「歴史とは何か」 E・H・カー 1962年 岩波新書
刷を重ねている有名な本で、こんなにつまらぬ本も貴重。西洋人の言葉遊び。それに呼応した西洋かぶれの清水幾太郎。馬鹿馬鹿しくて涙がでちゃう〜〜。西洋に哲学宇は無い。頭が悪いというより、向いていない。 日本なら中学生も深く理解している。 以下はこの本の要約と引用です ← 当たり前のことをまとめただけですが。
■ はしがき
「歴史は、現在と過去との対話である」E・H・カーは、この言葉を幾度も繰り返している。
■ 歴史家と事実
19世紀は事実尊重の時代。歴史は、事実の集積からなるということになります。
輿論を動かすには、都合の良い事実を配列することにあります。事実は自ら語る、は嘘です。シーザーがルビコンを渡ったのは、歴史家が決定したことです。歴史の事実は、解釈の問題に依存します。客観の事実は存在しません。
「歴史家が研究する過去は … 現在も生きている過去である」コリングウッド。「歴史を書くのは、歴史を作る唯一の方法である」オークショット。歴史とは、現在と過去との対話です。
■ 社会と個人
社会と個人とは不可分のものです。
現代社会の興隆に伴う個人化の増大は、文明の正常な過程です。個人主義は、個人を手段とし社会を目的とする現象に対する抗議としての意味がありました。
歴史家は、歴史を書き始める前に歴史の産物です。
歴史は、文学の一部。歴史は科学ではない。そういう考え方もあります。
アダム・スミスの「見えざる手」、ヘーゲルの「理性の奸計」。個人は個人の欲望を満たしているだけです。
誰かが1930年代の大不況を欲したとは考えられません。しかし、諸個人の行為によって生じたことは明らかです。歴史上の事実は、孤立した個人の行為に関する事実ではありません。社会の内の諸個人の相互作用。社会に諸力に関する事実です。行為の背後に潜んでいるのは、個人の動機とは無関係かも知れません。
■ 歴史と科学と道徳
バートランド・ラッセルは「機会の数学と同じように、精密な人間行動の数学」が生れると期待していた。社会科学者たちは、生物学からヒントを得て、社会を一つの有機体と考え始めました。
事実を蒐集し、事実からの帰納によって法則を発見するのが科学者の仕事であるという気持ちになっていました。アダム・スミス、マルサス、マルクスは法則を発見したと称しました。
「仮説は、証明され、変更され、反駁されることを免れない」アンリ・ポアンカレ。
歴史がいろいろの時代に区分されるのは、事実ではなく、その有効性は解釈の如何によるのです。
バラクルーは、科学の真理とは「専門家たちの間で認められている命題」と定義しました。
「世界には名称以外に普遍なものは無い」ホッブス。
事実と解釈とを引き離すことは出来ません。
科学とは違い、歴史は将来を予言することが出来ません。
社会科学では主体と客体が同じ範疇に属し、相互に作用し合います。観察者と観察される対象との双方が、観察の結果の中に入ってきます。
ヒトラーやスターリンに道徳判断を下すのは歴史家の仕事ではありません。
「資本主義が労働者や債務者を巻き込んでいく主人不在の奴隷制」マックス・ヴェーバー。歴史解釈は価値判断を含みます。
歴史は闘争の過程。ある集団の成功は、他の集団の敗北として生み出されます。勝てば官軍です。勝利と共に不幸があります。
進歩の代償とか革命の犠牲。「習慣の片意地な持続力は、革新と同じように狂暴なものえす」ベーコン。特権を失った人、権利を得た人。「万人平等になったら幸福な人間は一人もいなくなる」ジョンソン。産業革命は、工業化に伴う強制や搾取が不可避でした。
代償を払う人間と利益を得る人間が一致することは稀にしかありません。
■ 歴史における因果関係
歴史の研究は原因の研究。「なぜ」を問い続けます。
カール・ポッパーは、ヘーゲルとマルクスの決定論の歴史哲学=「歴史主義」を攻撃しました。
人間の行動は、自由でもあり、決定されてもいます。
偶然は存在します。クレオパトラの鼻、レーニンの早い死は、歴史を変えた偶然です。
観察された事実から「有意味な事実」を選び、繋ぎ合わせて編み上げます。因果の連鎖を取り出します。
歴史家は、合理な原因と偶然の原因を区別します。
■ 進歩としての歴史
ルネサンスは、キリスト教の抑圧からの部分脱出を、古代への再発見/回帰という形で成し遂げました。
トインビーの、文明は勃興-衰退-崩壊を経過していく図式は、それ自体としては無意味なものです。
価値は事実から引き出すことはできない。私たちが事実を知ろうとするとき、私たちの価値体系が背景になっています。価値は事実のうちに入り込んでいます。私たちの歴史観は、私たちの社会観を反映しています。
■ 広がる地平線
フロイトは本来は社会問題であるものを個人の立場から見ているという批判は、米国の新フロイト学派には当て嵌まります。不適応は個人に内在するもので、社会の構造に内在するものではないと考え、個人を社会に適応させることを心理学の役割と見ているからです。
アクトンは、世界史は「国々の歴史を結び合わせたものとは違うもの」だと述べました。
政治家や事業家の一部は、大衆の不合理を理解し利用して目的を達成しようとしています。
政治問題においては、「出発点もなければ目的地も無い。水平に浮かんでいるだけだ」とオークショットは言います。しかし、それでも ― それは動くのです。