「ジャーナリズム崩壊」 上杉隆 2008年 幻冬舎新書
幻冬舎らしい本です。ちゃんとした批判眼を以て読めば、岩波書店の本なんかよりも遥かに現実に肉迫できる。この本もそうした本の一冊です。
*日本の記者クラブの現状(gemini)
日本の記者クラブはその閉鎖性や透明性の欠如が問題視されています。
閉鎖性: 多くの記者クラブは、依然として外部の人間が参加しにくい閉鎖的な体質を維持しています。
官邸キャップ制度: 官邸キャップ制度は、特定の記者が官邸の情報を独占的に得るというもので、情報公開の観点から問題視されています。
癒着の構造: 長年の慣習から、政府や企業との癒着構造が根強く残っており、独立性や中立性が損なわれているとの批判があります。
EUからは、日本の記者クラブの閉鎖性や透明性の欠如が、民主主義の根幹を揺るがすものとして、繰り返し批判されてきました。日本政府は、これらの批判を受け、記者クラブの改革を促す動きを見せていますが、その進捗は遅く、十分な成果が出ているとは言えません。
日本は変わらない。民主国家とは言えない。先進諸国から見放され、新興国からも呆れられる。朝日新聞への励ましの意味で長期契約をしている私ですら、もう次の契約更新はしない方がいいのではないかと思ってしまう。活字離れとかそういう問題ではありません。ジャーナリズムの体をなしていないからです。TV番組表のためだけに新聞をとる価値はないですからね。
以下はこの本の要約と引用です。
■ プロローグ
日本の記者は個人としては優秀だ。ところが集団=記者クラブは閉鎖的になる。
■ 日本にジャーナリズムは存在するか
日本の新聞社はワイヤーサービス=通信社。ジャーナリズムは、事象を報じるだけではなく、解説や批評を加える活動。
ニューヨーク・タイムズが、事件や事故の現場に向かうのは1人か2人だ。ホワイトハウスを取材する記者も1社につき1人か2人だ。日本の政治部記者は、政府与党の担当だけでも30名を超える。米国の新聞でそれが可能なのは、新聞社と通信社の仕事を峻別しているからだ。ストレートニュースは、ワイヤーサービスに依存する。ニューヨーク・タイムズは、海外を含め300人ほどで通常版で100頁を超える新聞を作ることが可能だ。
米国の新聞記事は長い。分量も文体も、週刊誌のトップ記事に近い。個々の記者が個性を発揮して自由なスタイルで書いている。それがスター記者を生む土壌になっている。
米国の新聞記事の締切は緩い。記者自身が納得いくまで取材し、その上で書くことができる。政治部・経済部・社会部…などというカテゴリー分けもされていない。日本の記者は、自分の分野以外の対象者には自由に接触できない。同じ政治部記者でも、与党担当の記者は野党議員にインタビューできない。
ジャーナリストは、自らの立場を明確にすることが多い。客観報道などは不可能だという考え方だ。ストレートニュースは、客観事実に即して報道すべきだという考え方はある。
日本の政治記者たちは、政治家へのアクセス権を独占し、永田町の実情を知りながら、政治家への厳しい報道をしない。スクープ記事は全て、政治部以外の記者やジャーナリストによって書かれたものだ。常に雑誌によって報じられ、様子を見極めてから新聞が後追いする。
政治記者たちは、担当した政治家を出世させるために存在している。記者の出世も、担当した政治家の動向に左右される。雑誌や社会部記者の動きを、政治家と一緒になって食い止めようとする。NHKは、そうした政治記者でなければ生き残れない。
日本の新聞は、偏向しているのに、客観を装っている。
スクープ記事を書いた記者が、ども新聞社も追ってこないことに不安になり、情報をリークして他紙に書かせる。
記事中に引用先を打たないのは、日本のメディアだけ。海外なら訴訟の対象となる。
海外のジャーナリストの多くが個人ブログを持っている。記事の盗用が、J-CASTなどのネットの指摘により次々と明らかになっている。
米国では「訴訟」は脅しにならない。
他者の批判記事を書いている記者は、自身に矛先が及ぶとヒステリックに反応する。反論するのではなく、圧力をかけ弾圧する。
米国では記者が経営に入るという考えがない。経営陣が編集部門に口を出すすこともない。編集と経営の癒着は日本のマスコミの特徴である。
EUは、日本の記者クラブは情報を寡占する閉鎖的な組織だとして、毎年のように「非難決議」を採択している。日本外国特派員協会(FCCJ)も抗議を続けている。
「日本のマスコミは、危機に瀕した時のダチョウそのものだ。ダチョウは自らの身に危険が訪れると、砂の中に首を突っ込んで、現実から目を背けようとする。身を守ることにはなっていないのに」ニューヨーク・タイムズハワード・フレンチ東京支局長。
■ お笑い記者クラブ
「日本の新聞記者は、いつも我々の仕事の邪魔ばかりしている。彼らは本当にジャーナリストなのだろうか?」ニューヨーク・タイムズ東京支局長。
カルビン・シムズ氏が、ジャニー喜多川氏の強制猥褻事件を報じた時の対応も、日本の護送船団方式の記者クラブの体質を見事に露呈していた。
記者クラブは、本来自由であるべき取材活動を制限している。世界のフリープレスの原則を守れない日本人記者は軽蔑されている。「彼らはジャーナリストではない」。
2002年、日本新聞協会は、閉鎖的な体質を改めるよう、国内の記者クラブに注意を促した。にもかかわらず、記者クラブの閉鎖性は少しも変わらない。
日本のフリーランスや雑誌記者の記事は、記者クラブのメディアの情報によって成り立っている面がある。雑誌の政治記事の多くは、記者クラブの「未使用」の情報、「お零れ」にあずかっているのは紛れもない事実である。
立花隆が「田中金脈」を「文芸春秋」で追求したのも、記者クラブがあったからこそだった。記者クラブがなかったら、とうの昔に記事にされていただろう。新聞が書けない部分を、雑誌ジャーナリストが拾っている。「週刊誌の記事の最大のネタ元は新聞である」立花隆。記者クラブ所属記者の中には、どうにかして情報を伝えようと、別のルートを考える者がいる。匿名で書いてストレスを発散することになる。
日本の新聞記者は、新聞社の社員。サラリーマンであってジャーナリストではない。
「批判はいい。ただ侮辱はするなよ」石原慎太郎。
■ ジャーナリストの誇りと責任
日本のメディアは無色透明、というよりも、上意下達、余計なことは考えない体育会系優等生が揃う。
NHKの面接会場には政治家の推薦状を持参した受験者が少なくない。入社時から「政治銘柄」記者が存在している。
ジャーナリストのゴールは、自分の署名だけで勝負できるフリーランスになることだ。
米国には、ストレートニュース以外には匿名記事は無い。ペンネームも許されない。独裁国家や戦地での「生命の危険」に繋がる場合には除外される。日本の新聞が匿名であることに、海外の記者は不信感を抱く。ジャーナリストは、自らの「名前」で仕事をしている。相手を批判して、自らは名乗らないのは卑怯だ。海外のブロガーは、本名も顔写真も経歴も出していることが多い。
記者クラブも匿名記事も、日本の新聞記者にとっては当たり前。考え方を改めることは難しい。自らを否定することになるからだ。
筆者が「官邸崩壊」を著した後、最も多かった苦情は、「貴社の実名を書いた」ことだった。論争を避けるべきではない職業にありながら、自身が論争の対象になると大騒ぎするのである。
「キャスター」や「アンカーパーソン」は、編集全体への責任を持つ者。海外では、番組を進行するだけのアナウンサーは、そう呼ばれない。
海外の新聞には、「オプ=エド(反対論説)」頁があり、連日、記者同士の批判合戦が繰り広げられている。
首相官邸の内部情報を描くという作業では、1回の取材、1行の執筆の度に、これでもかという圧力と脅しがやってくる。
国会議員は衆参合わせて722人。議員秘書は公設だけでも2000人、私設を合わせれば5000人は下らない。落選中の地方議員はかなりに数がいる。元ヤクザもかなりいる。男性の秘書の多くは国会議員になることを願っている。首相の多くも秘書経験者だ。
日本以上に学歴偏重の米国だが、同窓生同士でつるむことはない。出身大学を聞かれたことはない。聞かれるとしても、専攻した学科である。
様々な経歴の人物を雇うのが米国の新聞記者の方針。新卒の採用は稀だ。
■ 記者クラブとは何か
世界のジャーナリストは、同じ情報、同じ記事、同じ映像を並べても評価されない。日本の記者クラブは、同じ情報に接して、同じような記事を並べる。
世界中のどの国でも、誰でも簡単に国家首脳に会えるような国は無い。どの国の政府も、自らに効果的なリーク先を考えている。
記者クラブの所属の記者は、「出入禁止」を食らえば取材ができなくなる。会社員として苦しい立場に置かれる。優秀な記者ほど「出入禁止」になる可能性が高い。出禁はジャーナリストの勲章だ。日本では出禁記者の評価は低い。批判記事を書く記者は減り、取材対象とべったりの関係になる記者が、政治からのどうでもいい情報を取れば評価が高まる。
権力側が主催した記者会見から出禁にされるのは構わない。権力と一体化した記者クラブからの出禁こそ奢りと欺瞞である。
都庁では都庁記者クラブが知事会見を主催している。記者クラブメンバー以外は、出席できたとしての質問ができないオブザーバー。石原都知事は、知事主催の会見を開催していたことがある。不公平な記者クラブ制度に対抗するために別に会見を開くようにした。既得権益を失いことを恐れた都庁記者クラブが圧力をかけた。「記者クラブ加盟以外が参加すると「報道協定」などがあった場合に守られない可能性がある。様々なメディアに無秩序に情報が拡がると、本社から混乱を指摘される」。
日本の記者は会社員。ジャーナリズムの精神は無い。海外プレスのように解雇や契約解除の心配は無い。
雑誌などから取材依頼が入った時、首相官邸や自民党は「取材に来て欲しいんですけど、記者クラブがねぇ〜。とりあえず、記者クラブの許可をお願いします」。この言訳は使える。権力と記者クラブは持ちつもたれつの関係にある。
組織に押さえつけられて仕事をする記者たちこそ、記者クラブ制度の犠牲者なのかもしれない。
■ 健全なジャーナリズムとは
新聞社の本社から離れれば離れるほど、取材対象に対して厳しい記事になる傾向がある。自分が生れ育った国の政府を批判するのは大変だ。現政権への批判に対して高い評価を与えるのが米国ジャーナリズム。日本とは雲泥の差がある。
海外では、現在を切り取るのがジャーナリズム。過去の分析は研究者に任せればいい。
日本の新聞記者は、他人のミスに厳しく、自分の過ちには甘い。ミスを犯すことが悪いのではない。その間違いを認めない姿勢が悪いのだ。
海外の新聞には「訂正欄」が確立している。間違いの原因は何だったのかを検証した上で、事実を記し謝罪する。「私はミスを嫌う。しかし最も忌み嫌うべきは、そうしたミスを隠そうとする誘惑に負けることだ」ニューヨーク・タイムスフレンチ支局長。
米国のジャーナリズムでは公人については原則オフレコ取材は認めていない。
■ エピローグ
「特ダネを飛ばせば、嫉妬と足の引っ張り合いが待っています。書いても書かなくても会社の評価は変わらないなら、書かない方が楽ということになります。記者と言えども所詮は会社員なのです」朝日新聞記者。
民主主義には良質なジャーナリズムは不可欠だ。日本のメディアの現状は、ジャーナリズムとはかけ離れている。日本の記者が世界でこれ以上笑いものにされないためにも、そうあるべきだと願わずにいられない。