「小惑星探査機はやぶさ」 川口淳一郎 2010年 中公新書
川口プロマネが書いた「はやぶさ」正伝です。抑制の効いたなかでもプロジェクト･リーダーとしての想いが伝わります。つい夢中になって、電車を何度も乗り越してしまいました。
カプセルの中身の解析も一段落して後の著述です。生禿的には、「終わった」後の述懐に興味の中心があります。
宇宙の旅の鍵を握るのは、軌道制御です。軌道とは天体の軌道のことで、衛星の軌道に乗るのが人工衛生、惑星の軌道を航行するのが人工惑星(探査機)。天体の軌道は、楕円軌道です。リーマン幾何に依れば、真っ直ぐとは円或いは楕円の軌跡を描きます。頭では分かっているつもりでも、はやぶさがイトカワに往って還ってくる道筋を真っ直ぐなものにイメージしてしまいます。
この本の左下には、発射から帰還までの、はやぶさとイトカワと地球の軌道を描いたパタパタ漫画が描かれています。はやぶさの旅路がとてもよくイメージできます。サンプルリターンとは、はやぶさとイトカワの軌道が一時的に完全に一致して、そして離れていくということなんです。
1985年6月「第一回小惑星サンプルリターン小研究会」が開催されます。
「ＮＡＳＡはやろうと思えばいつでも実現できる。我々が、考えはきちんとできていても、予算もなければ機会も無い。アイディアを取られる一方の状況で、「どうしたらいいんだ」と考えさせられた」「ＮＡＳＡもためらうような計画で無ければ、我々のオリジナリティは実現できない」と、追い詰められた宇宙研はサンプルリターンに向かっていく。ついに、1995年MUSES-C計画が立ちあがります。
ＮＡＳＡは、慌てて「ディープスペース１」や「スターダスト」を「はやぶさ」開発中に打ち上げます。これを見て、「我々の方向性は間違っていなかった」と確信するあたりが、川口プロマネの面目躍如たるところか。
「はやぶさ」の開発ミッションは、1) 燃費の良いイオンエンジン、2) 自律的な操縦機能、3) どんな地質･地形でも着陸･採取できる装置、4) 大気圏再突入に耐えるカプセル、の４つを開発すること。例えば、カプセルの受ける熱量はスペースシャトルの２０倍になります。日本の通信系の技術はNASAに比べて50年ほど立ち遅れています。この立ち遅れは今でも解消されていないそうです。
当初は2002年に打ち上げて小惑星ネレウスに向かう予定だった。Ｍ-Ｖ-４号機の打ち上げ失敗の後、次のＭ-Ｖ-５号機でどれを打ち上げるかが議論された。惑星探査機の打上げウィンドウは限られる。サンプルリターンが可能な小惑星も限られ、予定された1989ＭＬは2002年７月を逃すと数年間は不可能となった。・・・ 1998ＳＦ36という小惑星なら、当初の軌道計画では到達不可能であるものの、地球でスウィングバイし、イオンエンジンで加速していく新しい軌道によってたどり着けることが解った。ようやく、５号機でMUSES-Cを打ち上げることが決まった。
ロケットの開発とペイロード(探査機)の開発を同時に行っている機関は宇宙研しかなかった。ＪＡＸＡはこの道を捨てた。Ｍ-Ｖロケットは、2006年の「ひので」で終わり、以降はＨ-�僑舛鮖箸Δ海箸砲覆辰拭�Ｈ-�僑舛竜蚕僂蓮▲▲瓮螢�の借り物。一部はブラックボックスのままである。日本のロケット技術は封印された。誰によって？？？
MUSES-Cは、2003年5月9日内之浦から打ち上げられた。これが、宇宙研最後の打上げとなった。
探査機に搭載しているバッテリーは数十分しか持たないので、ロケットから切り離されるとすぐに太陽電池パネルを展開し、太陽を捕捉して発電を開始しないと、探査機は死んでしまう。無事が確認された後、探査機を「はやぶさ」と命名すると発表した。
当初は、カプセルだけ地球に帰還させ、本体はラグランジュポイントに係留する計画だった。イオンエンジンなどの故障が無かったら、「はやぶさ」は今も飛んでいたかも知れない。
2003年8月6日、1998SF36は「イトカワ」と名付けられる。2日には、糸川先生が打ち上げた「おおすみ」が地球に落下している。運命的なタイミングである。
川口氏は1992年の「さきがけ」の失敗の時、「自分は本当に全力を尽くしたのか、全力を尽くしたけれどもそこまでしかやれなかったのか、という反省が生まれた」「たとえ機器の性能が悪かったとしても、それを取り戻すだけの創意と工夫と拘りが自分にあれば別の結果になっていたのではないか、という自問自答があった」という。
川口キャプテン(そう言わせて頂く)は、1999年の「のぞみ」では、火星へたどり着く軌道を再設定する。「惑星探査機が軌道制御に失敗した時、修復できるとはそれまで誰も考えていなかった。惑星から惑星へ航行する軌道は離散的にしか存在しない。自由に軌道をつなげられるわけではない。その制約の中で解を見つけることが醍醐味」と語る川口キャプテンはただ者では無い。少なくとも、普通の人間では無い。ギリギリを遊ぶ人間だ。この「遊ぶ」は娯楽では無い。学問の世界に「遊ぶ」と同じ。探し求める「探究」の「遊ぶ」だ。この世に「遊ぶ」ことができる人間は少ない。
この本を読んで解ったことがある。川口キャプテンこそ「はやぶさ」だったのだ。川口キャプテンが「遊び」人だったからこそ、「はやぶさ」は「はやぶさ」たり得たのだ。「はやぶさ」に組み込まれた技術が優れていたのではない（← 勿論優れている！が）。「はやぶさ」を作り、動かした人の技芸が優れているのだ。「はやぶさ」はその総称である。
2005年7月31日、Ｘ軸のリアクションホイールが故障。
2005年9月12日、イトカワから20�劼涼賄世棒纏漾�
「やっと着いた」「極端なことを言えば、綺麗な写真が何枚かでも撮れれば、プロジェクトが失敗だとは言われなくなる」。
「ラブルパイル(瓦礫の寄せ集め)天体と理論的には予測されていたが、目の当たりにするのは人類にとって初めてだった」。
「地名を付けると言うのは非常にワクワクする体験である。その地を発見した者、その地に到達した者のみが行うことが特権だからだ」。
2005年10月 2日、Ｙ軸のリアクションホイールが故障。
2005年11月 4日、第１回着陸リハーサル。
2005年11月 9日、第２回着陸リハーサル。
2005年11月12日、第３回着陸リハーサル。
「第３回リハーサルの後に、地形航法という新たな方法をＮＥＣ航空宇宙システムの白川健一さんたちの提案をもとに見つけることができた」「これは、はやぶさを通じて獲得した技術で一番大きなものであり、詳細を書くことはできない」「人間による処理を入れたのだ。これで処理が爆発的に速くなった。この技術は、我が国がアドバンテージを発揮できる部分であり、逆に他国が今後、小惑星探索をする際に大きな壁になる部分だろうと思う」。
「はやぶさ」を成功させた技術が「職人芸」であり、「マニュアルに書けない」技芸であることは明らかです。脳神経科学で言えば「手続き記憶は言葉にならない」のであり、記憶される場所も側頭葉では無く、扁桃体〜辺縁系です。ＪＡＸＡが、欧米流のマニュアル主義に陥る前に、宇宙研は最後の力を振り絞って最後の技芸を見せたのです。
今のままでは「はやぶさ２」は必ず失敗します。今後のＪＡＸＡの主要な活動に多くを期待するのは止めた方がいい。役人根性の研究者が主導するＪＡＸＡに何が望めると言うのか。期待する方がオカシイ。「はやぶさ」で仕分けを免れたが、生禿は、仕分けた方がいいと思う。何故って？無駄だからだ。成果を出せるとか出せないかという以前の問題。最初から無駄なのだ。
2005年11月20日、第１回着陸。「はやぶさ」から送られてきたのは、秒速２�僂嚢濂爾鬚径海韻討い襪箸いΕ如璽拭�実際には、２回のバウンドを経て、最後には３０分間イトカワ地表に留まっていたと想定されています。
「小惑星から離陸した探査機は過去に無い」「はやぶさは世界初の小惑星からの離陸を果たした」「(アメリカの)ニア･シューメーカーの着陸事実は、心の重荷になっていたが、このとき、ようやくそれを超えたと感じた」と、当事者ならではでのプレッシャーがあったことを窺わせます。
ここからが川口キャプテンの尋常ではないところです。彼は「確実にサンプルを持ち帰ることが使命と考え、重大なリスクを引き受けた上で、最終チャレンジを決定した。拘りがあった」のです。
2005年11月25日。最後の着陸を開始。26日、自律航法に移行した「はやぶさ」は、想定通り着陸し、弾丸を発射し、離陸した（筈だった）。
2005年26日、着陸の４時間後科学エンジンにトラブルが発生。
「事故というよりも、確かに着陸をやった証拠であり、勲章のようなものだと思っている。悔いは無い。でも自業自得の結果には、プロジェクト自身が責任をとって向かわなくてはならない」「これが苦難の始まりだった」・・・ リスクを取るということがどういうことなのか。川口キャプテンの言葉は、リスクを負うことの怖さ、それでもそれを超えていかねばならないことがあることを物語っています。
まず、データ分析の結果、弾丸が発射されていないことが判ります。川口キャプテンは「背筋が凍る思いが体を駆け抜けた」と述懐しています。
2005年12月8日、再度の燃料漏洩が発生。
2005年12月9日、通信が途絶。
「はやぶさ」の行方不明時のＮＡＳＡの協力に川口キャプテンは感謝しています。ホッとする話ですネ。ライバルではあっても、困っている時には助け合う。嬉しいですね。
「故障に繋がる要因を考え全てを列挙し、その要因を引き起こす原因を列挙していく。その原因を一つ一つ検証して、故障の可能性のあるものは全て潰していく」「この経験の蓄積が宇宙開発を進めていく」のです。
川口キャプテンは、「のぞみ」の経験から「頑張りましたが、惜しくも出来ませんでした、では駄目であること。どんなに這いつくばってもよろめいてもゴールしなければならない」と悟らされたそうです。
「這いつくばってよろめいて」ゴールする。それは「はやぶさ」の姿です。何がなんでも、どうなろうと、どんなことをしても、「はやぶさ」は地球を目指します。『帰ってこいはやぶさ』。
2007年6月の帰還を断念。次に地球に帰ってくるタイミングは2010年6月。
見つかるかどうかわからない探査機に予算はつかない。１年後の2006年12月までに通信可能になる確率は62％。「経営陣に１年間待って貰えた」。違うだろう！川口キャプテンが這いつくばっても何とかしたのでしょう。だから「はやぶさ」も何とかなった。「はやぶさ」を「健気」と擬人化する向きがいますが、それは関係者だけの話で、外野の我々は「なんとかした」川口キャプテンをはじめとするスタッフの努力に想いを馳せるべきです。
川口キャプテンは「このときがプロジェクト開始以来帰還までの１５年間で一番辛かった」。しかし、「ここで終わったら何にもならない」と、救出運用に突き進んでいきます。
「通信が回復する可能性は６割」だが、「はやぶさ本体が回復する可能性は十に一つも無い」。川口キャプテンは、可能性が低いことを冷静に受け止めています。だが、諦めたら全てが終わります。『やり直しがきかない』事象では、万に一つでも可能性があるなら挑戦する価値はあるのです。
2006年1月23日、通信が回復。
これは、送信した１０個以上の指令が全て実行されたことを意味します。「信じられないぐらい幸運な復旧で、「はやぶさ」から我々に手を差し伸べてくれたといまでも思っている。こんな悪条件から復旧してくれた宇宙船はどこにもない」。
2006年。遂に、イオンエンジンとリアクションホイール１基と太陽輻射圧で「はやぶさ」の姿勢を制御し、地球に戻ってこられる方法を見つけます。川口キャプテンは絶対に諦めません。
2009年2月、二期目の帰路軌道制御を開始。イオンエンジンが故障。
「何としてでも地球に帰したい」川口キャプテンは、イオンエンジンの連動運転を指令します。連動運転は地上での試験を行っていないため、機器に与える影響が予測できなかったそうです。「手探りの運用が始まった」のです。
「カプセルを再突入させるには、母船である「はやぶさ」がカプセルを抱いたまま、いったん大気圏に突入する軌道に入らなければならない。当初の計画時は、「はやぶさ」は再突入カプセルを切り離した後、化学エンジンを使って地球再突入軌道を離れ、再び宇宙に飛び出して飛行を継続することを考えていた」のです。これは、生禿が認識していた帰還のプログラムでもありました。ですが、「推力の弱いイオンエンジンしかない今となっては、カプセルを分離した後に「はやぶさ」が再突入軌道から離脱することはできない」のです。
川口キャプテンが、JAXAのサイトに2010年4月15日に書いた文章は有名です。
「はやぶさ」 そうまでして君は
「はやぶさの帰還が迫る中、2009年11月、全てのイオンエンジンの寿命が尽き、運用停止に追い込まれた。だが、我々プロジェクトは、彼を諦めさせることなく、動くものはなんであれ動員してあらためて走りださせることに成功した。いや走らせてしまった。…「はやぶさ」を待ちうける運命は、大気再突入で燃え尽きることだ。… どうして君はこれほどまでに指令に応えてくれるのか？そんなにまでして。… この帰還の運用には、一度きりのチャンスしかない。… 「はやぶさ」の覚悟が何であり、何を望んでいるかが、わかった気がした。たまごを受取って孵してあげること、それをしなくてはならない。…」
満身創痍、健気に頑張ってきた「はやぶさ」。川口キャプテンには、成算があった。そして「はやぶさ」＝自らの偉業を最大限に盛り上げる演出が始まります。「はやぶさ」の擬人化が強くなるのはこの頃から。「はやぶさ」の成功は、川口キャプテンを始めとする宇宙研のスタッフが成し遂げた偉業です。だからこそ困るのです。それはJAXAの偉業では無く宇宙研の手柄なのですから。アメリカに尻尾を振るだけが取り柄の旧科学技術庁の官僚の面子は丸潰れです。だから、「はやぶさ」の偉業は「はやぶさ」自身が成し遂げた偉業(人智を超えた奇跡)でなければならないのです。
「帰ってこいはやぶさ」「はやぶさ そうまでして君は」「お帰りなさいはやぶさ」と繋がる綱渡りが始まります。もう一つの、地上の星達の闘いです。
この闘いでも川口キャプテンは勝利します。見事としか言いようがありません。日本人の琴線に触れる物語は、生禿もその一人ですが、多くの日本人の感涙を誘います。JAXAも宇宙研も、東大も旧文部省も旧科学省もありません。この感動、この健気さの前に、コップの中の嵐は浄化されました。
それだけではありません。「はやぶさ」に拍手喝采した大衆は世論を動かし、日本の宇宙開発の未来を残します。それでも、糸川博士以来の固体燃料ロケットの技術は蔑(ないがしろ)にされ、技術移転もできないアメリカ技術の押付けを、官僚たちは受け入れます。それでも可能性は残されたのです。その可能性も官僚たちは潰すでしょう。それでも、ゼロではありません。『やり直しがきかないことでは、絶対に諦めてはいけない』。川口キャプテンは、現在のJAXAの体たらくぶりを想定しながらもそう決意したのだと思います。
JAXAのサイトから頂きました。
2010年6月13日。「カプセルを分離した後、２時間半余り、地上の管制センターから「はやぶさ」を運用する時間をのこしていた。４年半振りにカメラの電源を入れた。「はやぶさ」に自分の目でふるさと地球を見せてあげること、これに尽きる。カプセルを分離すれば、地上から操作できるものは何もなく、「はやぶさ」を運用する必要もない。だが、「地球を写そう」という提案に、チーム全員が賛成し、無言で運用に当たってくれた」。これが、有名なラストショットである。最後の撮影データを受信している途中、「はやぶさ」は。。。「カプセルが回収できるかよりも、何よりも確実なのは「はやぶさ」が散って逝くことだった」「『ありがとうはやぶさ』という思いしか浮かばなかった」。
2010年7月、帰還カプセル展示。
会場のアンケート箱の中に次の一枚があった。
「僕は、僕が「はやぶさ」のつもりでだったので、イトカワに着いた時には、おじいちゃんに会えた気がして嬉しかったです。「はやぶさ」を迷子にしないでくれて、ありがとうございました」（糸川直仁）
2010年11月16日、イトカワ起源の微粒子を確認したと発表。
「はやぶさ、そうまでして君は帰ってきてくれて、ありがとう」
