《6. アトランティスが沈んだとき》

前5000年 長い夏と温和の冬の時期が始まる
前4000年 大西洋岸の諸地方に、巨石墓ができ始めた
前1500年 欧州の青銅器文化が盛期を迎える
    欧州大陸の西海岸とイギリス・アイルランドの南海岸
前1300年 暑熱の時期が始まる
前1250年 噴火と地震の大災害
    ユダヤ人を追ってきたエジプト人が紅海で溺れる(津波で?)
    中部ヨーロッパで民族移動が始まる
前1200年 旱魃機が終わる
前1197年 「海の民」がエジプトを攻撃
前1150年 ドーリス人がペロポネーソス半島に地歩を占める

 ラテン語の「光は東方から」は、近東やエジプトの文明が欧州に広がったことを示している。

 あらゆる動物と植物は、生きている間に通常の炭素(C12)と、大気中の宇宙線によって生じる放射性炭素(C14)を体に貯える。生物が死ぬと、C14は5600年ごとに半減するが、C12はそのまま残る。C12とC14の割合から、年代を推定することができる。但し、前1500年以前には、大気中の放射性炭素含有量は少なかった。この原子時計の計算を補正したものが使われている。

 前5000年以来、東地中海と北太平洋岸の二つの文明の極が花開いた。大西洋岸では、巨石文化を発展させて、ドルメンを建設し、メンヒルを立て、地中海への道を発見して、パレスチナとメソポタミアを経てペルシャ湾の諸文化と結びついたであろう。イタリア半島に達した諸種族はウンブリア人になった。その頃、カンパニアにはテウトニー族もいた。ケルト人は、テウタテースという名の神を持っていた。

 テラ火山が爆発した前1220年。難民は、アナトリアへ向かいヒッタイトを脅かす。彼ら(「海の民」と呼ばれる人々)はエジプトに迫った。エジプトに敗れた「海の民」は、パレスチナやシリアやキュプロスで不安定な生活を送った。他の者は、レバノンでカナン人と合体して、フェニキアの商業帝国を建設する。優れた船を建造する技術を持っていた。新しい征服者の集団、ドーリス人がやってきて、ペロポネーソス半島を占領した。

 ゼウスとその子ヘラクレス、そしてポセイドンは、アカイア人やドーリス人や海の民が共有していた記憶であろう。ギリシャでは、ヘラクルスの分化が花開いた。

≪7. ケルト・ヨーロッパの誕生≫

前900年 エトルリア人がイタリアに住みつく
前800年 スキュタイ人が西欧に進出する
前700年 ハルシュタット時代の始まり
前600年 ドナウ川上流と南フランス地中海岸の間に通商網ができる
前520年 ドナウ川上流地域が荒廃し、ケルト人が現れる
    ケルト諸部族が北イタリアへ進出
前450年 ハルシュタット時代の終わり

*wikipediaに拠れば、ハルシュタット文化は、中央ヨーロッパにおいて青銅器時代後期(紀元前12世紀以降)の骨壺墓地文化から発展し、鉄器時代初期(紀元前8世紀から紀元前6世紀)にかけて主流となった文化。名称はオーストリアのザルツブルク州の南東の湖岸の村ザルツカンマーグートにある標式遺跡が出土したハルシュタットに由来する。一般的に西文化圏はケルト祖語及びケルト人と、東文化圏はイリュリア人と関係があるとされている。

欧州への侵入

 新石器時代にザルツカンマーグートが集落になったのは、岩塩のためだった。後記青銅器時代には、本格的な製塩所があった。かれらは、貴重な原材料を持ち、交通の要衝に住んでいた。彼らはクルガン人を取り入れたと推定される。

 最初のケルト人を、骨壺墓を造った人々とするのは、原民族を遡りたいフランス人。それ以外の研究者は、前600年をケルト誕生の時期としている。ケルト人がハルシュタット文化に関与したことや、骨壺墓の人たちが彼らの祖先であることは間違いない。しかし、ケルト人の誕生は、アルプスのかなたからエトルリア人が流れ込んでくるのを待たねばならない。

 ステップの遊牧諸民族は、自分たちの祖先が獣だと信じていた。獣の模様をモチーフにした模像を持ち歩いた。スキュタイ人はシャーマンに指導されていた。神官を表すサンスクリット語「シャラマナ」は、魔法使いを意味する。スキュタイ人は、前1100年頃、カスピ海地方からドニエプル川まで進出しただろう。スキュタイ人は、西欧への道に出た。

 スキュタイ人は、金や青銅で飾った動物の模様を好み、家畜を飼い、馬を愛した。多彩な模様のケープを肩に掛けていた。口髭を生やし、頭髪を梳き上げていた。スキュタイの装飾技術は、ケルトの装飾様式に引き継がれた。スキュタイ人は火葬を止め、個人墓を導入した。そして、騎馬を特権とする貴族の支配を推進した。

 青銅器時代、スキュタイの文化とギリシャの文化が合体して、ケルトという新しい型に整理された。前520年頃、ドナウ上流からライン河谷に、ローヌ河谷から北イタリアへ達した。ケルトの軍勢は北イタリアに姿を現した。エトルリア人との戦いに勝って、ミラノを建設した。アルプスの語源はケルト語である。

bc2000移動

≪8. 市民的な風貌の首狩族≫

前450年 ラ・テーヌ時代の始まり
前400年 ケルト人がイタリアへ進攻
前333年 アレクサンドロス大王が、イッソスでペルシャ軍を撃破
前304年 アレクサンドロスの将プトレマイオスがエジプトの支配権を確立
前218年 第二次ポエニ戦争が始まる
前175年 ローマと北イタリアのケルト人の戦い
前 61年 カエサルがスペインのケルト人を破砕
前 58年 カエサルがガリアを占領
前 50年 欧州でラ・テーヌ時代が終わる

 ハルシュタット時代の最後に鉄の加工法が進歩し、日常の道具も鉄で作られた。ヒッタイト人は前1400年に成功していた。原料の鉄鉱石は、西洋のいたるところに産出する。地殻の5%は鉄鉱石である。錫を運ぶ長い商業路に頼る必要はなくなった。

 刃が鉄でできた車つきの犂が造られて、粘質なだが肥沃な河谷の土壌を耕せるようになった。カインとアベル、植物栽培者と家畜飼育者、ファーマーとカウボーイとの争いが生じた。

 遊牧時代から家畜は動産であり、貴族の富の柱だった。大きな商品積替地は、牛市・馬市から、商業路は畜群を追っていく小道から発達したものである。

 鎌で草を刈って、納屋にしまっておけるようになり、夏の牧場から冬の牧場へ移動する必要がなくなった。肉が早くつき、乳をたくさん出すようになった。

 様式化された蔦が、写実的な動物に巻きついた文様。線条細工は細かく見事だ。ケルト人は、空白を恐れているように、文様で埋め尽くした。スキュタイ的な要素がもう一度ケルトの芸術に流れ込んだ。職人は空白を残した。

 ケルト人は、地中海から伝わった技術を受継いで発展させた。軟鉄鋳造さえ習得していたらしい。この技術は、19世紀にようやく完成されたものだ。ケルト人は、真鍮も発明した。(世界で初めて)水銀で銀メッキをすることもできた。色ガラスを作り方も知っていた。ケルト人のマントや上着の派手やかさは、人物描写で示された。

 ケルト人は、装飾品の金属細工に価値をおき、不動産を嫌悪した。町に定住するようになっても、遊牧民時代同様、常に進発できる用意を整えていた。

 ケルト人の剣は、前450年頃はハルシュタット時代のように、短く尖っていた。白兵戦で槍攻撃できな唸ると、それで突き刺した。150年後には、ケルトの剣は斬る武器になり、先が丸くなった。大きな楯は鍛冶技術の傑作である。しかし、皮を張った板で身を守っただけの兵卒は、ローマ軍兵士にはかなわなかった。

 リグリア人は、水の精に捧げられた聖所を造った。後にケルト人も加わった。そこにギリシャ人も来て、神殿ができた(ギリシャ-ケルト文化)。

 防壁をめぐらした町=高城は、ケルト人が定住したユーゴスラビア・オーストリア・ドイツ・フランスいたるところにできた。内側に青々とした牧草地があり、居住施設、工業施設を取り巻いていた。金細工の工場・青銅鋳造所・鉄加工業・ガラス工場・陶器製造所・商館などがあった。豚・山羊・牛・馬を飼育した。馬は武装した人間を乗せることもできた。

 前300年頃、ケルト人は、あっという間に、トルコからイギリスまで、全欧州に広がった。ケルトの貨幣は、ドナウ川とセーヌ川の間の市場と地中海の市場を結んだ。

《9. 死の管理人》

 19世紀の教養人は、ケルトの神官にについて明確なイメージを持っていた。ドルイド教団を設立して、月崇拝・夏至祭・聖杯・悪魔調伏・ファロス祭祀を行った。ウェストン・チャーチルが1908年、ドルイド共済会に入会した。

 アーリア人のバラモン文化と、アイルランドのドルイド文化には類似点が多い。ドルイド神官は、医者であり、占星術を心得え、法律学者であった。「心に真実を、腕に力を、言説に現実を」が、ケルト人はの生活信条だった。

 ドルイド神官は、霊魂は不滅だと教えた。死は休止に過ぎない。敵が戻ってこないように、ケルト人は敵の首を切った。スキュタイのシャーマンとケルトのドルイド神官の、死に対する対処のしかたは同じである。

 裸で戦場に出る習俗は、熱は宗教の/精神の力と証だった。インドのヨガ行者は、瞑想によって体が熱くなり、「沸騰」する。古代アイルランドの英雄クー・ホランも燃えた。

 ヴォータンも鳥を伴にし、外れない槍を持ち、ルーン文字を発見して魔力を得た。馬に乗り巨人と戦った戦士であった。北ゲルマン人が、オーディンとしてヴァルハラに入れたヴォータンは、シャーマンと看做されている。ルフも、戦士を熱狂させる魔術、熱の支配者だった。

 ゲルマン人の間では、ヴォータン=オーディン、ドーナル=トール、軍神テュール、ケルト人の間では、テウタテス、エスス、タラニスの名が挙げられる。

 ケルト人は、ギリシャ人もローマ人もそうだったが、井戸や泉を通じて、水の精や地霊と連絡がついた。

 ケルト人が神々に人間の姿を与えたのは、エトルリアの影響を受けてからだ。地中海文化との接触を深まるにつれ、ケルトの彫刻は自然主義的になる。

《10. ユリウス・カエサルの策略に満ちたゲーム》

前197年 ケルト・イベリア人がリーマに対して反乱を起こす
前 61年 ガイウス・ユリウス・カエサルが、イベリア・ケルト人の最後の砦を占領
前 58年 カエサルがガリアに行き、ケルト人を破る
前 54年 カエサルが、再度ブリタニアに渡る

 ケルトの戦士もローマ化/ギリシャ化されていった。ケルト人には、60のグループがあった。ローマの政治家たちは、アリアの大きな部族の間に平衡が保たれるように、彼らを反目させることに務めた。カエサルの言動には、権謀術数の臭いがする。
*これは、現代の権謀術数の農耕民=欧米人と、短絡激情な遊牧民=アラブ諸部族の関係と全く同じです。

 ゲルマン人とケルト人は似ている。しかし、後期ラ・テーヌ時代には、共存関係は敵対関係に変わっていった。北と東からゲルマン人が、南からはローマ人が攻めてきた。

《11. ウェルキンゲトリクスの無益な戦い》

前 54年 カエサル、再びブリタニアへ渡る
前 52年 ウェルキンゲトリクス、バルチザン戦をしかけ、敗れる
前 49年 反逆者とされたカエサルが、ルビコン川を渡る
前 44年 カエサルの暗殺

 残虐非道なカエサルは、10年のがリア戦争中に800の村と町を破壊し、300万人を殺し/奴隷にした。

 ウェルキンゲトリクス率いるケルト部族は、パルチザン戦で得た成果を、熱狂に従って、たった一度の戦闘で全てを失った。

 ケルト人はブリタニアに追われ、抵抗を続けた。ウェールズのナショナリストは、この戦いはまだ続いているという意見を持っている。
*生禿の「辺境文化論」は、ウェールズのケルトの末裔と共鳴します。最後の?縄文人として、生禿はウェールズとアイルランドの独立を熱烈支援します。

《12. 世界の果てへの遠征》

前900年 ゴイデリック語の諸民族がイングランドとアイルランドに進出
前500年 ブリソニック語のケルト部族が島に到達
前 75年 ベルギーのガリア人がドーバー海峡を渡る
前 55年 カエサルがイギリスへ行き、移住したベルガエ人と戦う
後 40年 カリグラがブリタニア征服を開始
後 61年 ローマ軍が、ブーディカ女王率いるイケニー族の反乱を鎮圧

 前2000年と1200年の間に、インドゲルマン語族がブリテン諸島に着き、定住した。

 ケルトの船は、流線型のヴァイキングの船よりは、舷側の高いハンザ同盟の船に似ていて鈍重だった。

 ブーディカは、背が高く、声はしわがれていた。赤い髪が膝まで垂れていた。派手なネックレスをし、多色の服の上にブローチで止めた厚いショールを掛けていた。長い槍を握っていた。

 ローマ人は、土地を占領した時に、屈服した現地の族長たちをそのまま元の地位にとどめ、属王として扱った。やがて、その権利を奪った。

《13. 蛮族の共謀》

300年 サクソンの海賊がブリタニアを襲撃し始める
367年 ピクティー族・スコーティー族・サクソン族・アングル族が、ローマ化地域を攻撃
    マグヌス・マキシムスがこれを撃退し、ケルトの英雄として伝承される
410年 ローマのブリタニア支配が終わる

 コンスタンティヌス帝は、ガリアの神殿でX印の幻を見て、それを旗印とした。その印は、ケルト再生の車輪の輻である。ローマ帝国の支配者が、ドルイド教を受け入れた。コンスタンティヌス帝は、ルフの代わりにイエスを同盟者にして、Xをキリストのギリシャ語のChiと解した。オーディンの信奉者は役割を終え、ガリアにも広がり始めたキリスト教に敵しなかった。ドルイド教が滅んだのは、407年に始まった民族大移動により、ローマと共に没落した。

 ゲルマン民族のフランク族が、フランスの大部分を手中に収めた。イギリスでは、ラテン語を話し、キリスト教徒になったケルト人の歴史が終わった。

《14. アイルランド、あるいは琥珀の中の蠅》

前600年 ゴイデリック語を話すスペインのケルト人がアイルランドに渡来
前300年 P-ケルト語をは話すガリアの諸部族がアイルランドに到達
    アイルランドのラ・テーヌ時代の始まり
前450年 アルスター王たちの都が破壊される
    北の王国と南の王国が建設される
    アイルランドのラ・テーヌ時代の終わり、キリスト教が広まる

 アイルランドの英雄たちの剣は、ラ・テーヌ時代と同様の斬るだけものだった。投槍と突槍も武器としたが、矢は知らなかった。アイルランドの伝説の剣は、アーサー王の手に握られるカラボルグと称される。

 家柄のいい若者は成年に達すると、刀礼を受け、敵領に襲撃をかける力があることを証明しなければならなかった。それは戦利品、家畜と切り落とした首で証明された。

《15. 未開の柔和なケルトの聖者》

391年 キリスト教がローマの国教となる
500年 聖パトリックが宣教師としてアイルランドへ行く
635年 エイドーンが、ケルト教会に倣ってアングル族の王国に布教する
793年 アイオーナ島が、ヴァイキングの攻撃を受ける

《16. どこにも無いケルト王国》

 500年 サクソン族・ジュート族・アングル族が、ケルト族を亡ぼす
    ローマの秩序に従うキリスト教会が設立される
1066年 ノルマンディー公ウィリアムスが、イギリス王を破る
    ケルトの伝統を復興しようとする試みる
    アーサー王伝説と聖杯伝説が形成される

 アーサーは、ローマ化されたキリスト教徒で、サクソン族と戦った司令官だったと思われる。

 聖杯の名は、イギリスの修道士たちが魚のスープを飲む杯「ガラリス」からきている。ノルマン朝の諸王と修道院長は、聖杯伝説を利用した。国民教会が成立した。

《訳者あとがき》

 アイルランドでは、ケルト語がゲーリック語として話されている。

 インドゲルマン(インドヨーロッパ)語族に属するケルト人の故郷は、南ドイツだった。政治的には一体化することなく、没落する。