「偶然とは何か」 竹内啓 2010年 岩波新書
偶然とか必然とかは「カラスの勝手」。純粋に心理学上の問題。なのに、哲学を持ち出すなんて … 数学者ってどこまでいっても形而上学、実体の無い学問なのか?って疑わせる内容でした。竹内さんもこうなんだな〜ってガッカリでした。 以下はこの本の要約と引用です。
《はじめに》
偶然は「不確実性」という言葉で置き換えられ、それに伴う損失は「リスク」と呼ばれる。
近代科学の宇宙観は、機械的因果論の立場をとっているが、それは科学によって検証されるものではない。
量子物理論では、全ての事象は確率でしか予想できないとされる。この場合の「確率」は何を意味するのかについては、考え方がまとまっていない。
現代物理学は、宇宙の全ての現象が、数式で表現される少数の基本法則によって記述されると信じている。その法則が確率で表現されるとしても、その確率が完全に決定されている意味で、「決定論」であることに変わりはない。
科学が進歩しても、全ての現象を把握することはできない。そこに属する現象は、「偶然」と言わざるを得ない。
確率論の導入によって「偶然」は克服されたというのは、自然の認識としても、人間の生き方としても正しくないと思う。
《1.偶然と必然》
西洋言語では「偶然と必然」というような対になる言葉は存在しない。必然でないことが偶然である。
仮設的偶然は、理由と帰結、原因と結果、目的と手段の結びつきが欠けていることを意味する。全ての現象には 何らかの理由がある。その理由がその事象と結びつけられているならば、必然と見做せる。
科学は全ての現象が、必然の法則に従うことを仮定するが、全ての事象が知られている法則によって「理由づけ」られているわけではないことは、科学の前提である。
近代科学は目的論の否定を前提としている。そこには、進化論や歴史観に関連して微妙な問題がある。
人間はモノとコトの間に秩序が存在すると信じている。アミニズムの世界では、精霊の意思によって全ての現象が説明される。人間は、精霊の気持ちを推し量り、呪術によって働きかけたりした。近代以降は、個々の現象の背後に共通の秩序を考えるようになった。何ら理由なくして起こることを受け入れるのは、人間にとっては難しいことなのである。
古代ギリシャの幾何学は、現実の図形を扱うものではなく、観念上の図形を扱うものだった。
ラプラスが書いた「天体力学」を読んだナポレオンが、「ここに神はいないようだが」と尋ねたのに対して、ラプラスが「私はそのような仮説を必要としません」と答えた話は有名である。
人間にとっての必然性は、理解可能な秩序に従って起こらなければならない。物理学の法則で現実の事象を予測しようとすれば、初期条件を定めなければならない。ニュートン力学においては、全ての物質がなぜそこにあるのかを説明する理論は存在しない。
偶然を発生させるメカニズムは三つある。初期条件の違いが結果に違いをもたらす場合。複数の因果関係が同時に働き、かつ複数の因果関係の間の関係が不明な場合、。微細な多数の原因の結果として生じる連続変動。
《2.確率の意味》
ある事象の確率とは、同じ試行を繰り返すとき、その事象が起こる回数の比率(相対頻度)である。確率を頻度としてしまえば、確率という概念を導入する意味はない。
独立で同じ試行を多数回繰り返すと、その値の平均値は、その期待値に近づく(対数の法則)。対して、結果の分布を述べたものが中心極限定理である。このときの仮定は、偶然現象が積み重なる=その結果は代数和になるである。
しかし、全ての場合に偶然の積み重ねがそうなるとは限らない。賭けの場合、続ければ所持金は0に近づく。偶然変動が積み重なる際に、サイコロの出目のように加法的に合成される場合と、賭けの所持金のように乗法的に合成される場合とでは、異なった現象が起こる。相次ぐ変動が互いに独立ではない場合がある。
偶然現象が積み重なった場合に、それが加法的であれば、大数の法則および中心極限定理が成立して、その分布が釣り鐘型の分布に近づいていくが、そうでなければ色々なことが起こる。確率的には偏りがないにも拘らず、結果はどちらか一方に偏ってしまう。どちらの方向に偏るかは偶然に決まる。
ランダムな現象に関しては、大数の法則は確率論によって証明されるのではなく、はじめから確率論が適用できるための前提として想定されている。現実にランダムな現象が存在するかどうかは、検証してみなければならない。例えば、社会現象の多くはポアソン分布を示す。
完全にランダムなものが、完全な均一性をもたらすことを利用したのが統計力学である。分子の集団からなる気体の圧力、温度などの状態は、大数の法則によって、分子の平均密度や平均運動量で表すことができる。
ある系の「一様性」の程度は「エントロピー」で表される。エントロピー増大は、個々の分子の運動がランダムであることから起こる。対して、遺伝の進化などは「情報量の増大」は秩序の形成を意味する。偶然性にはエントロピーの増大をもたらものと、情報量の増大をもたらすものがある。偶然の影響が、相互に打ち消し合うのではなく、強め合うような、乗法的な場合もある。
賭けにおいて行動基準となるのは、利益ではなく効用である。効用は主観であるから、観察して定められない。賭けに対する行動から期待効用を知るしかない。
「偶然」と見做される現象が、実際にランダムな系列を生じるか否かは、証明できない。実際に検証する以外にはない。
《3.確率を応用する論理》
保険においては、保険会社と加入者とでは確率の意味が異なる。保険会社にとっては、それは「率」の問題。対して、個々の事象は偶然である。
平均値mなどについて標本を観察する前に想定した確率分布を「事前分布」と言い、観測値が与えられたときの分布を「事後確率」という。統計の目的は事後分布を求めることだとする立場は、最初に提唱したトーマス・ベイズに因んで「ベイジアン」と呼ばれる。現代のベイジアンの立場を確立したサヴェージは、事前分布は個人的確率であるとした。心理学の行動主義に基づいている。
最初からベイズ法を適用して、事後確率を計算してしまうと、どこまでがデータの示すところで、どこからが主観なのかが解らなくなってしまう。
確率モデルを用いた統計手法は、一義な「科学の結論」を与えるものではない。偶然の変動を含むデータから可能な限り合理な判断を下すための一段階である。
《4.偶然の積極的な意味》
進化は進歩を意味しない。進化の方向を予測することはできない。マルクスとエンゲルスは、ダーウィンの進化論に魅せられて、マルクスは「資本論」第一巻をダーウィンに捧げようとして断られたと言われる。
F・ゴールドンは、生物学に統計手法を適用した。回帰分析の「回帰」の意味は「元に戻る」である。ゴールドンのもともとの意味では、回帰ではなく「退行」と訳した方が正確な意味を伝えている。
生物の進化の過程で、偶然の変異が、一定の方向への進化をもたらすのか。メンデルの遺伝法則に、自然選択の圧力が働いたときに、特定の遺伝形質が支配的となるかを示す集団遺伝学が生まれて、遺伝学と進化論を結びつけることができた。
1989年にパリで始まった一連の事実を「フランス革命」と呼ぶが、それは後の人が一連の事実をそう名付けただけ。その当時の人が革命が始まったとは考えていなかった。
歴史上の巨人が数多く出現した時代は、世界が不安定で、指導者の個性が影響を及ぼした時代である。
《5.偶然にどう対処すべきか》
自由主義経済学者は、自由な市場競争の結果は自己責任だとする。しかし、個人の能力や資産は親などから受け継いだもの。結果を自己責任に帰すことはできない。
生命の危機を含むような事態において「合理な決定」が可能であるかは疑問である。
配偶者を選ぶとき、気体幸福度を計算するよりも、好きな人と結婚して、幸福な生活を築くための努力をした方が良い。
《6.歴史の中の偶然性》
多くの対象を観測することによって傾向を見ることは、確率論とは無関係である。
統計学者は特性値の分布が正規分布になることを数学者が証明したと思い、数学者は統計学者がそこのとを実証したと信じている。平均値が代表値として意味があるとは限らない。
コンピュータの発達は、数百万の部品からなる複雑なシステムを製作することを可能にした。
それが発生すれば膨大な損害を発生するような現象に対しては、大数の法則や期待値に基づく管理は不適切である。そのような事故が起こったら「おしまい」である。なすべきことは、そのような事故が「絶対に起こらないようにする」ことである。
非常に小さい確率の場合、それを実際に検証することは不可能である。それは一定の仮定の下に計算された値に過ぎない。小さい確率の事象については、そのことが起こった場合の結果の重大性に依存する。
何重にも設けられた安全システムが事故を防げなかった場合、システムが互いに独立ではなく、一つの要因によって同時に機能しなくなる場合が多い。代表的な例は、そこで働いている人が安全ルールを守らなかった場合である。
資産価格の変動を和らげる(ヘッジする)商品をデリバティブ(金融派生証券)と言う。デリバティブの価格を与えた式が、ブラック・ショールズの公式である。
昔からバブルの拡大と崩壊は何度も起こっている。最大のものが1929年の金融恐慌であった。バブルの発生と崩壊は偶然の事件をきっかけとして起こす。しかしそれに対する人々の反応は、それを拡大する連鎖反応を起こす。
カオスは、短い時間の変化は単純な微分方程式で表現される決定論的。しかし長期の変動は初期条件の変化によって大きく変わる。