピー最大の状態)では、分子の速度分布がマクスウェル-ボルツマン分布になる。[S=klogW]Wはある巨視的な状態に相当する微視的な状態の数である。

 重力現象や化学反応でも自発的組織化は起こる。それを説明するのが自由エネルギーである。

 熱平衡状態の実現確率が高いとしても、確率の概念は時間方向とは無関係である。系全体が熱平衡状態にあっても、その一部が熱平衡状態に無い状態はある。つまり、私たちが観測している宇宙は、「揺らぎ」の部分である。宇宙が広大であれば揺らぎが存在する確率は高くなる。開放系では、生物の成長などのエントロピーの減少が起きる。

 インフレーションが生じるためには揺らぎが必要になる。均一でエントロピーが低い状態が実現する。インフレーションで生まれた宇宙は互いに因果的な繋がりが切れる(多宇宙仮設)。熱力学的な矢は、宇宙の膨張(宇宙の矢)に還元できる。記憶がある方向を過去と呼ぶ、世界の側に時間の方向性があるわけではない。

《6. 因果の向きについて》

 ネーターの定理は、保存則と対称性を結びつける。時間空間並進対称性は、因果律が成り立つためには不可欠ま要素である。物理理論には因果関係は内蔵されていても、因果の向きは組み入れられていない。因果の向きは世界の側にあると考えるべきだろう。

《7. 内在的時間方向について》

 経験的時間方向とは、熱力学や心理学の矢のことである。内在的時間方向とは、動的時間モデルが前提とする時間方向である。経験的時間方向と動的時間方向が一致しなければならない理由は無い。

 物理学には、出来事どうしの相関関係は存在しても、因果関係は存在しない。非対称性と方向性は異なる概念である。

《8. 時間のはじまりについて》

 時間に始まりが無いならば、時間は経過しない。宇宙の始まりは、時間の始まりと同一である。物理学が、宇宙に始まりが無いと結論するならば、動的時間論は否定される。

*時間は実在しない。従って始まりも終わりも有り得ない。宇宙にも始まりも終わりもない。時間の非在は、経験時間の無限に等しい。

 時間の始まりの前にも、別の期間が存在する。 カントは、世界が始まる前には「空虚な時間」があったと考えていた。世界は始まりがあるが、時間は無限定であると主張した。 「可能無限」は、可能的にしか存在しない無限である。

 時間と空間は連続である。*しかし、時間が純粋に心理現象であるならば、時間は不連続である。

 物理学が時間に始まりが無いことを示したならば、時間は経過しない。