「進化論という考え方」 佐倉総 2002年 講談社現代新書

 進化論を真正面から取り上げた本は少ないので手に取りました。素直な感想は「やっぱり進化論は困難だ」です。価値観が絡んで科学になりきれないのが進化論。考古学や歴史学と同様に、ヒットラーやスターリンが暗躍する世界です。そして、この本はそれらの問題を巡って言説のための言説の堂々巡り。科学でもなければ哲学でもない。し方ないのかな〜〜〜とため息をつく。残念ながら以上でお終い、という感じでした。とは言え、進化論と情報論の接点については、自分自身の考え方の整理にはなりました。ありがとうございました。

 自然選択により獲得された「形質」は遺伝しない(遺伝しなくても形質は、「環境因子」により受け継がれます。黒熊が白熊=北極熊になるのは遺伝ではなく、環境要因です。遺伝子にはなんの変化もありません)。科学の事実としては、生存に不適合なDNAの突然変異は淘汰されるというだけで、生存に有利な遺伝情報が自然に獲得されることはないだろうというだけです(この場合の「遺伝」は広義)。突然変異による進化らしきものが、自然な状態で観察されたのは、歴史上一回しかありません。実験室での意図したDNA操作が進化を説明するかどうかは不明です。

 ダーウィンの「種の起源」も、人為の育種についての観察に基づくもので、自然な状態での突然変異に基づくものではありません。それでも、「種の起源」は観察結果に忠実なダーウィンの科学者としての矜持で貫かれたものです。だから救いようがあります。ですが、その後の「進化論」は「カラスの勝手」になってしまいました、を確認させて頂きました。

 以下はこの本の要約と引用です。*印は私の見解です。なお、文中の「遺伝子」が科学の用語として不正確なので「ゲノム」と書き換えた部分があります。


《まえがき》

 進化の理論を生命以外のシステムにあてはめる。生命現象を情報の用語で語る。「科学的」であろうとは心がけなかった。

《1. 進化論の二十世紀》

 チャールズ・ダーウィンの功績は、生物が環境に応じて適応して進化していくメカニズム「自然選択」を発見したことにある。ダーウィンは、トマス・マルサスの「人口論」を読んで「自然選択」を着想したという。
*流石にダーウィン。「人口論」を冷徹な科学者の目で適切に評価していました。

 生物学者で革命家であったピョートル・クロポトキンは、「ダーウィン以外の生物学者たちがダーウィン理論の競争側面のみを強調しすぎる」と批判した。生物は相互に協調し合うように進化する「相互扶助論」を展開する。今西錦司も「棲み分け理論」を提唱する。
*クロポトキンは、弱肉強食の歴史感を否定する心優しき革命家です。

 トーマス・ヘンリー・ハクスリーは、ダーウィンの擁護者であったと同時に、進化は跳躍的に生じるとして、連続的な進化を主張する自然選択理論に反対していた。
*生物進化を超長期で眺めると、「カンブリアの大爆発」のように、全球凍結の後などに、進化は不連続に起きることが確認されています。

 メンデル理論と自然選択を両立させた「集団遺伝学」が確立し、フィッシャーなどが数式化した。ハーバード・スペンサーの「社会進化論」は、進歩主義の自然感となった。コンラート・ローレンツやニコ・ティンバーゲンは、動物行動の系統進化を論じた。動物行動学を集団生物学化したものが社会生物学である。

 リチャード・ドーキンスは、情報複製の単位が種でも個体でもなく、ゲノムであることを明確に述べた。ゲノムの立場で考えると解り易い「利己的な遺伝子」の視点である。利他行動も、ゲノムの複製過程と読み換えることで説明できる。社会生物学は、進化の主体を遺伝子の複製へと転換した。

 分子生物学と進化総合説が融合するには、コンピュータの性能向上が必要だった。ハーバート・サイモンの進化情報論、そしてジョン・ホランドの「遺伝的アルゴリズム」は、フォン・ノイマンのセル・オートマトンや、ノバート・ウィーナーのサイバネティックスなどと融合して発展する。情報科学と生命科学の融合が進む。遺伝的アルゴリズムは、コンピュータ・プログラムを選択淘汰によって自律進化させることが可能だと主張した。

《2. 人の心の進化論》

 ニホンザルの芋洗い行動の伝播などの文化システムは、進化する体系として記述することが可能だ。文化の進化は人工物の進化に発展する。

 化石人類がどのような言語を使ったいたのか/いなかったのかに関して証拠は無い。思弁論争に陥ることを回避するため、パリ言語学会は言語の起源に関する研究発表を禁止した。

 ゲノムによる環境適応だけでなく、人間は文化を変化させることで対応できる。
*上記は筆者の明らかな間違いで、人間以外の動物も行動変容によって環境適応が可能。程度の問題です。このような論述は、進化論が人間を特別視する宗教の域を出ていない明らかな証左であると思われます。

《3. 生命を情報として捉える》

 リチャード・ドーキンズは、生物の進化を情報現象として捉えている。ゲノム計画がきっかけとなって生命情報論が展開される。

 コンピュータ・シュミレーションでは僅かな突然変異で仮想生物の形や振る舞いは大きく変わるが、実際の生物では突然変異で変化することは殆ど無い。*DNAの変異に対する修復が機能するからであり、これがなければ生物は生存できません。

 生命の進化は、偶然の変異の中から環境に適応できたものが選択されていく。何か新しいことを学習する時の試行錯誤の過程(強化学習)に他ならない。「ゲノムが学習している」と表現したのは、コンラート・ローレンツである。生物であれ社会であれ、基本は複製する情報システムである。

*自然選択で、ネアンデルタール人に言語遺伝子が無く、オウムに有ること。サメには繁殖のデパートと言われるように、卵性から胎生まで、他の動物にはみられないようなものも含めて様々な繁殖方法があることを、説明できるのか?は大いに疑問である。少なくとも、直線的な進化は否定されるし、古い種の方が新しい種の方が高等という偏見も否定されます。但し、このような場合でも、ダーウィンの進化論は否定されません。ダーウィンは、進化=進歩と捉えてはいません。

 ダーウィン・アルゴリズムの本質は、変異の生成(突然変異)、変異と複製率の間の相関(適応度)、変異の遺伝(自己複製)である。文化現象にこの基準を適用したのが「ミーム論」。ドーキンズが「利己的な遺伝子」の中で提唱した。文化動態は、疫病の伝染過程に似ている、という批判もある。
*ゲノムの変異は、ウィルスによってもたらされるとすれば、進化が伝染過程と似ているのは当然のことです。シベリアの永久凍土が溶けて、ホモ・サピエンスが免疫を持たないウィルスが次々と出てきている現代は、突然変異の可能性が高まっていると考えられています。

《4. ハンバーグのつなぎと進化論》

 コペルニクスは宇宙の中心から我々を追放し、ダーウィンは生物界の頂点から人類を引きずり下ろした。フロイトの無意識は、人間が獣であることを明確にした。

 価値の問題と事実の問題は、区別すべきとされてきた。しかし、価値規範そのものが科学技術によって変わってしまった。科学技術と社会規範との関係は、相互に自己参照の関係にある。

 カール・ポパーの理論実証主義は、哲学に論理性を求めた。近代以前は、科学と哲学の区別は無かった。自然界の成り立ちを解明する存在論は、自然科学が取って替わった。認識論も認知科学や神経科学によって自然科学になりつつある。

《5. 科学と物語と進化論》

 ギルバート・ホワイトの博物誌は、ミミズの土壌に対する影響を述べている。ミミズは土を攪拌し、水や空気を染み込ませ、その糞は肥料の役割を果たす。ミミズがいる土地は柔らかくて豊かな土地だ。ダーウィンが死の前年に出版した最後の著書は「ミミズの活動による腐植土の形成」。「とるにも足らぬ昆虫や爬虫類も、自然の組織の中にあっては、重大な意義を持ち、大きな影響力を持っている」というホワイトの自然感をダーウィンは受け継いでいた。

 自然科学の方法論は、実験方法などを明らかにし再現可能性を確保する。客観的なデータを集め、仮説からどのような予想が導かれるかを明確にする(反証可能性)。

 科学情報の広めるやり方の一つが「物語」。科学知識の意味づけを与える。この解釈を「物語」と呼ぶ。「海から陸に進出した生命たちによって、5億年の歳月をかけて作り上げられた緑豊かな土地。この土地を作り出したのがミミズなのである」中村方子。

 ヒトラーの依拠した進化論(の物語)は間違っていたというのは、後世からみての判断であって、当時にあっては、それなりの真実味を帯びていた。

 エルンスト・ヘッケルの系統樹は、生命の全てを一つの樹として描いている。人間を頂点とする進歩的な自然感により、進化を一つの物語として描いている。ヘッケルは、「個体発生は系統進化を繰り返す」で有名な過激な一元論者である。

 「多数の植物に覆われ、茂みに鳥は歌い、昆虫が舞い、土中を虫が這い回る。そのような森を熟視し、相互にかくも異なり、かくも複雑にもたれあった、精妙に造られた生物たちが、全て我々の周囲で作用しつつある法則によって生み出されたものであることを熟考するのは興味深い」。ダーウィンの「種の起源」の最後の一節には、自然への畏敬の念がある。

 分子生物学者ジャック・モノーは、生物の進化は偶然の産物であり、そこに人間が通常考えるような意味は存在しない、と結論した。モノーは、人間中心の価値観や倫理観を否定し、人間の「意味」そのものを組み立て直す必要があると問いている。

 祖先は、神話という形で天地創造や人類の歴史を語ってきた。人間は物語を必要とする生き物なのだ。

 「ガイア論」は地球全体があたかもひとつの生命体のようなような挙動を見せるという言説だ。地球は複雑なシステムだが、地球は生命体ではない。複雑で自律な系が全て「生きている」わけではない。ガイアの物語は、人間の感覚のみに立脚したロマン主義に変貌した。「とんでも科学」の典型は「自然食品」や「エコロジー」だ。

 生命の進化の最も大きな転換点は、自己複製する能力を持った分子から、その情報が(代謝)機能を持つような細胞へと移行した時点と考えられる。
*代謝機能を持った細胞にRNAが入り込んだのか、RNAが代謝機能をコードし細胞を組織したのか。代謝が先か、複製が先かは不明である。

 遺伝と言語は類似している。記号が階層構造をとっている。言語では音素が集まって単語になり、単語が集まって文を構成する。DNAでは、塩基が三つ並んでアミノ酸を指示するコドンとなり、コドンが集まって蛋白質を合成する。言語もゲノムも小さな単位の一次元の配列によって、複雑な意味を表現する。

*地球の地質や生態系は、階層を持ち複雑です。地球の中だけで考えれば、物事の階層性と秩序の尺度であるエントロピーは減少してきました。ホモ・サピエンスは、この系を破壊しています。生物の多様性を失わせ、地下資源を地上に散乱して、エントロピーを増大させています。ブリゴジンの熱力学の第二法則の解釈が妥当なら、ホモ・サピエンスは(地球時間尺度で)早急に絶滅するものと考えられます。それが当然だと受け入れるか、ホモ・サピエンス(の社会)が進化して、地球生態系の多様性を取り戻すべきなのかについては意見が別れるところでしょう。