チェニジアは中東民主化のモデルと呼ばれていました。アラブの春が最初に訪れ、政教分離の世俗派が主流で安定していると言われてきました。世俗政党とイスラム政党が話し合い現実路線を歩んでいました。ですが、根っこの方では、モスレムの不満と不信が渦巻いている部分もあるのです。中東の中でも「安定している」とされていたチュニジアですらこうです。今後の、中東の混乱は、米国の軍事力で解決できるようなものではありません。

 中東のイスラムの動きはどうなるのでしょう。

 生禿は、このブログでも書いてきたように、随分前から、アフリカ諸国のモスレムがどう動くかに注目していました。イスラム国後に、アフリカを含む新オスマン連合(イスラム連合というべきかも知れませんが、歴史としてはオスマン帝国の再来ということでオスマン連合としています)が成立するのは明らかです。イスラエルが消滅し、アラブ地域の全てが連合に含まれるのは当然ですが、問題はアフリカのどこまでが連合に属するようになるかです。地中海地域は勿論ですが、生禿の感覚では、アフリカの中央部も含まれると推測しています。

 中東のイスラムの動きは、[アルカイダ → イスラム国 → イスラム/オスマン連合]へと流れています。初期のアルカイダのリーダーは、石油の富を手にする一家の一員で、自家用ジェットを乗り回すお坊ちゃまです。欧米留学の経験を持つ者も多く、高い知識と教養を身につけています。そして、豊富な資金を背景に、闘っていました。次に、彼らの下で学んだ活動家などが、イスラム国の中核となります。権力を持つべき資質が無いのにその座にあろうとするので、過激に振舞い、暴力による支配を求めます。最後のオスマン-イスラム連合の中核は、一部の活動家ではなく民衆です。多くの苦しい経験を経て、穏やかな治世を求める民衆です。

 生禿の親は戦時中に共産党の党友でした。当時の共産党員は、戦前の大学を出た裕福な家庭の出身者でした。親の地位も高く、憲兵に捕らえられても、拷問死することはありませんでした。拷問死させられてのは、農家出身の小林多喜二など、庶民でありながら共産主義に染まった人々でした。生禿が中学生の頃、何を思ったか、親が旧知の友人を訪ねて、代々木の共産党本部に遊びに行きました。そして、帰ってくるなり吐き捨てるように言ったのです。「近頃の共産党員には知性も教養も無く下品だ」と。中学生の生意気盛りの生禿げは、即座に「ナロードニキの声も虚し」と応じます(「ナロードニキ」は、「民衆の中へ」の意味)。裕福な人々は舞台から去り、主役は民衆の中から生まれた活動家に受け継がれます。そして、文字通り「民衆の中に」浸透していきます。思想は、社会階層の上から下へ向かって浸透していくのです。(生禿の家系は、明治維新にあっても、太平洋戦争にあっても、変わらぬ信念を以て、その社会倫理を守り抜いた家系であることを誇りにしています。それは、生禿が殆どの日本人と違う点です。)

 イスラム国の指導者も、知性も教養も無い活動家です。民衆とかけ離れた感覚の持ち主ではありません。民衆を従えるのが当然と考える特権階級ではありません。必然として民衆に対する「力による支配」が生まれます。そして、その支配の危うさを超え、やがて、民衆の総意による体制が生まれてきます。

 不自然に作られた借りもの民主主義は崩壊します。アフリカで初めてのイスラム国の活動が、チェニジアであったのも偶然ではありません。欧米の押しつけ民主主義の象徴、チュニジアは、最初に破壊されなければならない存在です。