「無限論の教室」 野矢茂樹 1998年 講談社現代新書

 名著なのは認識していましたが、じっくりと考える時間をとれませんでした。今は時間はあります。という訳で、やっと読みました。間違いなく名著ですね。目から鱗でした。ありがとうございます。

 それにしても思い出されるのは、早稲田高校の2年生の時、数学の中村先生と、カツ丼発祥の「三朝庵」の二回で「デデキントの切断」についての議論。先生は博士論文のテーマが「数直線の実在性」。何故か私を相手に考察の幅を広げようとしてらしいのです。数学が好きで、発想がぶっ飛ぶところがある私が、何かの刺激になると思ったらしいのです。この本を読んでいると56年前の議論がふと蘇ります。 以下はこの本の要約と引用です。


■ 学生が二人しかいなかった

 無限というのは、大小の概念とは別物。無限は、数でも量でもありません。

■ アキレスと亀・自然数は数え尽くせない

 無限に足算を続けても無限大になるとは限りません。収束する無限級数もあります。

 自然数は、定義上数え尽くせないものである。

 ゼノンのパラドクスは、無限級数が収束しても、自然数は数えきれません。問題は無限回の行為をするという点です。無限回の命令をやり遂げることはできません。それは、無限の時間がかかるというのではありません。無限回の行為は完結しません。直線上に無限個の点が含まれると考えるからです。

■ 可能無限と実無限

 線分が無限の点を含むということは、何を意味しているのか。線分から無限の部分を切り取ることはできますが、線分を無限の部分に切り分けることはできません。まず、線があり、任意の箇所でその線を切断する。その切り口として点が作られる(切り口解釈)。

 寄せ集め解釈と切り口解釈は、無限論で対立しあう二つの立場です。寄せ集め解釈は、線分には無限個の点がすでに存在していると考えます(実無限)。切り口解釈は、可能性としての無限しか考えません(可能無限)。可能無限の立場からは、実無限は妄想です。

 実無限と可能無限を最初に議論したのはアリストテレスです。

 有限主義は、可能性としての無限も考えません。

 πは無限小数。定まった値を持っていません。

 アリストテレスの影響下にあった中世の神学者たちは、神の名の下に実無限を、アリストテレスの名の下に可能無限を抱え込みます。

 カントールは実次元の立場です。

■ 全体と部分

 自然数と偶数はどちらが多いか?実無限の場合には、全体と部分は等しくなります。

 包含関係による集合の大きさの規定は、任意の集合を比較するときには役に立たないのです。

 一対一対応が作れれば、集合Aと集合Bは「濃度が等しい」と言われます。一次元(直線)と二次元(平面)の点の集合は濃度が等しい。何次元だろううと等濃度です。次元の差異は崩れ去ります。

 無限集合でも全体と部分は等しくありません。自然数と偶数の濃度は等しくなります。しかし、それらの集合が同じものではありません。測定方法が違うだけです。包含基準と対応基準は異なる測定法です。

■ 対角線論法

 実数を表した直線を「数直線」と呼びます。無限小数として表される数が実数。1は1.000…です。

 カントールの対角線論法は、無数のオセロの駒を全て挙げることはできないというのと同じです。

 「実数は完結した全体としては存在しない」パース。書き尽くすことができないものを一望のもとにして、一対一対応ができたと仮定するのは、そこに潜む実無限の想定がおかしいのです。

 全ての自然数を足したものをαとします。αも自然数ですから、αを作るときにはα自身も足していることになります。それを無限集合論では「超限数」などと言うのです!

■ 実数とは何か

 √2は数か?√2は完結した数につけられた名前ではなく、開平方というやり方につけられた名前です。

 可能無限の立場からすれば、実数という無限集合は存在しません。

■ ベキ集合と概念実在論

 ある集合を作るということは、その集合を特徴づける概念を定めることにほかなりません。

 ある集合の部分集合を考え、その集合に対して作ることのできる部分集合を全て集めたものを「ベキ集合」と言います。可能な概念の全体を無限集合としてまとめます。人間が作り出す前に、全ての概念は存在するというのが無限集合論の立場です。

 要素の数がn個の集合の可能な部分集合の数は2のn乗になります。だから、「冪(ベキ)集合」と言うのです。

 ベキ集合のベキ集合 … 無限はその濃度を無限に大きくなってしまいます。

 羊羹の切口に羊羹はありません。羊羹の切口を集めても羊羹にはなりません。大きい羊羹は小さい羊羹からできているのであって、無限の切口からできてるのではありません。

■ 無限の無限系列

 実数の数直線は、「べったり」のアナログ集合。

 全ての集合の集合などは作れないのです。

 ラッセルのパラドックスによってカントールの無限集合論に矛盾があることが自覚されます。矛盾が生じないことが保証できないことが証明されました(ゲーデルの第二不完全性定理)。

■ ラッセルのパラドックス

 無限は、対象がたくさんあるということよりも、それを概念化して捉えるときに開けてくるものです。

 ラッセルのパラドックス以前の集合論を「素朴集合論」と呼びます。

 カントールの無限集合論は、対象を集めて集合を作ったら、その集合をまた対象化して集合の集合を作っていきます。ある集合の中に自分自身が入っていることも起こります。

 「この文は間違っている」は、矛盾しています。自己言及のパラドックスです。ラッセルのパラドックスは、対角線論法なのです。対角線は、自己言及を作り出す仕掛けになっています。

■ 直感主義

 可能無限の無限感に従えば、無限集合はその集合を構成する方法や規則にほかなりません。自然数は「0に1を加えていく」規則によって構成されます。無限集合は完結した全体ではなく、それを構成する規則なのです。

 対角線論法は、実数の集合という完結した全体の濃度についての証明ではなく、実数の数列が与えられたとき、そこにない新たな実数を常に構成してみせる方法を示しただけです。

 可能集合論の立場からいえば、全ての集合を作り出す規則はあり得ません。そんな集合はありません。全ての概念の体系が整然と作られていくなどということはあり得ません。

 無限は虚構であり実在しないのです。

 「AかAでないかどちらかだ」というのは「排中律」。排中律が認められるか否かは、その対象を実在のものとみなしているか実在せぬものとみなしているかの基準となります。直感主義は、無限に対して非実在者としての立場をとり、無限が関わる領域では排中律を拒否します。思考の産物は実在のものではありません。

■ 形式主義は排中律を取り戻そうとした

 直感主義は、可能無限の無限感から矛盾を克服すると同時に、排中律を認めない禁欲な論理(直観主義論理)を提唱します。

 ヒルベルトは、数学を記号変換の計算とみなします(公理系)。公理は真理かどうかということとは無関係。内容を持たない記号計算です(形式主義)。その公理系が期待される定理を導出できるものであることが要求されます(完全性)。無矛盾性と完全性を保証するのが「メタ数学」。その公理系を「超えて」その外から公理系を吟味します。メタ数学を直感主義にも拒否できない形で展開することを、ヒルベルトは「有限の立場」と言いました。

■ ゲーデルの不完全性定理

 ゲーデルの不完全性定理は、自然数論に対してのものです。

 第一不完全性定理:無矛盾で完全な自然数論の公理系を作ることはできない
 第二不完全性定理:有限の立場のメタ数学では自然数論の無矛盾性は証明不可能

 自然数論の公理系は、不完全であるか、矛盾しているか。公理系の夢は打ち砕かれました。

 可能無限の立場からは、完結した公理系は作れない、のです。

 ゲーデルは、実在論者でした。可能無限か実無限かの決着はついていません。

■ あとがき

 カントールの対角線論法は間違っている。√2は数ではない。実数の集合などは存在しない。

 本書の背骨はウィトゲンシュタインです。