「シャネル」 山田登世子 2021年 ちくま文庫

 ココ・シャネル!大学生のころ、文化服装学園の女友達に頼まれて、ファッションについての論文を書いたことがあります。その時に強烈な印象を得たのがココでした。シャネルのスタイルの原点は軍服。女が社会に出て戦う。その戦闘服がシャネルスーツ。

 自立を求めて、そのために「美しく生きる」女。ココ・シャネル。興味を持った私は、彼女の逸話を読んだり、映画を観たりしました。セックスは好きだけれど、男は面倒。恋多き女は、男を愛した。受身で愛されるのではなく。時には男を利用することもあったが。

 良い服とは、一秒でも早く脱がせたくなる服、というのが女性ファッション。私個人としては、今でもそう思っています。でもシャネルは違う。時には女であることも一つの武器として戦う女の戦闘服。

 この本は、日本国の絶頂期の名残がまだ少しは残っていた2008年に書かれています。多くの人々にとって、ファッションが贅沢の一つであった時代です。現在にこの本が教えてくれるもの … それは何だろう? 少し時間をおいて考えてみたいテーマです。

 シャネルが好きなのは、私と同様に「成功した仕事は他人にパクれる」「自分の仕事が世の中に認められ、役に立ったかどうかは、『パクられ度』によって客観計測される」と考えているところ。“パクられる”快感を味わうと、もうやめられないんです!!!← 何度もパクられるよううな仕事をしなかった方には理解できない快感でしょうが…。

 以下はこの本の要約と引用です。


■ はじめに

 火のように激しく、毒のあるシャネルの言葉「モードは芸術ではない。商売だ」。

 大衆(マス)に訴求しつつ、大衆を超えた憧れのオーラを保ち続けること。実業家シャネルはこの至難の業に長けていた。シャネルは、帝室御用達に始まる19世紀ブランドを刷新した20世紀ブランドを打ち立てた。

 生涯独身で働き続け、死ぬまで現役であった。彼女の成功の秘密は、その自分のライフスタイルをパッケージにして商品に変えたことにある。シャネルの生き方=シャネルブランド。シャネルというブランドは、ココそのものであった。

■ 贅沢革命

 ジャージこそ、シャネル・モードの出発点だった。若きココにとって乗馬は身近なスポーツだった。彼女は厩務員と同じ仕立ての乗馬ズボンを履きこなしていた。ニットも体の動きを楽にする素材だった。「私はジャージを発明して、女の体を自由にした」「レースやコルセットや下着や詰め物で着飾って、汗をかいた体を自由にしてやったのよ」。

 シャネルの店が売れ行きを伸ばしたのは、1914年、大戦勃発の年である。簡素で実用なシャネルの装いは、時にかない、理にかなっていた。

 シャネルはアメリカに愛された。豊かな大衆消費の幕開けである。

 シャネルは、孤児として、田舎の修道院で少女時代を過ごした。古くからあって流行り廃りの無いもの。シャネルにとってそれが「本物」だった。流行を追う都会人にはわからないものだ。シャネルは、いつも同じスーツを着ていた。

 シャネルの生涯を飾る恋人の内、初恋のアーサー・カペルに次いで大きな存在だったのがウェストミンスター公爵だろう。「ウェストミンスターはエレガントそのものだった。新品なんて何ひとつ持っていない」。広大な公爵の居城イートンホールの庭を散歩していたシャネルは、大きな温室を見つけた。居城で供する食材を栽培していた。公爵は自邸にそんな温室があることを知らなかった。

■ 偽物の力

 シャネルはベージュという「土」の色を初めてモードの舞台に持ち込んだクチュリエである。シャネルは、喪服にしか使われることがなかった黒をシンボルカラーに選んだ。「黒と白には絶対の美しさがあり、完璧な調和がある」。

 シャネルによって、宝石という存在自体が嫌悪の対象だった。素材に貴金属を使わないイミテーション・ジュエリーを作り出して「ビジュウ・ファンテジー」と名付けた。「アクセサリー」を創始したのだ。

 彼女がバックを創ったのは、両手を自由にするためだった。リップスティックは、外出先で手軽に化粧直しができるように、携帯用にしたものだ。

 マン・レイに撮らせたポートレート。くわえ煙草のシャネルが、黒一色に装って、何連ものパールのネックレスをつけている − 見る者は、どれが本物で、どれが偽物か分からない。

 エレガンスは財力から独立したものとなった。おしゃれは個人の「感性の良さ」の問題になった。

■ 著作権無用論 − マスの思想

 「ストリートはサロンなんかよりずっと面白い」。シャネルはデザインのコピーを容認し、オリジナルの権利を護ろうとしなかった。「いちど発見されてしまえば、創造なんて無名のなかに消えてゆくものよ。私は自分の考えを全部ひとりで開発するわけではないし、時にはそれが他人の手でうまく実現されているのを見るのはとても嬉しいことよ」。シャネルは自分のアイディアがコピーされることを喜んでいた。「意匠権問題」など「はじめから存在していない」。

 既製服産業が誕生していた。米国のバイヤーたちはパリに型紙を買いにやってきた。合法的飼いつけから、コピーに至るまで、米国は膨大なニーズに応えて既製服を売りさばいた。「盗作をおそれるだなんて、何という創造における信念の欠如だろう!」。シャネルにとって、コピーとは広く大衆に愛され、認められること以外の何ものでもなかった。コピーは「成功の証」以外の何ものでもなかった。「誰からも模倣されないようなデザインは魅力のないデザインなのだ」。

 「クチュールというのは商売であって、芸術ではない」「自分の作った服を展示したりしない。売るだけだ」。芸術よりビジネス。無駄より実用。シャネルはマスの国=米国に受けるべくして受けたのだ。

 職人生産の伝統が根強い欧州では、技能の習得を必要としない大量生産システムの導入への抵抗は大きかった。フォード車と同じ黒一色。この服は、シンプルを極めた。「同じだからこそクオリティが保証されるのだ。モードも規格化の時代に入った」ヴォーグ。シャネルは、大量生産を肯定していた。シャネルは、他のクチュリエ全員を敵にまわして、自分を信じた。

 「よくできた服とは誰にでも似合う服である」。白の襟やカフスはシャネル得意のデザインである。修道院のシスターの制服にヒントを得たという説もある。

■ 起業家シャネル − ブランド・ビジネス

 シャネルは二重底でできている。どれほど安物がでまわっても、本物は一目でわかるクオリティでなければならない。シャネルは、コピーされるのが難しい最高級の生地しか使っていなかった。「素晴らしく良くできた一着のドレスから、既製服にたどりつく。モードは街に降りてきながら自然死を遂げる」。「オリジナルがコピーと混同されるこおてゃない」。ブランドは揺るがない。

 偽物が本物を価値化する。安物の流通こそが、メゾンの高級品の価値をせり上げる。希少性が価値を持つ。ルイ・ヴィトンが持っているのが当たり前になった時、オーダーメイドの商品が価値を担うことになった。シャネルは、「希少性のパラドクス」を認識していた。

 シャネルは、それまでのゴージャスを覆した。それでいて、自分の創案を安く売ろうとはしなかった。シャネルは、アクセサリー=偽物にとびきり高い値段をつけた。ジャージでできた服も、絹のドレスと変わらない価格で売られた。なぜならそれはシャネルのデザインだからである。シャネルは価値の根拠を、自分の「名」においた。シャネルは、「ネーム」が「バリュー」になることを知っていた。

 ラグジュアリー・ブランドと比べると、シャネルには伝統もなければ、権威ある顧客もいない。自分自身意外に、価値の根拠となるものを何一つ持たない。

 貴族社会にブランドは存在しない。帝室御用達が絶大な威力を持つ。米国がブランドが好きなのは、貴族の伝統を持たないからだ。

 シャネルはクチュリエの地位を変えた。その存在がオーラを放つ名=「有名人(セレブ)」。商品と同じぐらい、作り手の名が売れた。カルティエにしてもヴィトンやエルメスにしても、ブランドは認知されても、作り手が時代の寵児となったなったことはない。

 芸術サロンの女王ミシア・セールをとおしてピカソはシャネルと親交を結んでいた。シャネルは芸術家のパトロンとなった。実業家シャネルは「新しい女」だった。若い女性が一人で外出するようになり、ストリートに姿を現した。

 シャネルは自分の名声を自分のブランドの基盤とした。ブランドとは「伝説」にほかならない。伝説は、19世紀までは伝統が負っていた。20世紀は「有名性」が果たす。シャネルほど自分の伝説に敏感だった人間はいない。少女時代を世間に隠し続けた。「私の伝説ときたら…、みんなでよってたかってこしらえあげてもの」。シャネルは様々な作り話を捏造した。ヴェールに包まれた彼女の「出自」は世間の噂になった。

 「ヴォーグとかの雑誌が私の宣伝をしてくれている」。「伝説とは名声が不滅のものになることだわ」。ファッションが虚業であることを、シャネルは認識していた。だからこそ彼女は伝説の流布に熱心だったのである。

 シャネルは自分の作るモードのベストドレッサーである。シャネルとその作品は、彼女自身から生まれ、彼女自身の手で作られたものだった。

 シャネルは自分の肖像写真を不滅のアイコンにした。シャネルが動きやすいように邪魔な髪を切ってショートにすると、ショートカットが流行った。「ショートカットが流行ったのじゃないわ。私が流行ったのよ」。「モードは私自身」だった。

■ スタイルはライフスタイル

 20世紀とともにスポーツが流行りだす。テニスと自転車が女性もまきこんで流行った。スタイル以前に女たちのライフスタイルが変容しなければならなかった。自由に恋をするようになり、恋愛結婚が増えた。電話交換手からタイピストまで、女性の職場進出が目立つようになっていた。少年のような女の子。ギャルソンヌはショートカットだった。

 シャネルは時代の波頭を切っていた。「時代の表現」そのものだった。「自分のために」作り出したファッションが、そのまま「時代のモード」になっていく。シャネルは「当事者」そのものだった。「私は現代の生活をした。自分が服を着せる人たちと必要を共有していた」。

 ミシアは、シャネルが生涯にわたって交友を結んだ唯一の女友達である。芸術サロンの女王であり、あまたの芸術家たちのミューズであった。ミシアは多くの画家たちのモデルとなって雑誌の表紙を飾った。詩人マラルメもミシアを崇めた一人。ミシアだけは、シャネルの成功を予見していた。

 ピカソ、ストラヴィンスキー、ディアギレフ…、ミシアは大芸術家に囲まれて生きていたが、自分には何の教養もなかった。本を開いたこともない。ミシアは無分別そのものだった。大いなる無邪気さこそがミシアの魅力だった。後にミシアは、シャネルの作品をまとって人前に現れ、モデルのような役割をはたしていく。

 虎児の少女は自活のために働かざるを得なかった。メンズ・ファッションからアイディアを頂戴した。男たちの仕事着こそ、シャネルの創造の源泉にあったものだった。

 シャネル・モードの代名詞になっている、チェーンベルトのショルダーバック。兵士の使う雑嚢を、自分自身のために使ったものだった。紳士物は機能的だった。

 シャネルスーツは、騎兵の着ていた制服がヒントを与えた。マスの服を愛したシャネルは制服愛した。

 恋人の着用しているものは最も身近なメンズ・ファッションだった。歴代の恋人の装いから新しいファッションの想を得た。ウェストミンスター公爵が着ていたツィードを使用したスーツを発表して以来、この生地はシャネル・モードに不可欠なものとなる。自分で自分の人生を選ぶギャルソンヌには、メンズ・ファッションが似合う。

■ 働く女

 「私は小さいときからお金が無ければダメ、お金があれば何でもできることがわかっていた」「お金、それこそ自由への鍵」。「自由を買い取り、自由を手にしたいと思っていた」。

 ココの人生に訪れた最初の幸運、それはアーサー・カペルとの出会いであろう。「女を玩具にしない男に出合ったのだから」。カペルは、帽子の店を出す資金を出した。シャネルは「働く女」であり続けた。

 「君がどんな暮らしをしているか、人に言うつもりはないよ。朝七時に起きて、九時には必ず寝るなんて言ったって、いったい誰が信じるだろう」ジャン・コクトー。規則正しく、飾りのない生活、それがシャネルのライフスタイルだった。

 ビジネスには情報が不可欠。シャネルは、貴族を雇って社交界の動向を収集した。

 シャネルは上流階級の人間と同等でいる地位を得、それを守るのに必死だった。

 シャネルのファッションは、メイドの手を借りずに「自分で着る」服である。オートクチュールは、人の手を借りて「着付け」をしなければならない女たちを相手にしていた。

 靴やバッグやリップスティック。メンズから盗用できないものは、無から創りだした。

 「無理解、人の言うことを聴きたがらない性癖、偏見、頑固さ、それこそ私の成功の理由だったのよ」。「自分お仕事のことだけ考えて、仕事が終わると、トランプとか下らないことしか考えない」。シャネルは孤独だった。

 シャネルの生涯は男の匂いに満ちている。ココは恋多き女だった。取り巻きの芸術家たちともいくつもの恋を交わしている。ストラヴィンスキー、ルヴェルディもココに愛を捧げた。メセナとして経済的に庇護した。これもミシアから学んだことだった。

 シャネルは王侯貴族を愛した、ウェストミンスター公爵やドミトリー公爵。世界のセレブだったココは、イギリス一の富豪の公爵を相手にして、均衡のとれる関係を手にした。シャネルは公爵との結婚を考えた。「ウェストミンスター公爵夫人なら三人いるけれど、ココ・シャネルは一人しかいない」。仕事を選んだ。

 「ナンバー5」はドミトリイ公爵を恋人にした1920年に誕生した。自然の香りがベースだったものを、複雑な香りにし、香りを安定させるアセトアルデヒドを使った。シンプルな容器と、ネーミングも新しかった。ロマンティックな名前をつけるオートクチュールの風潮を批判した。「私は自分の服にはナンバーしかつけないことにした」。

 第二次大戦が勃発し、シャネルはメゾンを閉めた。56歳になっていた。美貌のドイツ将校ハンス・フォン・ディンクラージは、メゾンの上階は二人の蜜月の場となった。大戦が終結するとシャネルは対独協力の嫌疑がかかる。チャーチルの計らいで釈放され、スイスに亡命した。

 スイスで、シャネルはパリ復帰を考えていた。1953年、パリに復帰した時、シャネルは70歳になっていた。メゾン再開まで14年かかった。戦後を迎え、ディオールの女らしいモードが花開いた。戦後をエンジョイする人々に、フェミニンなモードがアピールした。昔と変わらぬシャネル・ファッションは、流行遅れだった。だが、米国でのシャネルの人気は不動だった。シャネルの名は不滅の伝説となった。カムバックから17年間、87歳で息絶えるまでシャネルは働き続けた。

 メゾンの向かいのホテル・リッツの部屋を住まいにした。修道院のように簡素で白い壁に囲まれていた。バスルームのほかには、ベッドがあるだけ。「働く女」が寝るための部屋だった。「女の部屋」ではなかった。

■ 解説

 「祈りと労働」を説き、禁欲の中に倫理と美意識の根源を見出していたシトー修道会。上流階級出身の超インテリ集団だった。

 シャネルは、男の財力で着飾る娼婦や貴婦人の装飾的な贅沢趣味を「殺戮」し、20世紀の価値観を生み出す「革命」を成し遂げた。