「9・11後の現代史」 酒井啓子 2018年 講談社現代新書
中東の歴史を論じた新書。中東に関心を寄せる身としては、読まなきゃ!の一冊です。各省の要約とともに、全体の流れの整理のために年表形式でまとめてみました。この年表は私自身にとって、役立つものになりでしょう。
《はじめに》
今年度大学に入学した学生は、物心ついてからずっと、アフガニスタン戦争やイラク戦争や、安定しない中東の治安とシリア内線と難民の急増を観て育ってきた。
中東でテロや紛争が増加したのは、21世紀以降、特に2003年のイラク戦争以降である。
1970年代、日本企業の海外プラント輸出のトップ5には、イランやイラク、サウジアラビアがアメリカを抜いて上位にランクされていた。
転機となったのは、9・11米国同時多発テロ、そしてイラク戦争とシリア内戦である。
9・11後にブッシュ政権の「対テロ戦争」は戦争の概念を変えた。イラク、アフガニスタンでの戦争が反米活動を蔓延させた。そして、サウジアラビアとイランのペルシャ湾岸地域の2大大国間の緊張が高まった。
イエメンの対岸のジブチには自衛隊の海外拠点がある。
《1.シスラーム国 2014年〜》
ISが残したのは、宗教も宗派も民族も超えて共存していたイラクやシリアの人々を引き裂いたことだ。
ISの経営能力の高さは、イラク戦争前に政権の座にあったバアス党の存在があった。
イスラーム以前の文化遺産は、イスラーム厳格主義を追求するISに目の敵にされ破壊の対象となった。
ISが「カリフ国家」を宣言し、イスラム教徒に衝撃を与えた。抑圧されたイスラーム教徒は、カリフ国こそが理想郷に映った。カリフは預言者ムハンマドの正統な後継者。それを形式として体現してきたのがオスマン帝国だった。
ISは西洋によるアラブ世界の分断=「サイクス・ピコ協定体制の打破」を掲げ、中東の人々の心を動かした。アラブ諸国は新たな国作りよりも、既存の枠組みの中で生きていこうとしていた。
メソポタミアのアルカイーダの指導者アブー・ムスアブ・ザルカーウィ(ヨルダン人)の殺害後に、ザルカーウィの残党により設立された。ISの指導者アブー・バクル・バクダーディは、イラク・イスラーム大学でイスラーム法の博士号を取得し、預言者ムハマンドの子孫を意味する「サイエド」の称号を持つ。
ISはシーア派(イラン)を抹殺すべき異端者とした。ISの登場に対して、シーア派を守るための対ISの義勇兵が集められた。
第二次大戦後、西洋諸国の多くは復興のために旧植民地から大量の労働者(移民)を受け入れた。彼らはヨーロッパ社会から疎外され鬱屈していった。
《2.イラク戦争 2003年〜》
ISは2003年のイラク戦争の結果として出現した。イラク戦争は、大義の無い、ずさんで無責任に行われた戦争。イラク西部でISが勢力を伸ばすことができたのは反米・反政府感情が活性化したからだ。
米国ブッシュ政権がイラク戦争を始めたのは、石油資源が目的という説、湾岸戦争で敗北したフセイン政権が倒れなかったからという説などがある。9・11をきっかけに米国がイラクの反米姿勢を問題視し、これを「民主化」しないことには米国は安全ではないと推論した。
民主主義の輸出のためには、予防攻撃や軍事制裁も行う。9.11米国同時多発テロは、米国の安全保障の転換をもたらした。米国に攻撃意図がある者がいなくならない限り、中東が民主化しない限り、米国はテロの懸念を払拭できない。だから、イラクを攻撃してフセイン政権を打倒し、アフガニスタンでアルカイーダを殲滅するしかない。
戦後処理はもっとずさんだった。
湾岸戦争以来、米国に亡命したシーア派のイラク人たちはイラクの政権を座を狙っていた。彼らは、イラク国内に支持基盤を持たなかった。イラク人にとっては、亡命イラク人たちは歓迎されないよそ者だった。
イラク国民の政府に対する不満は、腐敗と汚職だ。イラクは産油国。非産油国に比べれば裕福な国だ。復興が進まない理由は、腐敗と汚職である。支持基盤を持たない亡命政治家は、カネに依存せざるを得ない。
ムクタダ・サドルは、イラクの苦しみを体験してきた「国内」の政治家。米国と政府に対する批判は国民の支持を集めている。
《3.9.11 2001年》
1991年の湾岸戦争を契機に、大財閥ビン・ラーディン家の六男ウサーマ・ビン・ラーディンは、反米活動を開始する。「現代社会においてはムスリムが筆舌に尽くしがたい苦難を蒙っている。これらはすべてシオニスト(イスラエル)・十字軍(欧米)・その連合と傀儡(サウジアラビアなど)たちの仕業である」ビン・ラーディン。
イラク軍がサウディ国境に迫る中、サウディは米国に国防を委ねる。その結果、米軍がサウディに駐留した。聖地を護ることが存在意義であるはずのサウディ王家が、異教徒の外国軍に依存するとは言語道断。
アフガニスタンでもイラクでも、戦闘期間は短かったが、戦後処理に手間取る。戦闘では勝つが、国作りができない。対米不信は根深い。
《4.アラブの春 2011年》
欧米諸国は「アサド政権でもイスラーム武装勢力でもない」シリア国内の支援対象を探すが、そのようなものは存在しなかった。米国もイラク国内で親米の組織を探したが見つからなかった。結局、混乱した侵攻地から退却せざるを得なくなった。
アラブの春のデモ参加者には次期政権についての共通認識が無かった。ムスリム同胞団はその空白を突いた。ハマースは、エジプトの同胞団のパレスチナ支部だった。
レジェップ・タイイップ・エルドアン大統領率いる公正発展党は、イスラーム政党であり、ムスリム同胞団に近い。
シリア内戦の泥沼化、荒れ放題のリビア、エジプトのクーデター。アラブ諸国はさらに厳しい権威主義体制、警察国家へと傾斜している。民主政治が続いているのはチュニジアだけだ。
《5.宗派対立 2003年〜》
16〜20世紀、スマン帝国とペルシャ帝国が戦っていた時代は、宗派の違いが対立の表舞台に浮上した。
カリフ制が廃止され、イランもアラブもトルコも近代化路線をとるようになると、宗教や宗派は国策から切り離された。
アラブ民族主義が興隆した時代は、民族が問題になった。
イラク戦争も湾岸戦争もなかったイラクの日常生活は、宗派は大きな問題ではなかった。二つの宗派が存在する地域では、互いの習慣の違いについて知り合い、理解し合っていた。問題は、経済格差や社会不平等だった。イラク戦争以来、宗派対立という言葉が頻出するようになる。
スンナ派は、自分たちが正しいイスラームを体現している主流だとして、「派」という自覚は無い。
シーア派は、預言者ムハンマドの子孫が指導者(イマーム)たるべきと主張。預言者の従弟で娘婿たる四代目アリーを支持一派。シーアト・アリー(アリーの派閥)が、シーア派と呼ばれるようになった。イマームの家系が途絶えた後、イスラーム法学者の役割を重視する思想が生まれた。その流れの中に、ルーホッラー・ホメイニの「法学者の統治」がある。
イラク戦争以降、宗派の違いを理由に罵り合うようになった。
イラン革命は反米、反植民地主義を謳い、スンナ派のPLOが支持を表明。スンナ派のムスリム同胞団の中にも、イラン革命に快哉を叫んだ活動家は多かった。
イラン革命後の政治展開の中で、イランとアラブ諸国との対立。反シーア派が意識される。政治対立が先にあり、それが宗派を巡る対立に転嫁された。政治家が意図して宗派を軸に支持者を動員することもある。信仰心を利用することは、主義主張で人を動かすより容易である。民族や宗派は政治対立に利用される。
イランとサウディアラビアとイラクの3つの地域大国の三つ巴状態によって、ペルシャ湾岸の安定は左右されてきた。
第二次大戦後、ソ連との冷戦下の米国の中東政策は、イスラエル支援、ソ連の中東への勢力拡大阻止、ペルシャ湾岸諸国からの石油の安定供給の維持だった。最大の産油国のサウディアラビアを守るために、ソ連と国境を接する国々=トルコ・パキスタン・イランを支援した。
50年代から70年代にかけて、エジプト・シリア・イラク・チュニジア・アルジェリア・リビアが社会主義化。王政諸国=イラン・サウディアラビア・ヨルダン・モロッコは恐怖を抱いた。王政対共和制の最前線に置かれたのがイラク。
イラク戦争後、シーア派政権ができてしまった。イランの影響力は大きくなり、スンナ派イスラーム社会にイランを攻撃し、、シーア派政権を作ってしまった米国への反感も生んだ。イランが支援するシーア派組織に対する脅威意識が、イラン=シーア派への対抗意識を醸成した。
スンナ派のイスラーム主義者=反イランなのではない。エジプトのムスリム同胞団は、イランと接近を試みた。後に政権を奪取したスィースィー政権は、イランとの関係を断っている。政治対立が先にあって、宗派対立が生まれる。
レバノンのヒズブッラーは、1982年のイスラエルのレバノン侵攻以来、反イスラエル強硬姿勢を取る。但し、現在はシリア内戦に関与し、アラブの大義を捨てた過去の政治組織と同一視されることもある。
《6.揺らぐ対米関係 2003年〜》
湾岸諸国にとって、米国は石油政策や安全保障で最大の被護者であり続けた。だが、イラク戦争後、新イラン政治家がイラクの政権を担うと、米国への疑念が大きくなった。アラブの春は、王政諸国の間に、対米不信感を増大させた。オバマ政権は、チュニジア・エジプトの政権交代を支持した。「米国は同盟国を助けない」ことが明らかになった。
サウディ王政にとって、ムスリム同胞団は、イスラームを掲げる友であると同時に、王政の覆しかねない危険分子になった。本来イスラームの教義に矛盾する王政を掲げてきたサウード一族にとって、正論を掲げる同胞団は危険。
サウディアラビアと米国の方向性の違いが決定的となったのは、シリア内戦。アサド政権が、イラン・イラクとレバノンのヒズブッラーに応援を仰ぎ、反政府勢力はトルコ・カタール・サウディアラビアが支援した。アサド政権=イラン=シーア派 vs 反アサド=サウディアラビア=スンナ派の代理戦争のように見える。
シリア空爆を行うと言って実施しなかったオバマ大統領。サウディ政府は、対イラン関係でもサウディのいいなりにならないオバマ政権にいら立った。サウディアラビアが自前でイランと対峙するようになった。対イランでアラブ・イスラーム諸国をサウディ主導でまとめる動きはが2015年から顕著になった。
イエメン内戦は、イランとサウディアラビアが関与することによって長期化し、湾岸首長国の閉塞感が漂っている。
クルド民族の権利を、トルコ政権は否定し続けている。欧米諸国にとって、ISの力を削ぐためにはクルド勢力の協力が必要。トルコ政府はPKK(クルド労働者党)への弾圧を強めた。2016年、トルコはアサド政権を支援するロシアと手を組んだ。
ペルシャ語系のクルド語を話すクルド人。第一次世界大戦時にイギリスから独立の約束を取り付けたが反故にされた。繰り返し煮え湯を飲まされても、クルド勢力にとっては米国を頼みにするしかない。
中東で進む世代間の対立と交代。サウディアラビアのMbSの台頭はその代表である。
《7.後景にまわるパレスチナ問題》
全ての問題の根源はパレスチナ問題にある。様々な中東問題の核に、第一次大戦中にイギリスが結んだ相互に矛盾する協定がある。結果は、バラバラにされた中東の真ん中に、イスラエル国ができた。イスラエルは、ヨーロッパ社会でユダヤ人が被ってきた差別と抑圧のつけであった。パレスチナ問題こそ、西欧諸国の中東政策の諸問題が集約された悲劇とみなされてきた。
アラブ民族主義者たちは、英仏の委任統治や傀儡王政からの独立を目指し、王政を倒して政権を樹立した。
イギリスが中東から手を引いてからは、米国がその後継者として、アラブ民族主義者たちの敵視の対象となった。
パレスチナ問題は「アラブの大義」となる。アラブ諸国の地図には、「イスラエル」ではなく「パレスチナ」と書かれている。
湾岸戦争後、PLOは湾岸諸国からの援助を断たれた。「パレスチナ人のために」という大義は地に落ちた。アラブ諸国の連帯があてにならないパレスチナ人たちは、自力のゲリラ活動を始める。インティファーダとは恐怖を振り払うという意味だ。
オスロ合意の際、アラブ側は、ユダヤ教徒が被った差別はヨーロッパの問題、パレスチナにユダヤ国家を作り必要は無いと主張。PLOは、イスラエルの存在を認めるかわりに、西岸・ガザ地区での暫定自治を獲得した。反イスラエル抵抗運動を続けてきたイスラーム勢力は不満を持った。その代表がハマースである。
イスラエルとISは類似している。イスラームのカリフ国家とユダヤ教徒のためのイスラエルは、民族と宗教の差別を排する近代国民国家の理念から逸脱している。
イスラーム主義組織の特徴は宗教ネットワークを活かした福祉、慈善政策にある。ハマースでもヒズブッラーでも、紛争地のイスラーム主義組織全般に言えることである。紛争地では、被害に遭った人々を庇護する機関が存在しない。教育や医療を提供し、家屋の修復やがれきの撤去などの建設作業、地域の自警団活動を担う。
イスラエルに妥協して腐敗するPLOハタファ。PLOに対する不信感が広がった。ハマースはガザを、ファタハは西岸を支配するという分裂状態が定着した。
軍事攻撃と並行してイスラエルはガザを封鎖。破壊された家を修復する資材の搬入も拒絶する。物資持ち込みに使えるルートは、エジプトとの間に掘られた地下トンネル。そのトンネルもイスラエルとの友好関係を結ぶエジプトは使用禁止となった。
《終章 不寛容な時代を超えて》
シリア内戦によりヨーロッパへと海を渡る避難民は、2015年には100万人を超えた。上陸地のギリシャやイタリアでは十分な比護は与えられれず、避難民たちは鉄条網で阻まれたり、検問で追い返されたりした。安住の地に辿り着けるのは僅かだった。
避難民の大量流入はヨーロッパの反移民感情を惹起した。フランスやドイツやイギリスなどは、もともと中東やアフリカから移民してきたムスリム系市民を差別してきた。フランスなどでは、それに反発した移民暴動が頻発する。並行して、極右政党が台頭する。
サウジアラビアを中心に、エジプト、ヨルダンも加わって結成されたアラブ諸国の軍事同盟に、米国とイスラエルが暗に加わる。トランプ政権下のアメリカとの関係を第一に考えるアラブNATO諸国の、イスラエルに対する抗議は形式だけのものになっている。
国民国家を中心に国際政治が成り立っているという西洋近代の発想は、第一世界大戦まで国民国家概念などなかったアラブ中東地域にそぐうはずはない。
支配者が支配を確立するためには、恐怖心を植え付けなければならない。「恐怖の壁を再構築しなければならない、この地域のアラブ人に死の恐怖を叩きこまなければ」1988年、イスラエル首相イツハク・シャミール。
ビン・ラーディンは「敵は米国」に行き着いた。欧米に住む移民の二世三世は、シリア内戦の代理戦争性を視てヨーロッパを敵とみなす。イランは「米国がISを作った」と批判。サウディアラビアが「米国がイランを増長させた」と批判。アラブ・イスラーム世界は、「米国がイスラエルを支援し、アラブ・イスラームを弱体化させている」と批判する。あらゆるところで、米国が標的となる。
嫌いな国を作り直すことはできない。米国はそれを、イラク戦争で学んだ。
《おわりに》
紛争地に住む中東の人々の、困惑と絶望と挫折と、儚い夢の背景にある政治の流れを伝えることができたらと思い本書を書いた。
《年表》
1915年 フサイン・マクマホン協定
オスマン領内のアラブ人の独立を約束した
1916年 サイクス・ピコ協定
第一次世界大戦中に、英仏露がオスマン帝国の領土の分割を定めた
1927年 バルフォア宣言
ユダヤ人たちに民族郷土を与えると約束
1920年 英仏は、クルドの自治を認めたセーブル条約をオスマン帝国に受諾させる
帝国崩壊後、ケマル・アタチュルク率いるトルコ共和国は拒否
1923年 ローザンヌ条約締結
クルド自治に関する記述は消える
1928年 ムスリム同胞団がエジプトで成立
1958年 ムスタファ・バルザーニが、クルディスタン民主党(KDP)の党首に
バルザーニは親米のイラン(シャー時代)の支援を仰いだ
1975年にイラクのサッダーム・フセイン副大統領が領土問題で譲歩する(アルジェ協定)とイランは手を引く
1945年 第二次大戦後、サウディアラビアと米国との蜜月関係確立
1947年 シリアでバアス党が創設される
イラク・レバノン・ヨルダンなあどに支部を設立
アラブの統一を掲げて、やがてシリアとイラクの政権を担う
1948年 イスラエル建国
パレスチナ難民が発生
アラブ諸国は第一次中東戦争で大敗
アラブ民族主義軍人が政権を奪取するきっかけともなった
1952年 エジプトのガマール・アブドゥン・ナーセルが政権を樹立
アラブ民族主義将校による軍事政権の代表
1956年 イギリスとエジプトの第二次中東戦争
スエズ運河のエジプト国有化
1958年 イラクで親英の王政が妥当され、親ソ路線を取る
親米のイランはイラク国内のクルド勢力を支援してイラク国内政治に介入
1969年〜ヤーセル・アラファート率いるPLOはゲリラ闘争を展開する
1970年 ヨルダンがPLOを武力で排除
パレスチナ難民を最も多く抱えるヨルダンは、武装闘争の激化を危惧した
1973年 第一次オイルショック
イスラエルと協力関係にある国には石油を売らない
日本政府は、イスラエルを批判する声明を発出
1979年 エジプトがイスラエルと単独和平条約を締結
アラブ諸国は、アラブ連盟からエジプトを追放
1979年 イランでイスラーム革命
新米政権が崩壊
テヘランの米大使館を占拠
1982年 イスラエルのレバノン侵攻し、パレスチナ難民を虐殺(サブラ・シャティーラ事件)
PLOは活動拠点としていたレバノンからも追われ、チェニスに逃げ延びる
1982年 シーア派のイスラーム主義勢力ヒズブッラーがレバノンで結成される
イスラエルに対するゲリラ戦を展開
2005年以降はレバノンの議会選挙区に出馬し、政治政党へと発展した
1980年〜イラン・イラク戦争
イラクは、サウディアラビアや米国の支援を受け、イラン革命の脅威と闘う
1988年 イラン・イラク戦争終結
1987年〜パレスチナでインティファーダが起きる
PLOの失墜
天井の無い牢獄と言われるイスラエル占領下での生活
徒手空拳でイスラエルの支配に立ち向かった
1987年 ハマース結成
ハマースとは、イスラーム抵抗運動の略称。
1979年 ソ連軍がアフガニスタンに侵攻
アフガニスタンの人民民主党がソ連に支援を求め、ソ連軍が介入
米国はイラン対応で動けない
サウジアラビアが資金を提供してイスラム義勇兵を送る
パキスタンの協力で軍事訓練を積んだ
1989年 ソ連軍がアフガニスタンから撤退
アラブ・アフガンたちはボスニア内戦やアルジェリア内戦に加わっていった
1990年 イラクのクウェート侵攻
1991年 湾岸戦争
米国は、イラクのクルド人を利用
クルディスタンは半独立状態を享受した
1991年 マドリード会議
初めてイスラエルとパレスチナ人が同席して和平交渉の場についた
1993年 オスロ合意
ノルウェーの学者が始めた仲介
PLOとイスラエルの高官が初めて会って交渉した
合意内容は未解決の問題が多く、根本問題の解決には結びつかなかった
1994年 ウサーマ・ビン・ラーディンがサウディ国籍を剝奪される
1996年 アフガニスタンにターリバーン政権が成立
ビンラーディンがアルカイーダとして勢力を得る
1996年 パレスチナ自治評議会の選挙が行われる
パレスチナ自治政府の樹立
1996年 カタールに衛星放送アルジャズィーラが設立される
衛星放送やインターネットはアメリカの非道を伝え続けた
1996年 ウサーマ・ビン・ラーディンが、米国に対して宣戦布告演説
1998年 ウサーマ・ビン・ラーディンが、米国人全てを標的にすると公言
2000年 パレスチナ自治を巡る最終地位交渉が行われるが決裂
ビル・クリントンの仲介で、PLOとイスラエルが交渉
イスラエルの自治案はPLOが吞めるようなものではなかった
2001年 第二次インティファーダが発生
2001年 PLO議長府がイスラエル軍によって包囲され攻撃を受ける
2002年 西岸・ガザに分離壁が張り巡らされる
2001年 9.11米国同時多発テロ
米国はテロとの戦い=世界中で戦争をしてまわる、を宣言
国連は、安保理決議1368「テロの脅威に対しては自衛権がある」を採択した
2002年 イラン大統領アフマディネジャードがウラン濃縮を発表
2005年 アフマディネジャードはイスラエル存在を否定する演説
2003年 イラク戦争
有志連合軍(米・英・オーストラリア・ポーランド)が攻撃に参加
戦後改革は、形式的な「民主化」に力点が置かれ、住民の生活は顧みられなかった
民主制度の進展とともに国内の治安は悪化、米軍の被害は耐え難い状態になった
2004年 イラクの反米抵抗運動の本格化
地元社会の抵抗運動に、国外の反米武装組織が合流した
2006〜2008年 イラク内戦状態に陥る
2006年 イラクでの反米攻撃を主導したアブー・ムスアブ・ザルカーウィを米軍が殺害
2004年 アラファートが死去
マフムード・アッバースがPLO議長に就任
2006年 第二回評議会選挙で、ハマースが第一党となる
2006年 ヒズブッラーはイスラエル軍の攻撃に反撃
イスラエル軍に119名の死者を出す成果を挙げた
イスラエル軍は初期の目的を果たせず戦闘を終えた
指導者のハサン・ナスラッラーはアラブ世界のヒーローになった
2008年 バラク・オバマが米国大統領に選出される
オバマはイラク戦争に反対した
2010年 トルコ船籍のガザ向け救援船をイスラエルが襲撃
エルドアン大統領はイスラエルとの関係を冷却化
2011年 パレスチナ自治政府がユネスコへの正式加盟
2012年 パレスチナ自治政府の国連オブザーバー参加が決定
2011年 ビン・ラーディンが殺害される
2010年 チュニジアで「民衆は政権転覆を望む」をスローガンとする民衆運動が勃発
独裁政権が素手の民衆のデモで倒れた
2011年 アラブの春
エジプト「頭をあげろ、おまえはエジプト人じゃないか」
リビアに対して国連は多国籍軍(NATO)により軍事介入
オバマ政権はアラブの民主化を容認した(何もしなかった)
民衆デモが起こらなかったのは、カタールとUAEだけだった
香港の雨傘運動や台湾のヒマワリ運動など市民運動は世界に広がった
2011年 米国はイラン制裁を制定
2013年 穏健派のハサン・ロウハーニがイラン大統領に
2011年〜シリア内戦
バッシャール・アサドがシリア大統領に就任
周辺国がご都合で介入し、収拾困難になる
2012年 エジプトの大統領選挙で自由公正党の党首ムハンマド・ムルスィーが勝利
ムスリム同胞団を自由公正党が結党
イスラーム主義政党が合法に政権をとった
2013年 エジプトで軍事クーデター
アブドゥルファッターフ・スィースィー軍事最高評議会議長が大統領に就任
反ムルスィー派が退陣を要求
ムスリム同胞団は解散させられ、2015年スィースィーに死刑判決
2013年 バラク・オバマ「米国は、世界の警察官ではない」を主張
トランプの「アメリカ・ファースト」にも引き継がれる
2013年〜 イラクスンナ派の反政府活動が再燃
第二期マーリキー政権は、シーア派に有利な政治に傾いた
2014年 ナイフ・インティファーダが頻発
若者がやり場のない不満を爆発させる
2015年 ドイツのメルケル首相は避難民受入の声明
ドイツとオーストリアは国境を拓く
翌年、ドイツは、トルコに避難民対策を押し付けて収拾を図る
2015年 米国のオバマ大統領はイランと核開発協議で合意
イランの核開発は王政時代の1957年から米国の支援で進められた
2016年 米国は対イラン経済制裁を解除
2016年 イランとサウディアラビアが断交
2016年 イギリスはEU離脱を決定
移民の流入を制限すれば社会が安定するとしたイギリス独立党が離脱を煽った
2017年 ドナルド・トランプが米国大統領に
アメリカ・ファーストは他社排除の口実となった
中東・アフリカの国籍を持つ者の一時入国禁止に
トランプ大統領は一国家案(パレスチナ国家の否定)を示唆
エルサレムを首都と認定し、米大使館をエルサレムに移転すると決定
2017年 フランスでマクロンが、極右のマリーヌ・ルペンに勝利
2017年 ムハンマド・ビン・サルマン(MbS)が、サウディアラビアの皇太子に就任
イラン・ヒズブッラー・ハマースを糾弾 米国も協力して、反イラン包囲網を形成
イスラエルを支援する結果となり、サウディはイスラエルに接近
女性の自動車運転を認めるなど、「穏健なイスラームに戻る」と発言
2017年 サウディとカタールが断交
カタールが長年、ムスリム同胞団を支援してきたことを問題視
カタールは結果としてイランにより接近する
トルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領もカタールを支援
2017年 イラクのクルディスタン勢力が独立に関する住民投票を実施
イラク政府などと対立したクルド勢力は、イスラエルとの協力関係を強化