「縄文時代の歴史」 山田康弘 2019年 講談社現代新書
縄文人の末裔としてだけじゃなくて、重要な縄文遺跡に囲まれて暮らしている者として、「基本を押さえておきたい」。そこでこの本を再読することにしました。著者は、墓制の研究者。縄文社会の制度と文化の根底を語るに相応しい領域の研究者。かつ、考古学と人類学の融合を目指すという確かな基盤を持る人物です。
この本で特に注目されるのは、「栽培」と「農耕」の違い。土地の占有を必然とする農耕は、社会の階層化を必然とします。「土地の占有」=「縄張り」は、チンパンジーと同根の「皆殺し遺伝子」を発現させ、現在のような極悪非道な社会をもたらしました。縄文人たちは、朝鮮からやってきた天皇家をはじめとする極悪非道な流れ者のもたらした農耕を否定し、天然に生きる道を選択します。
著者は、縄文人の農耕の拒否を、人口密度の低さに求めています。灌漑農業を定着させるには人口が少なすぎたから、稲作を放棄したのだと。それも一理あると思われます。しかし、それだけだとは考えにくいのです。縄文人たちも稲の収穫はできたのですから …。
「調和-天然な存在」であるための人口密度には上限があることは確かでしょう。私の試算では、現在の1/1000以下にする必要があります。
日本国の出生率は1.20。一人っ子政策を中止した中国も、出生率は思うように回復していません。人口大国インドでも、出生率は急激に低下しています。経験則として、経済が成長すると出生率が低下するのは確かです。各国政府が「少子化対策」を講じても無駄でしょう。子供を産まないのは、上っ面で薄っぺらな「知性」に基づくものではなく、「天然」の「獣知」に基づくものだからです。
人々は知性に基づいて産まないのではありません。「天然」に産まないのです。シナプスの発火単位で計測すれば、1/10000にしか過ぎない「意識」では説明できない、獣としての「真っ当な」選択なのです。私は、人間が「真っ当な獣」であることを信じたいのです。縄文人の末裔として。ホモサピエンスが、天然調和に生きることを希求します。それは1000年後かもしれないとしても ← その間に、極悪非道なホモサピエンスによる生態系の破壊により、大量絶滅が進行するのは科学の事実です。そして、ホモサピエンスも絶滅します。そうであったとしても、ホモサピエンスの真っ当な獣知を支持します。
以下はこの本の要約と引用です。
■ はじめに
・縄文時代の区分
草創期(16500〜11500年前):旧石器からの移行。
早期(11500〜7000年前):温暖化が進み、定住生活が始まった
前期(7000〜5470年前):最も温暖に時期。居住地は台地の上。低地に水場が作られる。遺跡数も人口も増加する。
中期(5470〜4420年前):大型の集落が形成され、人口は26万人を超える。
後期(4420〜3220年前):冷涼となる時期がある。
晩期(3220〜2350年前):九州では3000年前から灌漑稲作が始まる。東北では、亀ヶ岡文化が発達する。
中期の火炎土器や、晩期の遮光器土偶は、縄文時代の後葉の一時的なものに過ぎない。
旧石器時代は打製石器、新石器時代は磨製石器を主に使う。新石器時代に農耕が起こる。
竪穴式住居(竪穴建物)と、平地式の掘立柱建物。掘立柱建物には高床式の倉庫なども含まれる。
・縄文時代の墓制
土坑墓:地面を掘りくぼめただけ
配石墓:墓穴の上に石を置く 環状列石はこの集合
再葬(複葬):骨になった後に
土器棺墓:産まれてすぐに亡くなった子供を
果実酒が飲まれていた可能性は高いが、日常に飲まれるほどの量は作られたとは考えられない。
干し貝(煮てから)、干し魚、干し肉、燻製などの保存食品が作られていた。
大豆や小豆などの豆類が作られていたことは圧痕から明らかだが、畑は見つかっていない。
・婚姻制度
妻方居住婚:前期までは母系社会
夫方居住婚:中期以降は選択住居婚か父系の双系の社会が出現
■ プロローグ
1万年前までの最終氷期。海水面は、現在よりも100m低かった。北海道は大陸と繋がっていた。針葉樹林に暮らす人々は、動物の捕獲を生業とせざるを得なかった。
日本列島にヒトがやってきたのは4万年前。日本列島への移動経路は、朝鮮半島からの西回ルートと、北回ルートと、南回ルート3つ。
バイカル湖周辺にいた人々はヨーロッパ系。彼らが直接に北海道までやってきたのではなく、彼らの文化を吸収した東アジア系の人々がやってきたと考えられる。湧別技法は島根まで達している。
沖縄のサキタリ洞遺跡から、2万3千年前の貝製の釣針が出土している。
北方系のマンモス、南方系のナウマンゾウとオオツノジカ。石刃を素材とするナイフ形石器(槍の先)など石器の形態や組成などに地域差が見られる。
最古の土器は、青森の大平山元遺跡から出土した1万6千5百年前の無文土器。長崎の福井洞窟遺跡の土器は1万6千年前。世界最古の土器は、中国湖南省から出土した1万8千年前のもの。
北海道においては草創期の土器が殆ど見つからない。朝鮮半島にも1万6千年を遡る土器は見つかっていない。縄文土器は日本列島で誕生した可能性が高い。
琉球は、九州と繋がったり離れたり、時期によって関係が変化している。
縄文文化は一つではなく、時代と地域によっていくつもの文化が存在した。「古来から一つの国」は、政治性の高い歴史観である。
■ 縄文時代・文化の枠組み
縄文人は丸木舟を駆使して、海流を渡るほどの航海技術を持っていた。
縄文時代の平均寿命は50歳ぐらい。
同じ時期の世界中どこにも縄文人と同じ形質を持った人々はいない。縄文人の大まかな形質は、北海道から九州まで、殆ど同一と言ってよい。縄文人は日本列島で形成された独特の人々である。縄文時代には、列島以外からの移民が無かった。
mtDNAは特定の酵素で切断される。この切断のされ方のパターンで、ハプログループを分類することができる。M7aは沖縄に多く、南方系のグループ。N9bは北方系。M7aもN9bも現存する東アジア系の人間集団においては非常に少ない。関東地方の縄文人からは、様々なハプログループが確認できる。縄文人には南北二つの系統がある。旧石器時代人の後裔が縄文人である。
■ 土器使用の始まり 草創期
日本列島においては、土器は煮沸具(鍋)として登場した。焼けた石を水の中にいれて煮沸を行うことはできる。長時間煮こむことができるのは土器だけである。煮込むことにより、様々な食材を組み合わせた料理を作ることができる。新たな食料資源の開発と嗜好の多様化をもたらした。
土器は、植物の線維を柔らかくしたり、アスファルトを溶かしたり、ウルシの精製にも用いられた。食器には木製品が使われたと推定される。
土器を製作するには多くの工程が必要である。粘土の採取、粘土の精製、素地を紐状に伸ばし輪積みして整形(表面の文様も同時に施される)。
土器を製作したのは女性。
土器の胎土を分析すると、各地において製作-消費されたことがわかる。
世界各地の事例を見ると、旧石器時代にも粘土を焼成して、土偶や動物像を製作する技術は存在していた。
「縄文」の「文」は、本来「文身(いれずみ)」の意味。模様は、「紋様」。
縄文土器の紋様は、以下の組合せで構成される。
沈線:線を描く
浮線・隆起線:粘土紐を貼り付ける
刺突:点状に刺突
温暖化の進行とともに落葉広葉樹が広がってくる。中小型動物を中心とした動物相ができあがる。それでも、海面は現在よりも40mほど低い。当時の遺跡は水面下に没している可能性がある。
日本最古の土器は、温暖化が始まらない寒冷期に、食料を求めて移動する人々によって作られた。
1万5千年前。落葉広葉樹が多くなり、遺跡が台地や丘陵地に進出していく。住居跡も増加する。
九州南部の弓矢の使用は早く、定住に至ってはいなが、定着性も他の地域に先駆けていた。
寒の戻りであるヤンガードリアスの頃、土偶や赤色顔料を塗った土器が出土する。ドングリ類の貯蔵穴も発見されている。
福井の鳥浜貝塚から、1万2600年前のウルシ材が出土している。草創期にはウルシが日本に持ち込まれていた。
女性の乳房を表現した土偶が見つかるが、その数は少ない。
集落内で埋葬を行う地点が決められ、墓域が形成され、副葬品も出土している。
婚姻形態は妻方居住婚。母系社会であった。
■ 定住生活の確立 早期
ベースキャンプを一ヶ所(季節によって)に固定し、貯蔵施設を作って食料などを貯蔵する。イヌイットやアイヌが該当する。
定住村落は、完全に固定された住居で通年生活する。縄文時代では後期以降がこれに該当する。
栗や胡桃を栽培し、猪の飼養(一代限りの飼育)を行っていた。縄文時代の人々の接種食料には地域差が大きい。内陸山間部の人々は、堅果類を多量に摂取していた。生業形態の差異は、集団のあり方や分化に影響を及ぼした。
気候の温暖化に伴って四季が明瞭になり、季節による食料の変動を乗り切るために、食料を加工し保存した。移動が少ない生活様式を選ぶようになった。加工場所が、作業場として求められた。
定住生活を継続するためには、廃棄物の処理が必要になる。集落内における居住域と墓域と排気場所が決められる。
人口密度が高まれば、集落の掟や習が必要になる。
定住生活になると、土器の地域差も大きくなる。
海進による環境への影響も、地域によって大きな差があった。
海岸部や汽水域では、貝類を捕食し、貝塚が形成される。貝塚の存在は定住の証拠となる。東日本では早期の貝塚は多いが、西日本では少ない。九州においても屋外炉の検出例が多い。通年定住生活の地域とそうでない地域があった。
集落(ムラ)の集団構造には、血縁関係が想定される。周囲の集落とも血縁による紐帯を持ち、出自集団を構成していた。血縁関係と婚姻関係の二つの紐帯で共存していただろう。
縄文人は多種多様な動植物を食料としていた。人骨の炭素・窒素同位体分析によると、ドングリ類などのC3植物と、鹿などの草食動物と海性魚類・貝類 … 食べられるものは何でも食べる生業を営んでいた。
佐賀の東名遺跡から出土した籠は、湧水を利用した水漬けと、堅果類の保管に用いられていた。
早期には犬の埋葬が見られる。狩猟に利用されていただろう。弥生時代以降は犬が食料とされ埋葬されていない。
千葉の取掛西貝塚には動物祭司の痕跡がある。猪の頭蓋が7、鹿の頭蓋が3、意図して配置された状態で出土している。
世界の先史時代遺跡にも、赤い顔料を用いた例は多い。旧石器時代の赤色顔料は、赤鉄鋼を砕いたベンガラ(酸化鉄)。早期後葉の墓には、埋葬時に赤色顔料を散布したものが多い。石川の三引遺跡から出土したベンガラ漆塗りの縦櫛n年代は7200年前。
土偶は顔の表現はなく、乳房とくびれた腰部、豊満な肉体表現が見られる。関東地方と近畿地方の二つの地域で多元発生したものと見られる。
草創期の母系社会が、前期まで継承され発展する。
■ 人口の増加と社会の安定化、社会構造の複雑化 前期・中期
7000〜5900年前の高温のピーク時には、現在よりも2度気温が高く、海水面は2.5m高くなり、現在の栃木県域まで海だった。
関東平野の植生はクリ林が優勢になってくる。
人口は、早期の2万人から、前期には10万人を超え、中期には24万人にも達した。その殆どは東日本に暮らしていた。
低地の水場周辺には、盛土や杭列や木道施設があった。埼玉県デーノタメ遺跡は、台地上の住居跡と台地下の作業場がセットになった遺跡である。近くにウルシ林が作られ、漆工芸品が生産されていた。
青森の三内丸山遺跡では、集落の形成とともにクリ林を育成していた。クリ材を利用した軸組工法の大きな建物が建てられるようになった。縄文時代の人々は世代を超えてクリ林を管理した。
縄文の遺跡からは、ドングリ類を粉末にし、蜂蜜や山芋などをつなぎとして固めた「縄文クッキー」が出土する。
今のところ東アジアにおいて最も古くから漆工を行っていたのは縄文人ということになる。漆を利用する技術は複雑で、専従的に漆工製品に携わる人々がいただろう。縄文集落の暮らしには、漆製品の生産に多大な労力を注ぐ余裕と安定があった。
中期以降、豆類の粒が大型化している。ヒエの栽培も行われていた。
東日本の環状集落では、竪穴式住居、貯蔵穴、掘建柱建物、墓域を同心円状に配置する。関東地方では、前期の住居跡は方形をなすものが多い。中期になると円形が多くなる。中部地方では、住居の中央部に石で囲った炉(石囲い炉)を持つ住居が多くなる。
環状集落には、地域の中心となる拠点の集落と周辺の集落が存在した。拠点集落は一定の距離を置いて分布している。
大規模な貝塚もこの時期の特徴づける。加曾利貝塚などの大型貝塚からは、埋葬された人骨が見つかる。
漁法は網漁で、網の錘に使用された土器片錘が出土する。
貝塚には、集落貝塚と、東京の中里貝塚にような貝殻だけのマハ貝塚がある。集落から離れた海岸線に形成され、貝を煮て干し貝などの加工食品を作る場所で、近隣の複数集落が関わっていたと考えられる。中里貝塚の干し貝が河川を通じて内陸部の集落まで流通していた。
石器製作は、原石の採取と加工が別の地域で行われている。神津島の黒曜石は、伊豆半島の見高断間遺跡で陸揚げされた。渡航には高度な技術を持つ人々が不可欠だった。
集落間のネットワークを通じて物資が行き交っていた。中期には資源を集積し運搬する物流センターが存在していた。このネットワークの発達と紐帯の維持が、縄文集落運営の生命線だった。
中期には整然と企画された大型の墓域が登場する。小家族集団の土坑墓同士がいくつも斬り合っている(相互に重なりあっている)。血縁関係を確認する意図があったのだろう。
外山の小竹貝塚では、男性が外から婿入りする社会構造を有していた。妻方居住婚制を採り、母系社会を営んでいた。関東地方では、中期の妻方居住婚から、選択的居住婚を経て夫方居住婚へと変遷した。
中期には地域によっては、特別な人物が存在した。長野の棚畑遺跡には、ヒスイが子供の墓から出土している。社会的不平等が固定化され世襲された可能性がある。ヒスイは新潟の姫川流域にしか産出しない。
石棒を用いた祭祀の中には、性行為時の男性器のあり方[勃起→性行為→射精→萎縮]を再現する[摩擦→叩打→被熱→破壊]の動作が組み込まれていたと考えられる。
前期の土偶は、早期の延長上にあり、乳房の表現を付した「板状土偶」である。中期になると、土偶の数は多くなる。分布の中心は東北地方から関東西部から中部高地にかけての地域である。
縄文時代の死生観は再生循環。「もの送り」の思想は、生命・霊が円環状に回帰循環する。円環的死生観は、より古い時期から人類が持っていたものである。
土器に子供の遺体を入れて埋葬するのは、東アジアを中心として世界中に見ることができる。土器を母体となぞらえ、もう一度生れてくることを祈願する。
■ 精神文化の発達と社会の複雑化 後期・晩期
遺跡数が減少し、数棟しかない小規模な集落になる。中期と後期の間には、気候の寒冷化があった。海水面は遠ざかった。後期になると集落が低地に降りていき、水辺が生活環境になる。
大型集落を出て、小規模な集落へ分散した。墓制は多様化する。青森の小牧野遺跡のような環状列石も出現する。
西日本では集落と居住跡が増加する。東日本的な様相が後期になると見られるようになる。人の移住があったことを窺わせる。
炉を中心とした円形の居住部に、出入口の長い張り出し部を持つ柄鏡形住居。扁平な石を敷いた住居を「敷石住居」と呼ぶ。石材は遠距離から運んでいる。石を敷くという行為自体に意味があったと考えられる。複数の集落からの労働力が必要だったと思われる。多くの人々が参加する祭祀が行われた筈である。
後期以降になると、平地式の掘立柱建物が増える。堅果類の皮むきやアク抜きなどを行った水場が多くなる。水場は周辺集落の共同の作業場として管理されていた。東日本ではトチやクルミ、西日本ではドングリに利用が主体となる。
後晩期のは、環状盛土遺構が築かれる。埋葬の場でもあり、土を少しづつ積み上げてできた「貝の無い貝塚」である。
後期以降は、交易用の採集と製作が拠点化・活発化していく。集落間の分業も強くなっただろう。製塩土器と呼ばれる粗製の土器で土器製塩を行う地域から、塩が内陸部に運ばれた。大型の石棒も特産品として製作・搬出された。長野の星糞峠(鷹山遺跡群)では、地表での採集ができなくなり、竪穴を掘って採掘を行うようになった。信州の黒曜石鉱山で採掘された黒曜石は、近場で加工された。
後期になると、東日本を中心に、精製土器と粗製土器に分かれる傾向が顕著となる。粗製土器は煮沸用の深鉢型に限定されている。
東京の下宅部遺跡から40点の弓矢が、獣骨の集中地点から出土する。狩猟儀礼に用いられたものと考えられる。後晩期になると動物型土製品が目立つようになる。
伝統社会では、個人の嗜好だけで装身具を着想したり、身体変工を行うことは少なく、集団の強制力を持った習慣であったことが多い。装身具は晩期に多くなる。老年期になると装身具の装着は減る。当時は「退役」の習慣があったようだ。抜歯が発達するのは晩期の東海地方以西の西日本で、全員に施術されている。
墓域は集落の外に出て、墓地遺跡を構成する傾向が強まる。配石墓が増え、東日本では大規模な配石遺構も形成される。配石墓や石棺墓は、東日本を中心としている。
配石を持つ墓は、「死者の記憶」を想起させる。円環の死生観とは異なった死生観によるものであったろう。
関東地方で多数合葬・複葬礼が行われたのは、後期前葉。大型集落が分解した後、再度結合して大型の集落が形成された時期である。クランは血縁関係の有無ではなく、共通の祖先を持つ「出自集団」。上屋がある多数合葬・複葬礼は、集団統合のモニュメントであろう。
祖霊崇拝の成立。多くの人々が共同で構築した環状列石や大きな配石遺構。その作業過程は人々の紐帯を強化した。自分の出自を、直線の時間軸で理解する系譜的死生観が広まった。
九州では、左右の腕に多数の貝輪をつけるのは女性だけ。女性の方が社会的立場が上位、すなわち母系社会があった。晩期の東日本では父系。東海地方西部から近畿地方は選択居住婚。西日本では母系制の傾向が強い。
三内丸山遺跡の環状列石を伴う土坑墓群は、集団のリーダーの墓である。恒常的な階級を意味しないだろう。
一時的に階層的な社会構造が現出したが、長続きしなかった。階層社会が維持されるためには、数千単位の人口を要する。
晩期の大洞式土器(亀ヶ岡)は、北海道の南部から近畿地方まで分布する。亀ヶ岡文化圏の人々が西日本に移動したことを示唆している。
■ エピローグ 縄文文化の本質
少ない中国地方の縄文遺跡。通年に定住する生活をしていなかった。東アジアの農耕開始以前の狩猟採集民の集落は小さく、先史時代遺跡と比較すれば東日本の縄文集落の方が特殊なのだ。農耕以前のこのような多様な文化は稀有な存在である。
灌漑水田稲作の社会は、階級を発生させ国家への道を歩ませた。水田の経営は、土地(農地)の占有をもたらした。弥生文化は古墳文化と連続している。
東北北部には灌漑水田稲作の技術が到達しても、環濠集落は存在しない。縄文文化が残っている。むしろ、水田稲作が放棄されてしまう。関東地方で灌漑水田稲作が本格化するのは弥生時代中期以降である。
縄文人は雑穀(アワやキビ)を栽培していた。石器の農具も、穀類の貯蔵に適した大型壺も作り出した。
■ おわりに
定住生活とそれを支える社会構造と資源交換ネットワークの発達が、現代とは比較にならないほど少ない人口下で維持された[縄文文化]。
「自然と共生する」という発想は現代のもの。縄文人も森を切り拓き、焼き払い、有用な植物を栽培した。人間本位な開発のあり方は、現代と変わらない。