「教育という病」 内田良 2015年 光文社新書
教育関連の本なので … 手に取ってみました。たくさんのことを教えられました。ありがとうございました! 以下はこの本の要約と引用です。*印はWEB検索結果です。
■ はじめに
学校の価値を信じているのは、外部の市民である。事実の根拠が無ければ、「善きもの」としての教育が暴走してしまう。
本書は科研費「学校管理下のスポーツにおける死亡・傷害事例の分析」における研究成果である。
■ リスクと向き合うために
柔道にしても転落事故にしても、同じような事例が続いている。事故は予測可能であること、回避可能であることを教えてくれた。
■ 巨大化する組体操 − 感動や一体感が見えなくさせるもの
運動会の花形種目がソーラン節から組体操になり、組体操が巨大化・高層化している。組体操は、その場全体を涙に包む、感動系スペクタクルである。
「労働安全衛生規則」では、床面から高さ2m以上の高所での作業について危険防止のために細かな規則が定められている。
組体操は、戦後に学習指導要綱から姿を消した。死亡や重度障害の事例が発生し、訴訟にもなった。それが、2000年代に入って復活した。
教育委員会の回答は「学校の判断に任せています」。学習指導要綱に則った回答は、「組体操は体育の授業で教えるべき内容としては不適切である」。しかし、組体操の練習は体育の時間に行われる。
組体操を支持する教員は、組体操は「感動」や「一体感」や「達成感」を得ることができる、としている。子供の観客も感動する組体操、なのである。
人間ピラミッドの頂点から墜落して重傷を負った保護者。「学校はその翌年も同じようにピラミッドを作りました」それが許せないと訴えた。
組体操は、学習指導要綱に記載がなく、民事訴訟の判例では原告勝訴ばかり。組体操の危険性を知らない学校関係者はいない。
*組体操の現在
近年、組体操は日本の学校の運動会で実施される機会が減少しています。かつては多くの学校で行われていた人気のある演目でしたが、事故や怪我のリスクが高いことが問題視され、議論が進んでいます。
保護者や安全団体が懸念を表明し、一部の自治体や教育委員会は組体操の中止や大幅な規模縮小を決定しています。
安全性を高めるために、難易度の高いピラミッドやタワーの演目を削減する学校も増えています。一方で、学校によっては、適切な指導と安全対策を講じた上で、組体操を継続しているところもあります。
■ 2分の1成人式と家族幻想
殺人事件では、加害者の半数以上が親族である。身近な人間関係だからこそ、殺人にまで至る。
2分の1成人式は、この10年で急速に広がりつつある。授業参観などの機会を利用して、保護者同伴の中で開かれるのが定番。
2分の1成人式は、子供と保護者が触れ合い、両者が感極まるように計画してある。実施項目の、保護者に感謝の手紙を渡す、保護者から手紙を貰う、自分の生い立ちを振り返る、は虐待自動をさらに傷つける。学校では何事もないかのように振舞っている。子供の苦悩を増幅させる。多数派の教員も保護者もそれに気づくことはない。SNSの2分の1成人式の記事は「感動した」「涙が止まらなかった」という声が溢れえている。
虐待や両親のいざこざ。生い立ちを公表するのは容易ではない。みんなが幸せに満ちた生い立ちを語り、先生や保護者が微笑み涙を流すなかで。多数派の家族幻想が苦痛を与える。離婚も再婚もなく、子供は実父母の下で幸せに育てられるという幻想。
学校教育は、子供の家庭環境を問わない場として設計されたものだ。学校は、生まれ育ちに関係なく、子供が平等に学べる場である。裕福な家庭の子供が学業成績の上位を占め、貧困家庭の子供が下位を占める。いかに家庭背景を低減するかが、学校教育制度の使命である。
教員は、保護者からの厳しい眼差しに晒されている。保護者への気遣いを優先して、お涙頂戴の家族幻想に手をつけてしまう。被虐待児や多様な家庭への配慮は、教員であれば常日頃から気にかけている筈である。
*2分の1成人式の現状
近年では、この行事に対する意見も分かれています。そのため、学校によっては内容を簡素化したり、形を変えたりすることもあります。実施の有無や内容は学校ごとに異なりますが、多くの学校ではまだこの行事が続いているのが現状です。
■ 運動部活動における体罰と事故
生徒への暴力が表沙汰になったときに、「平手打ちはあったが体罰ではない」と校長は説明する。学校教育法に「教師は生徒に懲戒を与えることができる。但し、体罰を加えることはできない」とあり、暴力を振るっても「体罰ではない」と言い張る。口が血まみれになるような暴力でさえ、「教育活動」=「行き過ぎた指導」なのである。スポーツ活動中の暴力は、教育活動の範疇で処理されてしまう。
教師の暴力による生徒の被害は重大であっても、教師の体罰による懲戒免職は0件。体罰に悪質性や常習性が認められた場合にのみ免職の可能性がある。
スポーツ事故の背景には、過剰な練習を含む根性論な指導がある。多くの人々が暴力を肯定している。
柔道部の「まわす」は、上級生が下級生に根技をかけ、頸動脈を絞めて「落とす」(意識を失わせる)を繰り返す。
精神の鍛練を重視する過剰な鍛錬は、入内事故に結びつきやすい。
学校では、教師のリンチで生徒が死んでも、教師(指導者)の責任は問われない。死に至るようなものであっても、「教育の一貫」と見做される。
検察は、教員の生徒に対する暴力を不起訴にする。国家賠償法により、公立学校の教員については、民事上の賠償責任が問われることがない。
*大分県竹田高校の剣道部における熱中症による死亡事件に関する最高裁判決
大分地方裁判所および福岡高等裁判所において、学校と市に対して損害賠償責任が認められました。最高裁判所において、上告が棄却されたため、控訴院の判決が確定しました。つまり、学校と市が損害賠償責任を負うという判断が最終的なものとなりました。
虐め集団は、[被害者/加害者/観衆/傍観者]の「虐めの四層構造」によって成り立っている。面白がっている「観衆」と、見て見ぬふりをする「傍観者」がいる。
過剰鍛錬を課す顧問教員は「指導熱心」と評価される。学校内で発言権を持つようになる。保護者もその顧問を高く評価する。
教員の暴力事件に対して、保護者やOBが「寛大な処分」を求めて嘆願書が集められる。暴力の文化が、観衆と傍観者によって支えられている。
学校の改革の障壁は、外部の市民である。先生が、保護者の問題を表立って語るのはタブー。学校内部の者が、保護者を批判することは許されない。
部活動の中で、実施人口比で見た死亡件数が突出して高いのが柔道とラグビー。
■ 部活動顧問の過剰負担
教員も教育という「善きもの」かあ逃れられない。「部活動」は、教育課程に存在しない。制度上では、部活度は生徒と教師の自主参加によって運営されている。やりたい人だけがやることになっている。現実は、生徒も半ば強制されて参加し、教員は強制されて顧問を「ボランティア」で担わされる。
予算や人員の手当てが無いままに、部活動の公務化が宣言され、矛盾は膨らむばかりになっている。
OECD34ヶ国の中で、日本の教員の勤務時間が最も長かった。勤務時間は長いが、授業に費やされている時間は長くない。忙しい主要因が部活動指導である。実質として、最低賃金を下回る労働条件になっている。
自費で本やDVDを購入し、他校に出向いて指導方法を教えてもらう。それでなんとか、子供たちに教えられるようになる。
大阪市は、2015年から一部の市立中学校の部活動を外部に委託する。スポーツ経験が豊かであることと、スポーツ科学を理解していることとは一致しない。経験者の方が重大事故を起こしている。
■ 柔道界が動いた − 死亡事故ゼロへの道程
学校の柔道で過去30年で118名の子供が死亡した。2012年以降、死亡事故はゼロになった。事故抑止に取り組めば、問題は改善される。
柔道の死亡事故には、同じような事例が多い。事故の典型が放置されていた。初心者の自己が多い。死因の多くを頭部外傷が占めている。初心者は受身が不充分で、投げられることが多い。
脳震盪は「意識喪失」だけではない。「いつもと違う」様子であれば脳震盪を疑うべき。脳震盪は、脳が振れることによって発生する。脳は頭蓋骨の中に浮いている。脳震盪は脳を直接打たなくとも生じる。
スポーツでは脳震盪が繰り返されることがある。脳震盪は、一度起こして競技を続けたときに再発し易くなる。脳震盪を含む頭部外傷が疑われたときには、安静を心掛ける。
日本ラグビーフットボール協会は、常時医師の管理下にない限りは、14日間は安静にしなければならないとしている。競技復帰は、21日後としている。魔法のヤカンは過去のものである。
海外では柔道の死亡事故が殆ど確認されない。柔道という競技が危険なのではなく、日本の柔道が危険なのである。
2010年から二村雄次氏らの尽力により、頭部外傷の予防を中心とした安全対策の取組みが開始された。公認指導者資格制度の確立、学校現場向けの思想教本の作成、安全指導プロジェクト特別委員会の設置。学校や町道場の三段以上の柔道指導者には、全員が都道府県の柔道連盟開催の「安全指導講習会」を受講するよう要請された。今や、頭部外傷の予防なしに、柔道指導は考えられない。
■ 市民社会における教育リスク
教育のリスクや暴力や虐めは、正当化されることがある。教育だからという理由で免罪される。市民社会が暴力や虐めを容認している。運動会で負傷事故の多い組体操や騎馬戦は、保護者や地域住民の歓声によって支えられている。教育という善き営みは、子供を傷つけることを正当化している。