さて、いよいよ守矢資料館です。
入ってすぐのところに、神長守矢家祈祷殿があります。守矢家の先祖は、出雲から来た大国主命の息子である建御名方命入諏以前からの土着の神と言われ、上社大祝を補佐してきました。
資料館の係りの方(おそらく守矢家の方)の説明では、御頭祭(現:酉の祭)は、神前に七十五頭の鹿、魚・鳥・獣の肉を盛り上げ饗宴を催すもの。江戸時代中期の様子を見聞した記録をもとに復元された。なので、本当の祭りの意義などは不明。一応「五穀豊穣」を祈る祭りとされているが、いろいろ調べて人それぞれに解釈するしかない、とのこと。この説明は当事者ならではのもので、流石でした。写真は耳の裂けた鹿です。耳裂けの鹿は、神の鉾にかかったと言われています。
伝説によれば、守矢家は、諏訪の地の土着の族長で洩矢神と呼ばれていたそうです。出雲より侵攻した建御名方命に破れ、神長となったとのこと。歴史上の事実としては、物部守屋の次男がこの地に移り住み「守屋山」の名前の謂れとなった、のは確かだと言います。
物部守屋は仏教を認めなかったので、聖徳太子らと争って殺されたとされています。ですが、守屋は仏教の導入に熱心であったとの説もあります。歴史は勝った者の歴史。元王家の物部氏を滅ぼす後付けだった可能性も少なくありません。でなければ、日本で最も古いお寺の一つである四天王寺に物部守屋の墓があるのは不思議ですよね。
そのような説を述べたら、係りの方は「ご夫婦でさまざな角度から調べられているようですから、それらを合わせて一つの解釈(説)を出したらいかがでしょう」「諏訪神社は解明されていないことが多く、結局は一人一人がどう解釈するかなのですから」とおっしゃっていました。この方との会話は、女房にとって、大きな収穫でした。研究も一気に進みそうな気配です。嬉しい!来た甲斐がありました。
鹿の代わりに猪の頭を使うことも許されていたようです。縄文時代、東北の大集落の生業は採集が中心。ですが信州は狩猟が主だったと考えられます。ですから、豊かな猟を願ってこのような祭りを行ったのではないかと考えられます。写真の弓は、重藤弓。古代の弓です。
なお説明していただいたところによれば「御頭祭」の「頭」は、捧げた鹿の頭のことではなく、祭りの当番になった「頭(かしら)」のことを指すのだそうです。
神長官邸のみさく神境内社叢の「みさく(みさぐち)神」は諏訪社の原始信仰。前述の様に、神長の掌る神です。みさく神は「御頭みさく神」とも呼ばれるそうです。「頭」の文字が気になりますね。縄文時代、いやそれ以前の信仰も守る諏訪。ワクワクする場所です。
諏訪神社の式年遷宮は令和四年。来年です。だから、静かな今年に来たのです。
境内には、贄掛けの欅などがあります。御狩の獲物を掛けて祈願をしたことから「贄掛けの欅」と呼ばれているそうです。狩猟民の伝統が残っていますね。
社務所で「鹿食之免」を購入。諏訪神社に関しては「鹿を食べても良い」という免除の証です。仏教を取り入れ、肉食を禁じた大和朝廷も、諏訪の信仰に手を出すのは恐ろしかったようです。諏訪神社は、大名などに肉を配って喜ばれたようです。
そうそう、社務所には「諏訪大社黒曜石みくじ」なるものもあって、旧石器時代からの何かを伝えているような気がしてなりません。
本宮の前のラーメン屋さん。本宮周辺で食べると所を探したけれどレストランなど無く、入った店。それなりに美味しかった。それに店の人の感じが良くて良かった!店の前の軒には鳥の巣があって盛んにヒナに餌をあげていました。
今回の旅は、本当に意義深いものになりました。女房の研究も進むでしょうし、私の信州地域の旧石器からの文化の継承についての興味も掻き立てられました。黒曜石の採掘跡や尖り石遺跡など、この地域の遺跡群を勉強したいと思います。