「落語特選(上)」 麻生芳伸 2000年 ちくま文庫
暇潰しには「落語」が最上です。この本では、やや通好みの噺が収録されてて面白い。知らない話が半数以上。聞いたことがあるものはどれも印象深かった噺でした。以下には、解説の部分で気になった部分をまとめたものです。
■ まえがき
江戸百万都市の半分は武家と僧侶。町民の6割は地方出身。3割が片親が地元民。地元民の1割内、「下町育ち」はその半数。江戸の人口の2.5%(2万5千人)。いわゆる町人と呼ばれる人々は、家持階級に限られ、借家住民は、法律的には一人前ではない。租税の対象外、員数外の人間たちであった。
・品川心中
廓から一歩も出られぬ女郎たちには外界との連絡は使い屋を通して届けられる手紙が唯一の手段。その巧拙が稼働の生死を決めた。
・小言幸兵衛
家主は所有者から店賃の取り立て、管理を委任されている。店子の不始末や犯罪も連帯責任を負わされた。店子は厳選された。
・浮世根問
根問いとは、上方語で、根掘り葉掘り問いただすこと。
・大山詣り
大山は神奈川県伊勢崎市。丹波山麓の東端。別名を雨降山。山頂に大山阿夫利神社がある。
噺は作り話。演じ手が心理描写や状況に写実を盛り込みだすと、嘘が膨張して収拾がつかなくなる。
・蛙茶番
芝居好きな大店の主人は、素人芝居や茶番を楽しんだ。
*茶番劇
茶番は、江戸時代中期に大衆娯楽の一つとして発展した、茶道に関連する軽妙な寸劇から始まったとされています。
これが「見せかけで大したことがない」や「滑稽な様子」という意味で、後に「茶番劇」という言葉が「ばかげた寸劇」や「偽りのパフォーマンス」として使われるようになりました。
・酢豆腐
粋は、心意気のこう「いきたい」という理想。苦心を感じさせない、爽やかさを表現したもの。乙は、甲に次ぐ二番手。控え目で抑えた表現を褒め、賛同するときに使う。気障・半可通は、薄っぺらで、本性が透かして見える。
・岸流島
江戸時代に隅田川に架けられた橋は、千住・吾妻・両国・新大橋・永代の五橋。その間を補ったのが渡し船で十五あった。中でも御厩の渡しは乗客が最も多く、明治22年に厩橋が架かるまで存続した。
この話は古くからあった上方の「桑名舟」を江戸へ移し、さらに講釈種の「佐々木厳流」の武者修行を取り入れた。原話は中国である。
・三枚起請
上方種を吉原の引手茶屋に場面を代えた。起請は、年季があけたら夫婦なろうと熊野神社にかけて誓い、誓紙を取り交わしたもの。
戦国時代には違約しない誓い立てる際に、起請文が交わされた。用紙には、紀州の熊野神社の使姫である烏を刷り込んだ牛王宝印が使われた。この用紙に、熊野権現の神様が証人になるという意味の宝印が捺してあった。熊野の勧進比丘尼が祈念をこめるために、「起請一枚書くごとに、熊野権現の烏が三羽死ぬ」という文句をつけて売りに来た。その風習が廓だけに残り、遊女は普通の半紙を使うようになった。
「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」の都都逸は、高杉晋作の作と伝えられている。
・らくだ
駱駝が両国に見世物として渡来したのは1821年。江戸中の評判になった。図体が大きくてのそのそした人物を「らくだにみたい」と言った。
上方種の「駱駝の葬礼」を江戸に舞台を移した。
・疝気の虫
疝気は男性の病気。腰・下腹部の痛みを伴う、睾丸炎から胆石までの総称。病菌を擬人化した艶笑(バレ)噺。
・お直し
狐や狸は尾で化かすが、花魁は手練手管で化かすから「尾はいらない」。
寄席の始まった1804年頃から高座に架けられていた江戸落語。難しく、昔から演り手のない噺。この噺は、志ん生の死とともに冥界へ逝ってしまった。
・宿屋の富
馬喰町の由来はその名のとおり、関ヶ原出陣の際、数百頭の馬を飼うために、配下の馬喰(馬方)を住まわせたことによる。その後も、隣の大伝馬町・小伝馬町に幕府の傳馬役を勤めた大勢の馬喰が明治維新まで住んでいた。
落語では千両富だが、実際は百両から三百両。大阪落語の「高津の富」を、江戸の馬喰町に移した。
・紺屋高尾
神田に紺屋長という染物屋が軒を並べた一区画がある。
三浦屋の松の位の高尾太夫は、十代目まで継承された名跡。中でも有名なのは、千代藩主伊達綱宗に身請けされた「仙台高尾」。二代目とも三代目とも言われる。鳥取藩の島田重三郎に操を立てたため惨殺された。
紺屋高尾は六代目というが、史実の確証は無い。
・和歌三神
江戸時代、百人一首は市井の人々にまで浸透していた。百人一首という遊びも廃れてしまって、この噺も忘れられてしまった。
・鰍(かじか)沢
江戸時代に心中を仕損なうと、二人とも日本橋南詰の晒場へ三日間晒され、非人手下に落とされた。
■ 解説 ジェラルド・グローマー
日本は笑いを忘れた文化。欧米諸国ではジョークを数多く覚え、上手に再現できる人は褒められ人気者となる。お葬式における弔辞でさえ、相手を笑わすことは無礼ではない。
江戸時代の初期、吉原にも能舞台が設置されたほど武士客が大事にされた。後期は町人の時代。落語(おとしばばし)の台頭は中期から。川柳や狂歌が一世を風靡し、風刺画や滑稽本があらゆる身分の人間を笑った。寄席の軒数も増え、19世紀半ばには江戸だけで、六百軒にのぼった。
「読む」ことが「朗読」することを意味したこの時代にあっては、噺家だけでなく、滑稽な話を聞かせあった。
国際交流の場において、批判精神溢れるユーモアの文化を駆使することは大切である。