「実践理性批判」 イマヌエル・カント 熊野純彦訳 2013年 作品社

 勢いで?カントを、もう一冊。こんなに難渋な本を読んだことが無い!よ〜〜く読まないと何を言っているのか判らない。それどころじゃなくて、よ〜く呼んでも、言葉自体が解らないこともある。とんでもない本だ。まあ、哲学書だからそんなもんでしょう。言葉遊びだから、理屈ではあるが論理ではないのですから。

 カントの「お言葉」は、神(絶対者)への言及を除けば、言ってしまえば「当たり前」。それを言葉を尽くして説明するのは何故?人間が一面では「極悪非道」だからでしょう。それは「しゃーない」ことです。じゃあどうする!善を論じるより前に、善を行って世の中を善くする。そのことによって世の中が善くなるようにする。そういう意思も理性も無い人間が「善」を論じるんです。中村哲さんは、善問答なんてしなかった。善を行う人は、善を語りません。ってことは、哲学者=悪人なのかな?

 以下はこの本の要約です。*はWEBで調べたことの要約と私の感想です。


■ 純粋実践理性の原理論

 あらゆる実質的な実践的原理は、自己愛あるいは自分自身の幸福という一般的な原理のもとに属する。

 君の意思の準則が、常に同時に普遍的立法の原理として妥当し得るように行為せよ。

*この言葉は、定言命法の表現。「自分の行動が世界全体の法則になっても良いかどうかを常に考え、そうであるならばその行動を取るべきである」という倫理的な指針を示しています。自分の行動の基準(準則)が、誰にでも適用できる普遍的な法則として成り立つかどうかを常に考え、そのような基準に基づいて行動しなさい、ということです。
 例えば、嘘をつくことを考えてみましょう。もしあなたが嘘をつくことを「許される行為」として正当化した場合、それは他の全ての人も嘘をついて良いということを意味します。しかし、もし全ての人が嘘をつくことを許されると社会は成り立たず、信頼は崩壊します。つまり、嘘をつくことは普遍的な法則にはなり得ません。このように、カントの定言命法は行動の基準を普遍的なものにすることを求めています。

 意思の自律は、全ての道徳法則と、道徳法則に適合した義務の原理である。道徳法則が表現するものは純粋実践理性の自律すなわち自由に他ならない。

*カントの「自由」
 カントは自由を「理性的に自己を律する能力」として捉えています。つまり、カントの自由は、道徳法則に従って自らの意思を決定し、それに基づいて行動する能力を指します。
 理性的な判断に基づいて自らの行動を決定することによって、真に自由になるとカントは述べています。また、自由な意志を持つからこそ、行動に対する責任を負うことになります。

 直観を欠けば、私たちはどのような客観も与えられることができず、何一つ総合的に認識されない。

 君の行為の準則が、君の意思を通じて、普遍的自然法則となるべきであるように行為せよ。

*これも定言命法の一つの表現。私たちが行動するとき、その行動の原則(準則)が自然界の法則のように普遍的なものとして成り立つべきだ、という考えを示しています。

 善と悪は、道徳法則を通じて規定されなければならない。これに対する反論、善であるか悪であるかの試金石は「対象が私たちの快不快の感情の内、どちらに一致しているか」に置かれる他はあり得ないがある。何が快の感情に適合するかは、経験を通じて決定される事柄であることになり、普遍性を持ち得ない。

 善悪の概念は、客観に関係する訳でない。

*カントの「善悪」の概念
 カントは、善悪の基準が主観的な意思や理性に基づいて決定されると考えました。善悪は行動そのものやその結果ではなく、行為をする際の意志のあり方やその意図によって評価されるべきものです。したがって、善悪の概念は「客観的な世界の事象や結果に基づくものではない」のです。

 自己愛の内に見出されるものは傾向に属し、傾向性は感情に基づくものである。道徳法則は、傾向性を原理とする自己愛を、最上の立法に関与することを排除する。

 道徳法則に対する尊敬の感情は、道徳感情と呼ぶことができる。

*カント道徳感情
 「尊敬」という感情は、喜び・悲しみ・などとは異なり、理性に基づいた感情です。尊敬の感情は、道徳法則に対してのみ感じられる特別な感情です。尊敬の感情は、自らの自由意志に基づいて道徳法則を受け入れ、それに従おうとする動機を与えるものです。カントは、道徳法則に対する尊敬の感情を、自由意志の表現と考えます。尊敬の感情は、道徳的に正しい行為を促す動機そのものです。

 動機の概念から関心の概念が生じる。動機・関心・準則の概念は、有限の存在者のみに適用されることができる。

*有限の存在者
 「有限の存在者(不完全で限界を持つ存在者)」は、「無限の存在者(神などの完全な存在者)」との区別に基づいています。無限の存在者は、完全な理性に基づいて行動します。従って、無限の存在者には、動機や関心や準則は必要ありません。動機・関心・準則は、有限の存在者である人間が道徳的な行動を選択する際に必要な要素です。人間は、道徳的に正しい行動をするために努力する必要があります。動機や準則、関心を持つことで、自分の行動を理性的に判断し、道徳的な法則に従おうとします。

 幸福理論と倫理理論は区別されなければならない。幸福理論は経験的な諸原理によって形作られるが、倫理理論はそういった原理は付加されない。

*幸福理論と倫理理論
 幸福は主観。幸福はそれぞれの人の経験や欲望、快楽に依存しており、客観的・普遍的な法則ではないということです。倫理理論(道徳理論)は、理性に基づく普遍的で客観的な道徳法則に依拠しており、感情や欲望、経験的な要素が関与しません。


*結局「実践理性」とは
 実践理性は、行動を導く理性的な能力を指し、道徳的判断を行う力です。カントは、純粋理性が主に知識や認識に関わるのに対し、実践理性は人間の意思決定や行動に関わると述べています。
 「定言命法」は、道徳的に正しい行為が特定の状況や結果に依存しない普遍的な原則に基づくべきであるという考え方です。
 道徳的行為は自由と自律に基づくべきです。行動の道徳的価値は、その結果ではなく、その背後にある意図や意志に依存します。善意志は、それ自体が道徳的に価値があります。