「影の総理と呼ばれた男」 菊池正史 2018年 講談社現代新書
政治家-野中広武氏の人生を描いた本です。反戦を貫いた保守の剛腕政治家。戦争したがる右翼政治家、中曽根や小泉や安倍と鋭く対立した姿は強く印象に残っています。なぜそうなったのか、知りたくなって読んでみました。出自が京都の部落民とは知りませんでした。そう言えば、それで理解できる行動もありましたね。善き政治家ではなかったかもしれませんが、敬うべき人間でもあった。そんな姿に涙しました。 以下はこの本の要約と引用です。
■ まえがき
戦争の記憶を語り継ぐこと。二度と戦争をしない、させない政治を行うこと。野中広武が生涯貫き通した信念だった。
価値観を共有できない人間に対する野中の攻撃は熾烈を極めた。
1993年、小沢一郎は仲間とともに自民党を離党した。小沢は「非自民」勢力を結集して細川護熙内閣を発足させた。国政では無名だった野中は、小沢との闘いで表舞台に躍り出た。
1994年、自民党は村山富市連立政権で返り咲く。
「君らの向こうには国民がいる」野中はそう言って、新聞記者の夜討ち朝駆けに付き合った。情報戦を仕掛ける野中にとって、記者は利用価値のある「味方」だった。野中は誰であっても対等に接した。
野中の政治は弱者への視線を失うことはなかった。自ら重度障碍者授産施設を設立運営した。
野中の政治家としての終盤には、単純さを求める時代が訪れていた。わかりやすさと利便性が絶対の価値として定着しつつあった。野中の政治は、鵺ようだと揶揄されるようになった。
「守るべきものは、平和であり、国民を中産階級にしていくこと」野中の言葉には、戦後保守の精神が凝縮されている。
野中が政界を引退して以降、政治は「敵」をあぶり出し、叩くという単純な手法によってリーダーシップを演出している。議論を通じた妥協や調整を軽視し、独断でやり切る。そんな政治が「決める政治」として支持される時代となった。
■ 「戦争は許さない」という政治
日本軍は、日露戦争以来、白兵突撃を挑み続けた。全滅を「玉砕」という言葉で美化した。
兵隊の実際の階級は、初年兵・二年兵・三年兵という序列だった。
軍隊では、命令を反射的に実行する兵士が必要だった。人間らしさを破壊することで、兵士は兵器となる。暴力はそのために必用だった。恐怖と緊張と過労で、思考力は停止する。
出撃させれば、それでよし。戦果は問われず、特攻は終戦まで続いた。員数と実体との溝は、兵士の死によって埋められた。
一色に染まる日本の精神風土への不信は、野中から去ることはなかった。
「私は「戦陣訓」など読んだことは無いし、軍隊で奉読されたこともない」。山本七平は、戦陣訓が兵士を支配したというのは、戦後のメディアの作り話だと指摘した。
「潔く死ね」という精神は、戦争を非難する人たちを「非国民」と罵り、捕虜となった兵士の家族を村八分にする国民の内面に培われていた。
1932年、5・15事件で、海軍の青年将校らが犬養毅首相を暗殺した。被告への減刑嘆願が数多く寄せられた。恐慌が日本経済を痛打し、農村や中小企業の荒廃がひどく、貧困層の娘が身売りを余儀なくされてた。政党は事態打開の力を持ちえず、権力闘争に明け暮れ、財閥は富を独占して肥大化した。5・15事件の減刑運動は、国民運動に発展した。
言論統制も国民の黙認なくしてはあり得なかった。国民が自ら軍国主義に染まった。反戦・反政府の発言は、隣組によって当局に密告されることも少なくなかった。
1933年、治安維持法で検挙された人数が最多。小林多喜二が拷問死した。街では「東京音頭」とヨーヨーが大流行した。時の政治権力に追随する者、その暴虐に無関心な者は、いつの時代も陽気な声で歌い興じるものだ。
■ 叩き上げの精神
野中は、被差別部落出身だった。野中は、憚ることなく出自を公言した。差別撤廃は、野中の政治人生をかけたテーマだった。差別をなくすということは、「逆差別」も許さいということだ。同和行政は、差別の解消にはならない。
「差別される人たちに対して、私は『俺を見ろよ』という思いなんだ」。真面目に働けば報われる。
野中は弱者に関わり続けた。戦災孤児に食事をふるまい続けた両親から学んだ。
6ヶ月の軍隊生活は、精神的な後遺症が残るようなこともなかった。
労働組合が勢力を拡大していた。1947年、ゼネストが計画された。マッカーサーによって中止を命じれる。マッカーサーは吉田に衆議院選挙を命じた。
1947年の衆議院選挙で、第一党になったのは社会党。片山哲内閣が発足する。GHQは、東西冷戦により、反共主義と秩序維持を重視し、吉田の再登場を後押しする。
1948年、吉田内閣が発足。経済優先、対米協調、軽軍備が戦後政治の基本路線として定着する。
1957年、田中角栄は戦後最少年の39歳という若さで郵政大臣に就任。郵便局を増やし、貯金や保険で集まる資金を財政投融資として公共事業に投下した。民間業者に金を落とし、政治献金を還流させる。政官業トライアングルを循環する資金の大きな供給源が郵政事業だった。
野中は、ことあるごとに田中邸を訪れるようになった。
国民の生活の場に足場を置いた経済発展と、それを国家の再建、さらには国際経済の一員へとつなげていくダイナミズムは田中ならではである。吉田の下で、異色の参謀として頭角を現す。
1945年、経済優先の吉田と、憲法改正と再軍備を主張する復古派が鎬を削る。東条英機内閣の商工大臣として開戦詔書に署名した岸伸介。安倍晋三の祖父だ。
吉田は、自由主義や経済発展によって国民生活を復興する道を優先した。
1958年、33歳の野中は町長選に出馬し当選した。戦時中までの利権構造、癒着や慣例などに果敢に挑む「戦後新人類」だった。
役場の玄関の貼紙には …
窓口に仕事のもちばに違いはありません。なんでも相談に応じます。
窓口と相談係には聞捨てにするクズかごははありません。
窓口と相談係にはくさいものにするふたはありません。
窓口と相談係にはたらいまわしにするたらいはありません。
町行政上の疑問は何でも遠慮なく相談係にたずねてください。
田中角栄は、「もっと豊かになりたい」という人々の欲望を吸収した。戦後保守の「大衆化した政治」は、「日本列島改造論」でピークを迎える。田中は、1972年内角総理大臣に就任した。
野中は、蜷川による28年にわたる京都の革新府政に終止符を打ち、府政を保守の手に奪還した。反権力が新たな権力となって独裁に転化してしまうのは、左翼勢力が権力を握ろうとする宿痾(しゅくあ)とも言える。
■ 虎視眈々
田中は総理大臣に就任した直後訪中。国交異常化を実現。パンダも連れてきた。田中の列島改造にともなう財政出動が1973年になるとインフレを煽った。
1978年、大平が総理となり、消費税の導入を唱えた。1976年に発覚した田中のロッキード事件。自民党への逆風は凄まじかった。
1983年、57歳で衆院選に初出馬。「愛のない社会は暗黒であり、汗のない社会は堕落である」。野中は当選を果たす。
野中は、竹下や金丸のインナーサークルに席を与えられていた。
■ 反逆者との戦い
「大衆に追随し、大衆に引きずり回される政治が民主政治だとは思わない。民衆の二、三歩前に立って民衆を率い民衆とともに歩むのが、本当の民主政治のリーダーシップだと思う」岸信介。岸は、米国から与えられた憲法を改正し、自主防衛を果たして米国と対等な「真の独立」を回復することを目論んだ。
戦後日本の政治は、「大衆化」に軸足を置いた「本流」と、吉田が作り上げた戦後体制からの脱却を目指す「傍流」とのせめぎあいだった。岸の次に、戦後体制からの脱却を目指したのが中曽根康弘である。
もっとも中曽根自身も後藤田と同じように、戦争を経験したものとしての自制があった。
戦後保守は、強すぎるリーダーシップを警戒した。後藤田は「官邸主導」への警鐘を鳴らし続けた「総理主導の政治は、総理専制に通じる恐れもある」。
人々の欲望を開放して正当化した戦後保守の政治が、金権政治に行きつくのは必然とも言えた。
人々の「平等意識」が、嫉妬感情の根底にある。
小沢一郎は1969年に27歳で初当選。田中は早逝した長男と同じ年の小沢を可愛がった。米国に対し「言いたいことは言う。約束は守る」。米国からもタフネゴシエーターとして一目置かれた。一国平和主義から脱却し、「能動的平和主義」に転じることを訴えた。
小沢が力を注いだのが政治改革。政治と金の問題の元凶は中選挙区制にあると主張した。派閥政治を助長する。小選挙区制になれば、選挙は政党の選択となる。政権交代もし易くなる。選挙区には一つの選挙区には一人の候補となるから党執行部のリーダーシップが強くなる。総理大臣のリーダーシップも発揮できる。
「敵をつくらない」調整文化とは逆に、「敵をつくる」小沢の政治に、多くの人々が興奮した。
1993年、小選挙区制を柱とした政治改革関連法案を成立させれらなかった宮澤内閣に対する不信任決議案が可決された。小沢らはそれに賛成し、自民党を離党して新生党を結成した。非自民勢力による細川連立政権を発足させた。
野中は、小沢糾弾の先陣を切った。自衛隊の海外派遣には反対だった。米国の手先になることが、日米協調と映っていることに恐怖を感じた。野中は強すぎるリーダーシップを嫌った。リーダーも間違い、国民を不幸にする。
野中は小沢のアキレス腱、公明党を標的とした。
1994年、細川は総理辞任を表明した。小沢は自民党の渡辺美智雄の擁立を画策した。しかし、渡辺は決断できなかった。自社さ連立の共通基盤は「反小沢」だった。村山富市内閣が発足した。小沢はこれを野合と批判した。
野中は小渕派の中で幹部となっていた。
「もう二度と、自民党が単独で政権を維持するのは不可能だと思っていました」。野中は、社会党が自滅するとわかっていながら、社会党を利用した。
1997年、沖縄の米軍基地の土地を永久に軍用地として使用できるようにする駐留軍用地特措法。橋本-小沢の保々連携で成立した。委員長としての報告で「この法律が沖縄県民を軍靴で踏みにじるような結果にしてはならない」野中はこう締めくくった。梶山も「日本国憲法は、二度と戦争をしないためのお守りみたいなもの」と語っていた。
公明党との連立を実現したのは野中だった。野中の権力闘争は自公連立に収斂する。公明党はぶれない。個々人の考え方は別にして、決まったとおりに行動する。公明勢力も、小選挙区制で苦しい結果が想定されることから、中選挙区制の復活を求めていた。個人の感情よりも、求められる政治状況を作るため変幻自在な関係性の中で生きていく。この柔軟性が戦後保守の厚みだった。
1998年、参議院選挙で自民党は大敗。衆参で多数派が異なる「ねじれ国会」となった。小淵内閣の下で野中は官房長官に就任する。
小泉純一郎の政治の師は福田赳夫。妥当田中派は福田の派閥「清和会」の宿願。小泉はその宿願を背負って挑み続けた。小泉は、経世会の牙城を支える郵政事業にも切り込み、郵政民営化を持論とした。小沢にも対抗し、小選挙区制に反対した。福田派の系譜は森派となり、小泉は派閥会長も務めた。
1999年、公明党を連立に加えて、自自公連立の小渕内閣が発足した。野中はこれを見届けて、官房長官の座を退く。党務に戻って、幹事長代理に就任する。
2000年、小渕が倒れ、森喜朗が総理総裁とした。野中は再び幹事長に就任する。
■ 保守本流の敗北
1998年、北朝鮮のミサイルが日本上空を通過した。安全保障環境は変化した。自衛隊の海外派遣、集団的自衛権の行使、憲法九条改正が語られる。
野中にとって、戦争は無条件であってはならないものだった。そして、戦争の傷跡は修復しなければならない。それが日本の良識だと考えていた。
戦後保守からの脱却を唱える右翼な人々からすれば、野中らの「償いの政治」は弱者権利の擁護であり、屈辱的、弱腰と映った。
保守本流の政治が保ってきた均衡が崩れ、抑え込まれてきた感情が、左右の双方から噴出した。
「政治とは何か、生活である」田中角栄。戦後保守本流の根本だ。野中にとって、現実に対処する上で、理念は二の次となる。野中の政治は「今、目の前にある苦しみに、すぐに手を指しのべる」。社会構造全体の中で考えると論理が歪んでいても、気にしなかった。
2000年、公明党の基礎票への依存は強まり、公明党とのパイプを持つ野中の権力も強まった。「影の総理」と評された。
古賀誠を後継指名して、野中は身を引いた。権力には淡泊だった。
「調整型政治」に伴う「不透明さ」を払拭することはできなかった。長引く平成不況を克服できない「決められない政治」への批判が再燃した。
2001年、失業率は5%に達した。不良債権処理は遅れ、銀行は貸し渋った。経済はデフレ状態となり、雇用と賃金の低迷、個人消費は冷え込んだ。
2001年、平沢勝栄は古い政治からの脱却を目指した。小泉純一郎と田中真紀子を仲間に引き入れ、「古い保守政治vs改革派」の構図を打ち出した。自民党総裁選の主体を国民の手に渡す。国民と一体化を演ずる役者が必要だった。
古賀は野中に総裁選出馬を求めた。しかし野中は立たなかった。
「自民党をぶっ壊す」小泉は絶叫した。改革派のイメージは、国民の間に期待感だけを膨らませた。
小泉は異端者だった。党の会議に出ることもまれだった。議員間の交流もほとんどなかった。小泉も小沢もわがままだった。しかし、小泉には小沢のように離党してもついてくるような仲間は殆どいなかった。この無情なリーダーを支えたのは国民だった。
「抵抗勢力vs改革派」という二極対立は、わかりやすさを重視するテレビの特質と合致した。敵を叩きのめす演出にテレビを巻き込んだ。爽快感と残虐性と意外性に人びとは興奮した。
「聖域なき構造改革」「改革なくして成長なし」。短く印象に残るワンフレーズを多用した。短時間で伝えるテレビ報道と共振した。
小泉は都合の悪いときでも、テレビカメラから逃げなかった。露出は透明性イメージにつながる。人々の政治への疎外感を解消した。
戦後保守の負の遺産を、小泉は抵抗勢力の責任に押しつけ、国民の怨嗟と攻撃の対象に供した。
テレビ記者は、その時々に見せられる現象、視聴者を惹きつける映像が得られた。小泉劇場は、優秀なテレビコンテンツだった。
小泉は高い支持率に支えられて、小沢ができなかったことを全て実現した。
調整文化の破壊。組閣や党人事は独断。予算や政策の立案を、直属の経済財政諮問会議に移す。根回しや談合を否定し、官邸で決め、決めたら妥協しなかった。
調整文化を否定した結果「多数決至上主義」が徹底する。決める政治が実現した。
「民間にできることは民間に」。自己責任で生き残る企業や個人を理想化した。
政官業の癒着、しがらみ、不透明さを嫌い、公共事業の削減、不良債権処理、郵政事業や道路公団の民営化、特に田中派の後継者たちが差配していた利権構造にメスを入れた。
外交でも、小沢が成し遂げられなかった自衛隊の海外派遣を実現した。日米協調路線をひた走った。
効率を優先すれば地方や弱者は切り捨てられる。小泉は、改革には痛みが伴うと言った。
自衛隊の海外派遣を決めるテロ対策特別措置法。2001年の本会議採決に、野中と古賀は採決を棄権した。
小泉劇場の熱狂の中、野中の批判は「遠吠え」に聞こえた。
2003年、野中は政界からの引退を表明する。
再選された小泉は、安倍を幹事長に起用し、後継者の育成に着手した。
小沢の思惑通り、リーダーである総理大臣の力が強化された。
小沢の狙い通り、政権交代も実現した。2009年、民主党政権ができあがった。
引退後も、野中は政治に関わり続けた。訴え続けたのは「反戦」だった。
2015年、第二次安倍政権は、集団的自衛権を行使する安保関連法を成立させる。
「戦争を知らない人間は、半分は子供である」大岡昇平。「半分子供」たちが、勇ましく虚勢を張っている。
■ あとがき
小沢から小泉そして安倍に至る、反対意見に妥協しない「強さ」。経済の不安、中国の脅威、未熟な知性。それらが「強さへの憧憬」を助長している。
民意は時に混乱する。右へ左へと振れる。
最近の政治は二極対立を煽り、国民に二者択一を迫る。抵抗する者を倒す。国民を騙し続けた「大本営発表」の病根が再び萌芽している。