信濃の黒曜石の道[諏訪〜安曇〜富山〜出雲〜北九州]が、旧石器時代から縄文、弥生、古墳そして大和時代へ、様々な氏族の勃興とその伝説に彩られていたことは信濃の旅で確認しました(下の関連記事を参照)。

 そこで気になるのが、もう一つの黒曜石の産地、神津島からの道です。こちらは、旧石器時代から外洋航海によって本州にもたらされたことが注目されています。かつては、縄文人がこの経路で南洋からやってきたという説が出たほどです。人と物の来た道としては九州から日本海側を辿とともに、太平洋側の海の道〜陸の道を形成しています。

 ところが、神津島産の黒曜石の道には、目立った拠点がありません。勿論、神津島には採掘場の遺跡や資料館があるのですが、採掘に渡来することはあっても、定住したのは後世のこと。旧石器〜縄文時代の遺跡としては規模が小さく、見るべきものも少ない。行くまでもなく文献を見れば足りるという感じなんです。

 神津島の黒曜石交易の中継地点は伊豆大島。大島から本州の各地に運ばれました。主要な経路は、相模湾を北上するルート。相摸湾に臨む相模野台地に黒曜石の分布が多いことから推定されます。なのですが、黒曜石の加工拠点などで「見に行きたい」と思う程の場所はありません。これも、神津島の黒曜石についての文献を読んだほうが良さそうです。

 そこで目をつけたのが、伊豆の御穂神社。出雲の美保神社との繋がりです。前にご紹介したように、大国主の奥さんは三保の人。大国主は晩年を奥さんの実家、三保で過ごしたという伝説があります。伊豆と出雲の繋がりは、明らかに旧石器時代から荒海を航海した伊豆の造船と航海の技術及びその技術を持った人々の交流です。大国主の奥さんが三保出身なのもそう考えれば当選のことです。古事記・日本書紀にも、伊豆の船は日本列島で最も大きく速いとされ朝廷も伊豆の船を輸入(?)していました。

 御穂神社は、古から三保の地域を見守ってきた神社。現在は、三保の松原の「羽衣の松」伝説に関係する神社として知られ、羽衣の切れ端が所蔵されているということになっています。夫婦和合・縁結びのパワースポットとしても人気です。「みほ」の字は、「御穂」のほか「御廬」「三穂」「三保」にも作ります。

 祭神は、大己貴命(大国主/別名は三穂津彦命)と、三穂津姫命。創建は不詳。『駿河雑志』では、日本武尊が勅により官幣を奉じ社領を寄進したとも、出雲国の御穂埼から遷座した神であるとも伝えるが、全く謎に包まれています。

 神社境内と三保の松原を結ぶ参道は「神の道」。三保の松原には「羽衣の松」があり、羽衣の松から御穂神社社頭までは松並木が続くが、この並木道は羽衣の松を依代として降臨した神が御穂神社に至るための道とされます。現在でも筒粥神事では海岸において神迎えの儀式が行われるが、その際に神の依りついたひもろぎは松並木を通って境内にもたらされる。これらから、御穂神社の祭祀は海の彼方の「常世国」から神を迎える常世信仰にあると考えられています。出雲と似てますね。

 筒粥祭(つつかゆさい)は、2月14日夜から15日にかけて行われる豊作祈願の祭。祭事としては、まず拝殿前に大釜を据えて粥を煮る準備をします。そして夜半に海岸で神迎えの神座を設け、篝火(かがりび)を一切用いない中で祝詞奏上により神迎えの儀式を行います。迎えられた神はひもろぎに宿り、神職はそのひもろぎを持って松並木を通り神社境内に至る。その後社前の大釜で粥を煮て竹筒を入れ、筒の中に入った粥の量でその年の作柄の占いを行います。(Wikipediaより)

 御穂神社は元は、現在の天人森神社の地にあったとされています。羽車神社から北に行った天人森公園の中にある神社で、「三保の松原」の場所にあります。

 羽車神社は、御穂神社の離宮。これも創建年は不詳。羽車に乗って三保の浦に降臨した神を国土和平のために御穂神社に鎮座し、離宮として羽車神社が設けられたと伝えられます。

 御穂神社は、祭事の「筒粥祭」やその名の「御穂」が示すように、農耕に関する謂われを持つと考えられます。その農耕の技術が出雲の人とともにやってきた、と解釈するのが自然でしょう。すると、[出雲〜北九州〜熊野〜伊豆〜(南太平洋?)]と繋がる日本列島を巡る海の道が完成します。黒曜石から農耕技術へ、旧石器人から大和人へ、運ばれるものも運んだ人も変わっても、その道は歴史を見つめ続けたのです。

 羽衣伝説は、「羽車」から「羽衣」に訛ったもの?衣を脱いだ美しい天女の豊満な肢体。漁師は思わず「竿を出した」に違いありません。ここで一句「衣脱ぐ天女の舞に竿を出す」。とにかく色艶など人気のある話をでっち上げて集客するのは神社の常。羽衣伝説も「こさえもの」と考えたほうが良さそうです。そんなつまらないものを見に行く心算はないな〜(← 天女の裸は見たいけど)。

 話を戻しましょう。気のなるのは伊豆にもたらされた農耕の技術。おそらく、それを象徴するのが「羽根車」。伊豆地方は川はあるが山が迫り水の確保が水田開発の課題なのは明らかです。

 踏車は用水路や河川から田へ水をくみ上げるための水車で、羽根車を人が足で踏んで回し水をくみ上げる揚水水車です。江戸時代初期に大阪の農具商-京屋が製造を始めたとされています。用水路などから水を引き入れられない高い田面へ水を揚げる道具として用いられてきました。

 動力機関としての水車は、紀元前2世紀ごろに小アジアで発明されたといわれます。中国においては水力原動機らしきものは漢にみられ、宋の時代には水車力を用いて紡績工場さえ作られたようです。日本列島では『日本書紀』に、推古18年(610年)高句麗から来た僧曇徴(どんちょう)が、碾磑(てんがい)という水車で動く臼を造ったといわれ、平安時代の天長6年(829年)良峯安世が諸国に灌漑用水車を作らせたとされます。

 車輪は紀元前4千年紀にはヨーロッパや西南アジアに広まり、紀元前3千年紀にはインダス文明にまで到達しました(仏教の「法輪」も車輪ですよね)。中国では紀元前1200年ごろには車輪を使った戦車があったそうです。また、紀元前2000年ごろには中国に車輪つきの乗り物があったとも言われます。東アジアで独自に車輪を発明したのか、ヒマラヤという障壁を越えて車輪が伝わったのかについては不明です。

 欧州で車輪と言えば、太陽神アポロンの象徴。そう、火の車です。火竜は西洋、水龍は東洋。同様に、火車は西洋、水車は東洋なのかも… ← こては私個人の妄想です。

 車輪の発明は新石器時代末のこと。農耕の発明後も車輪のない時代がしばらく続いたようです。車輪を構成する車軸や軸受けは見た目ほど単純な装置ではありません。車輪を製造し釣り合わせるには車大工の技量を必要とし、車大工が職業として成立するには社会の成熟が必要だったと考えられます。また車輪付きの乗り物は家畜に引かせて初めて威力を発揮します。メソポタミアにおける荷車の出現はロバの家畜化とほぼ同時期であり、また新大陸において車輪が実用化されなかったのは輓獣となる家畜の不在が原因のひとつであると考えられます。

 車輪の発明は輸送手段以外のテクノロジー一般にとっても重要です。水車、歯車、糸車、アストロラーベ、トルクエタムなど。最近では、プロペラ、ジェットエンジン、タービンなどが車輪を基本要素として発展しました。

 古代人が伊豆の外洋船に乗って、はるばる出雲の地から農耕の技術を携えてやってきた。と妄想すると面白いのですが … 証拠がないのです。御穂神社を訪ねてもその物証信濃から富山へ(その3)を見ることはできないでしょう。ひょっとすると、関係する資料があるかも知れませんが、信濃のように綿々と受け継がれたものがなさそうなかの地にはそれを求めるのは難しいかも。という訳で、神津島から伊豆/相模⇒太平洋側の海/海岸沿いの文明の道の探索は、文献研究から始めるのが妥当でしょう。

 という訳で早速、女房に車輪に関する考古学の世界最も有名な文献「馬・車輪・言語」を借りて読むことにしました ← 尋ねるとサッと文献が出てくるあたりが、研究者としての水準を示しています ← フフ(^O^) 女房自慢で〜す。


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