ずっと前からご案内を頂いていながら、女房と日程が合わずに行きそびれていたユーラシア文化館(神奈川県)。企画展示の最終日にやっと、数年ぶりに訪れることができました。
江上氏へのオマージュに溢れた騎馬民族中心の遺物の展示。そして、女房が4度目の訪問を果たしたいと願うウズベキスタン現在に思いを馳せる写真展。ユーラシア文化館は、地下鉄駅の真上。相互乗り入れで、時間はかかるけれど所沢から乗り換え無しで行ける場所です。
楔形文字粘土板文書がたくさん展示されていました。楔形文字はメソポタミア南部においてシュメール人が発明した文字。紀元前3200年頃から古代オリエント全域で使用された。
メソポタミアで粘土板に文字を書いたのは、粘土が入手しやすかったからです。メソポタミアは、ギリシャ語で「2つの川の間」を意味します。
メソポタミアで粘土板に文字を書いたのは、粘土が入手しやすかったからです。メソポタミアは、ギリシャ語で「2つの川の間」を意味します。
江上波夫氏は、東京大学イラク・イラン遺跡長団の団長として1956年から10年にわたり発掘調査を行いました。
西アジアではイスラームの時代になると、中国陶器が交易品として輸入され影響を与えました。イスラーム陶器は、セルジューク朝時代になると、ガラスの粉や石英の砂などを年度に混ぜることで白い陶土ができました。
マーシュアラブの敷物。イラクの湖沼に暮らす人々の作品。ティグリス川とユーフラテス川が合流するクルナを中心として湿地帯があり、古代メソポタミア文明発祥の地として有名。エデンの園があった場所とも言われます。この地に暮らす人々が作り出した敷物です。
江上氏はユーラシアの騎馬民族を中心に、遊牧騎馬民族を探求し続け、「騎馬民族制服王朝説」を構想しました。
モンゴルオロンスム遺跡出土の文物は、江上氏が発掘したもの。オロンスム遺跡は、内モンゴル自治区オングド族の都の跡。キルスト教を信じたオングド族の本拠地モンゴル帝国〜元朝時代に栄えました。16世紀にはチベット仏教が導入され、仏教寺院が建てられます。オロンスムは、多くの寺を意味します。
江上氏は、オロンスムが、ネストリウス派キリスト教(景教)の信者であり、チンギス・ハーンと繋がりを持っていたオングド族の王府址であったことを明らかにしました。
釈迦の没後数百年経って、仏教教団は分裂をとげ、出家せずとも菩薩となって仏となることを目指す大乗仏教が現れました。従来の出家修行を基本とする上座部仏教はアジア全域に広がります。仏教は後漢時代に、シルクロードを通って中国に伝わりました。仏教は中国在来信仰と結びつき、仏に利益を祈る信仰が生き続けます。オアシス都市敦煌は河西回廊最前線の街。1907年にマーク・オーレル・スタイン率いるイギリス探検隊が経典や絹布に描かれた仏画を買い取って本国へ送りました。イギリスで発行された図録「The Thousand Buddhas」には、敦煌莫高窟に残されていた仏画が収録されています。
中国とイスラーム世界の関係は唐の時代に遡る。中国から陶磁器、イスラーム世界からはガラス器などがもたらされます。イスラーム教が中国に広まり、イスラーム教徒が暮らすようになりました。福建省泉州や西安にはモスクである清真寺が建てられました。
山岳地帯の民族衣装。中国貴州省の山岳地帯に居住する苗族の女性用衣装には、刺繍布を藍染の上着の襟足、肩、袖などに縫い付けて装飾する伝統があります。苗族には、蝶が産み付けた12個の卵から人間や虎、龍などの神獣が誕生したという伝説があります。苗族はかつて揚子江に暮らしていたが、漢民族の南下によって山岳地方に移ります。一部の苗族は、ラオス、ベトナム、タイ北部の山岳地帯に移動します。彼らは、メオ族と呼ばれているが、自称はモン族です。
メソポタミアで最初に都市文明を築いたのは、ウル第一王朝(BC2500年頃)のシュメール人です。
続きはまた明日。