「現代イラン」 桜井啓子 2001年 岩波新書
ちょっと古いけれど、イランに関する数少ない本なので手に取ってみました・・・。著者はイランをよく知っていますが、理解はしていないようです。残念ながら面白くない! 以下はこの本の要約と引用です。*印はWeb検索結果です。
■ まえがき
ペルシャ湾とカスピ海に挟まれた国土に6千万人の人口を擁するイラン。紀元前500年には、アケメネス朝ペルシャ帝国が栄えた。16世紀、イランに統一王朝を樹立したサファヴィー朝がシーア派イスラームを国教とした。
1979年、イスラーム法学者の支配する宗教国家が誕生した。西洋諸国と敵対し、国際社会から孤立した。
最高指導者ホメイニーの死後、ヴェラーヤテ・ファギーフがどのように継承されたかを見る。
イラン暦に62年を足して西暦に換算し、「年度」と表記した。
■ 革命の渦へ
19世紀以来、イランはロシアと英国の進出に苦しめられてきた。
1925年、レザー・シャー・パフラヴィーが国王となり、パフラヴィー王朝を樹立した。1935年に、国名をペルシャから「アーリア人の国」を意味するイランに改めた。
白色革命。農地改革は、イランの伝統的な制度を根底から変えた。地主層やワクフ(宗教寄進地)を財源とした宗教勢力激しい抵抗の中で断行された。反国王運動を引き起こした。女性に選挙権を与え、宗教勢力は反発した。
シーア派では一定の学識を積んだイスラーム法学者には、イスラーム法の解釈権(エジュテハード)が与え、モジュタヘド(模擬される者)と呼ぶ。その最高権威者がマルジャエ・タグリード。一般信徒は、モガッレド(模倣する者)と見做され、モジュタヘドに従う。
ホメイニーのイスラーム共和国の統治体制の基本理念が、ヴェラーヤテ・ファギーフ=イスラーム法学者による統治。シーア派の起源は、預言者の愛娘ファーティマの婿となったアリーを支持する人々の党派。党派を意味する「シーア」と呼ばれるようになった。イマームは、預言者亡き後、信仰共同体を指導するために神から選ばれた者。シーア派独自のもの。イスラーム法学者がイマームの機能を代行するというものである。ホメイニーは、イスラーム法学者はイマームの政治指導権も代行すべきと説いた。
自作農の大半は零細農家。農地改革で取得した土地を農業公社に渡し、農業公社の労働者となった。機械化のために、小農民までも都市へと流出した。貧困層の住むスラムの住民となった。一方で、ホワイトカラーは、消費生活を謳歌した。都市と農村の格差は広がった。
石油ブームはイラン経済を潤し、国民所得を増大させたが、インフレが貧困層を苦しめた。インフレと失業はイラン社会を追い込んだ。人々はホメイニーの掲げる「正義の確立」や「被抑圧者の救済」に共鳴していった。人々の怒りは「国王に死を」「アメリカに死を」のスローガンとなった。
反国王運動で共闘した集団は、革命の成功とともに、新体制のあり方を巡って激しい闘争に突入した。
マルジャエ・タグリードのホイーもイスラーム法学者が政治に直接携わることを否定した。
イスラーム共和党は、勢力を拡大し、新憲法にヴェラーヤテ・ファギーフを明記することに成功した。ホメイニーを最高指導者とし、三権の長をはじめとする要職をイスラーム法学者が占める体制が確立された。
1981年、イラン・イラク戦争が勃発する。前年にイラク大統領に就任したサッダーム・フセインは、革命の混乱に乗じて短期間で戦果をあげるつもりでいた。単独支配を確立したイスラーム共和党は、大衆動員を開始し反撃に出た。
戦ったのはイラン国軍と革命防衛隊とその配下の民兵だった。革命防衛隊はホメイニーが設立した。前身は反国王運動に参加したゲリラ集団。革命防衛隊はシーア派貧困層の失業者を吸収した。ウラマーたちは、少年兵のバシージ(動員)も指導した。短期間の訓練と軽装備で前線に送られ戦死した。武器が調達できないイランにとって、兵士の量だけが武器となった。
イランは学校教育を通じて殉教の意義を説く。「神を信じる者は死を恐れない」「死とともに素晴らしい来世に旅発つ」。無名の戦士たちは、死と引き換えに栄誉に浴した。
戦争を知らない世代が増え、殉教の教えも記憶の底へ沈み始めた。
イランは、イラク、アラビア半島、シリア、レバノンなどのシーア派系のイスラーム組織に支援=「革命の輸出」を行った。
■ 祖国をあとにした人々
反革命を疑われ、国の将来を悲観して海外に移住した人々がいる。「西洋かぶれ」の留学生エリートへの批判が噴出した。最も多いのが米国のロサンゼルス。国王一族も米国に渡り、優雅な暮らしをしている。
イランの少数派は、ゾロアスター教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒(アルメニア人とアッシリア人)、バハーイー教徒。アッシリア人は、ネストリウス派キリスト教に属する。バハーイー教は、シーア派から派生した。異端とみなされている。
ムスリムには、ペルシャ語を母国とするペルシャ人、トルコ系のアゼルバイジャン人とクルド人など。
イスラーム政権は、ユダヤ教徒とシオニズムを区別する。しかし、シオニズムへの支援を疑われてユダヤ人は排除される。
アケメネス朝ペルシャの国教ゾロアスター教は、7世紀のイスラームの到来とともに衰退した。1980年代、8万人がインドに、3万がイラクにいる。
パキスタンやバングラディッシュの人々は、来日後もイスラームの教えを守ろうとするが、イラン人は宗教に無関心な「世俗集団」である。留学生として米国に渡った人々は脱イスラームを掲げた王国時代に育った人々。留学生を敵視するイスラーム政権の誕生で、イスラームに反発を感じている。
多民族が共存するロサンゼルスでは、アラビア語、アルメニア語、カンボジア語、中国語、タガログ語、日本語、ヘブライ語、韓国語、ベトナム語、ペルシャ語のテレビ放送がある。
■ イスラーム神学校
沙漠の中のゴムは、シーア派の聖地、革命の震源地、神学校が集まるシーア派諸学の中心地である。イスラーム共和国の樹立後、ゴムからイスラム革命の理念が伝えられている。
モジュタヘドの中でも高位の者をアーヤトッラー(神の徴(しるし))と呼ぶ。シーア派世界には100名前後のアーヤトッラーがいる。マルジャエ・タグリード(模擬の源泉)は教義解釈を行う。
シーア派の財政を支える一つが、宗教税のホムス。信者は純利益の5分の一であるホムスを支払う。その半分はイマームの取り分。第十二第イマームが再臨するまでに間はマルジャエ・タグリードが受け取る。世界中の信徒は、自分が選んだマルジャエ・タグリードに支払う。徴収はホムスの徴収許可を持つ弟子たち。教育を通じて形成される師弟関係は、シーア派の宗教制度を支えている。
シーア派人口を抱える、イラク、バーレーン、レバノン、クウェート、パキスタン、アフガニスタン、サウジアラビア、旧ソ連の中央アジアの国々に、革命を輸出する。布教活動を担い手は、外交官とウラマー。
革命後は、イスラーム学世界センターが設立され、世界中から留学生を募るようになった。
ムスリム男性は、ムスリム女性ないしは啓典の民と呼ばれるキリスト教徒とユダヤ教徒の女性としか結婚できない。
女子神学校が設立され、布教者や教育者が育成されている。イスラーム革命のイデオロギーを世界各地に浸透させていくためには女性への布教が不可欠である。
神学校ではペルシャ語で教えられている。因みに、イスラームの経典「コーラン」は、アラビア語で書かれている。
マシュハドは、世界中のシーア派信徒が訪れるイラン最大の聖地である。
女性隔離の習慣が強いパキスタンからの留学生たちは、イランに来なければ、勉強を続けることができなかった。
■ 教育と若者
イスラーム政権は、識字運動と教育の拡充に注力した。学校の中でイデオロギー教育の徹底を図った。学校教育はイスラーム化された。信徒としてだけでなく、国民としてもイスラーム法学者に従うことを求めた。
1988年に戦争が終わると、失業率は跳ね上がった。安定した職の確保に向けて学歴競争が始まった。
ナショナリズムな教材が復活した。「シャー・ナーメ」は、神話王朝に始まるイラクの民族叙事詩。愛国心を学ぶ教材となってきた。
■ ヴェールの向こう側
女性は親族以外の男性に自分の美を見せないよう身体を覆う。着用するヴェールは地域や時代によって様々である。
パフラヴィー王朝の開祖レザー・シャーによって、ヴェール着用宇禁止令が出された。大都市の女性たちは、ヴェールのない暮らしに慣れた。反国王運動に参加する女性たちは全身を覆うチャードルを着用してデモに参加した。イスラーム蔑視への抗議をヴェールに託した。イスラーム共和国が樹立されると、ホメイニーはヴェールの着用を命じた。
西洋の女性が見せることによって自己を表現した結果、「見られる」存在であることを強いられた。イランの女性は隠すことを強制され、「見られる」窮屈さから解放されてもいる。
シーア派では永久婚とは別に、一時婚と呼ばれる結婚形態が許されている。一定期間婚姻関係を結ぶ。対象となるのは未亡人。未婚の女性の場合は不利な婚姻形態である。別紙の対象ともなり、後に永久婚をすることが困難になる場合も多い。
イスラーム法の導入によって、女性の地位は後退した。女性は性的不能者か精神異常の場合にしか離婚請求が許されない。
女性たちの投票行動が、政治の流れを変える。ハタミーの大統領選での勝利が、女性たちの投票に拠るところが大きかった。
女子の雇用は後退した。しかし、女子教育には女性教員があたることになった結果、女性教員の需要が増大した。医療保健施設でも女性に対するサービスは女性が担うことが望ましいとされた。
戦争によって稼ぎ手を失った世帯などでは、女性の収入への依存度が高まった。
革命後、女性の識字率は上昇した。政府がヴェラーヤテ・ファギーフを浸透させるには、女子にも教育が必要だった。学校のイスラーム化が進んだことで、保守的な地域の女子就学率を押し上げた。
教育によって力をつけた女性たちが、イラン社会を変えつつある。
■ カリスマなき共和国 〜 ホメイニー死後
1989年、ホメイニーが他界した。
ホメイニ以外の6名のマルジャエ・タグリードは、ヴェラーヤテ・ファギーフに反対していた。
当時アーヤトッラーに届いていなかったハーメネイーを、憲法を改正して最高指導者にした。宗教と国政の最高権威が分離された。
革命以来、国有化が進展し、物資の配給や価格統制も進んだ。
私有財産の制限や公平な分配は、貧困層や革命防衛隊などから支持されていた。保守派(商人や神学校教師や地主)は、私有財産の尊重し自由経済を推進しようとしてきた。
1989年に大統領に就任したラフサンジャニーは、規制緩和、輸入自由化、民営化によって経済復興を推進しようとし「現実派」と呼ばれた。
保守派は、被抑圧者の擁護をも主張するようになった。勢力を拡大した保守派は、イスラームの価値を脅かすとして、ラフサンジャニーの前に立ちはだかった。
1996年には、農村の電気の普及率は88%へ。水道は71%に改善された。
総人口が増大し、穀物需給率は低下。都市生活スタイルが浸透した。農村部に普及したテレビは日用品の宣伝が購買意欲を刺激している。
ハータミー大統領は国際社会からの孤立の脱却を試みた。規制緩和を求める若者や女性たちが支持したハータミー大統領は、保守派によって1992年辞任に追い込まれた。保守派は、新聞雑誌の発禁や改革派知識人の逮捕によって改革派の言論を封じ込め、原論自由化の流れを止めた。
ヴェラーヤテ・ファギーフを守ろうとする人々は、国民利益への傾斜は、イスラームの衰退を招くと警告する。
イランは、イスラームとナショナリズム、革命の理念と国家の現実とのせめぎ合いの中で進路を模索している。
*現在のイランの政治情勢
2024年に実施されたイラン大統領選挙の決選投票で、改革派のマスード・ペゼシュキアン氏が得票率54.76%で当選しました。ペゼシュキアン大統領は、経済状況の改善や欧米との関係修復を目指す姿勢を示しています。
一方、イランの核問題に関しては、2018年に米国が核合意(JCPOA)から離脱して以降、イランと欧米諸国との間での協議は難航しています。2022年以降、核合意復帰に向けた間接協議は中断されたままであり、現時点でも合意への復帰は実現していません。
また、イランとロシアの軍事関係は、ロシアによるウクライナ侵攻以降、ドローン供与を含めて強化されていると報じられています。このような状況下で、ペゼシュキアン政権は国内経済の立て直しと国際社会との関係改善という課題に直面しています。
イランは、ガザ地区のハマスやレバノンのヒズボラなどの武装組織への支援を通じて、イスラエルおよび米国との関係に緊張をもたらしています。
一方、2023年にはサウジアラビアとイランが国交を回復することで合意し、欧州連合(EU)や中東諸国から歓迎されました。 この動きは、湾岸アラブ諸国との関係改善の兆しとされています。
欧州諸国との関係においては、イランの核開発問題や人権状況が懸念材料となっています。特に、イランの核開発に対する欧州諸国の懸念は根強く、これが関係改善の障害となっています。
総じて、イランは一部のアラブ諸国との関係改善を図りつつも、ガザやヒズボラへの支援を通じてイスラエルや米国との緊張関係が続いており、欧州諸国との関係も複雑な状況が続いています。