「イスラームの心」 黒田壽郎 1980年 中公新書

 古い本ですが、正統派のムスリムの信仰のあり方を理解するには適した本です。イランのイスラーム革命を、ホメイニの革命と認識していないところが“流石!”です。本物のムスリムの声に耳を傾ける。彼らの文化の根底を理解するには、必要最低限のことです。偏っています。気持ち良いぐらいに。だからこそ、理解ができる。久々に信仰の本を読みました。ありがとうございました。 以下はこの本の要約と引用です。


《まえがき》

 世界の人口の五分の一ほどを占めるイスラーム圏。イスラームのイスラームたるゆえんの一つが、聖職者の拒否。イスラーム世界では、諸分派は基本線に沿って協調し合っている。

 イスラームは宗教の域を超え、社会規範であり、道徳であり、思考様式、発想であると言っても過言ではない。

《序 日本人とイスラーム》

 クルアーンの原典を翻訳ででも読めば、極めて異質な文体で書かれたこの本を、注釈書なしで理解することは不可能である。

 預言者の没後間もなく、ビザンチン帝国とペルシャ帝国を撃破し、サラセン帝国が成立する。ムハンマドは、部族対立を解消させイスラム教の下にまとめ上げた。

 アリー・シャリーアティー師の殉教することの意義を教えた思想は、イラン民主を蜂起させた。

 脱宗教化によって近代化を達成した西欧の見方からすれば、イスラーム圏の停滞は宗教に求めるのは当然だろう。中東は西欧化を拒み続けた。中東は西洋との文化交渉の歴史が長かったにも拘わらずである。

 キリスト教は現世の問題を信仰の対象としない。政教分離の態度をとっている。イスラームの場合は政教一致を原則としている。イスラームは、世俗を肯定し、これに対して責任を持つ。信者たちの社会責任を定めたシャリーア(宗教法)が定められている。イスラームは修道院制度を否定する在家宗教。宗教儀礼から法律、道徳規範に至るまで明確に規定している。精神の宗教に慣れ親しんだ日本人には理解しにくい。

《1. イスラームの原理性》

 中近東を舞台に、預言者の伝統があった。アブラハムとモーゼ、イエス、ムハンマド。ユダヤ教では、教えが自分たちだけに適用されると信じた。イエスは、この独善を打破し、神の福音が人類全体に及ぶことを主張した。イエスはアガペー、普遍の愛を強調した。イスラム教も旧約聖書を正典として受け入れている。イスラームは、同じ神を信じるユダヤ教とキリスト教を姉妹宗教として認めている。

 神と子と精霊の合一という三位一体が示すように、弟子たちはイエスを神格化した。そして、キリスト教では聖職者に特権を与える。イスラム教では、信仰に介在者を置くことを許さない。預言者ムハンマドも「私はあなた方と同じただの人間である」と述べる。

 イスラーム以前のアラビア半島は、乾燥化に伴い、メソポタミア・パレスチナ・シリアに赴くか、砂漠の周辺で遊牧をしていた。オアシスで農業を営むのは少数だった。食料不足だった彼らは、他部族を襲撃し、食料を奪い、女と子供を奴隷とした。弱肉強食の論理が横行していた。身を守るために、人々は部族を拠りどころとした。

 ビザンチン帝国とササン朝ペルシャの間の争いのために、貿易ルートが変更され、メッカが脚光を浴びるようになった。ムハンマドの属するクライッシュ族は、遊牧から商業へと生業を変えた。

 マディーナに逃れたムハンマドは、この地でイスラーム共同体の政教両面の長となる。近隣諸部族に対する遠征を行う。カアバ神殿に赴き、300体以上の偶像を破壊する。

 クルアーンとハディース(ムハンマドの伝承)。ムハンマドは人間の平等を説く。「今ここに異教徒時代の一切の貸借関係、そのたの義務は全て清算された。一切の階級特権も消滅した」。異教徒といえども、人頭税を払えば自由を保障された。クルアーンは、奴隷の開放を最上の善行にあげ、イスラーム法は奴隷の身分が解消する手段を講じている。

 セム族にとって、一夫多妻は慣習だった。ユダヤ教は妻の数を制限していない。イスラームは婚外の性交渉を禁じている。

 イスラームにおける自由の概念。異教徒に対してイスラームを強制しない。神と人との交わり、その絆に関して、いかなる差別もない。全ての信者は等しく、介在者もいない。信仰に関する自由意志の尊重は確立されている。

 信仰の柱となる五行。1)日に五度の礼拝と、導師(イマーム)を立てた金曜日の集団礼拝。礼拝堂は地域社会の連帯の場である。2)断食。ラマダーン月の一ヶ月、太陽が空にある間行われる。年に一度、在家のまま修行に参加するよう義務付けている。3)巡礼(ハッジ)。一生に一度、アッラーの家居とされるメッカのカアバ神殿に参詣する。4)喜捨(ザカート)。信者たちは、収入に比例して所得の一定額(救貧税)を拠出する義務を課されている。

 11世紀の十字軍はイェルサレムを占拠し、住民4万人を、老若男女を問わず皆殺しにした。当時のヨーロッパの心ある人々から非難を浴びた。15世紀のレコンキスタ運動の成功により、スペインの地を奪還した際の異教徒に対する処遇は苛酷を極めた。異教に対して、キリスト教は極めて過激な態度を示してきた。

 イスラームは、可知のものを知る努力を美徳とする。科学探求を促してきた。サラセン帝国興隆期における科学技術の発展は、その証拠である。

《2. 理念と現実》

 イスラームは、民主的な連帯の確立を可能にした。政教一致の宗教は、世俗の権力を必要とした。クルアーンは、全ての信者が一つのウンマ(共同体)を作るよう命じている。

 イスラーム共同体を律するシャーリアの主権者は、唯一なるアッラーのみに限られる。立法者はアッラーである。世俗法を基本とする西洋の法体系とは異質なものである。

 イスラーム法は、全ての行為を5つの範疇に分ける。1)義務、2)望ましい行為、3)任意な行為、4)望ましくない行為、5)禁止。実定法の存在意義は、義務の不履行と禁止項目の違反に対して強制力を持つ。それ以外は、各人の判断に任せられる。道徳の領域に属する事柄とされる。イスラーム法は、いかなる人間にも立法権を分与していない。

 後の人は、クルアーンやハディースなどの法源に対して固有の解釈を下し、人々の合意を得て法制化する権利を持っている。イスラーム法は、法と道徳を、渾然一体として内包している。自らの矮小な限界を超えよ、という基本的な要請は、科学・学芸、生活と道徳の次元でも発揮された。


 イスラーム共同体は、エチオピアの奴隷ビラーム、ペルシャ人のサルマーン、出自や階級の異なる信徒たちが、対等の立場で参加している。

 後継者(ハリーファ、カリフ)については、明確な規定があるわけではない。

 第七代のカリフ=マアムーンは、バクダッドに叡智の館を創設し、ギリシャ語古典の翻訳を行わせた。

 アッバース朝は、親衛隊としてトルコ人を登用する。カリフは、アラブ人やペルシャ人の双方に疑いを持った。アッバ−ス朝の400年は、トルコ系将軍の傀儡にしか過ぎなかった。政権の長は、セルジューク朝以降、スルターンと呼ばれるようになった。

 ウラマーとは学識者である。ウラマーの第一の任務は、モスクの維持・管理。彼らは専門職ではない。彼らの多くが従事したのが、教育・研究の分野だった。イスラーム法解釈の権威であるムフティーから裁判官、公証人に至るまで、法曹界は全てウラマーで占められた。ウラマーはモスクを拠点に、官僚機構の隅々にまで影響力を及ぼしていた。

 13世紀のモンゴルによるバクダード攻略により、俗権の長であるスルターンを頂くばかりなった。

 近代西欧の脱宗教化と人間中心主義の確立は、合理主義と科学的世界観をもたらした。

《3. イスラーム再興の可能性》

 イラン革命の基盤となる思想を指導したアリー・シャリーアティーは、1960年にフランスに留学し社会学の博士号を取得。イランに帰国すると投獄される。その影響力は大きく、それが故に王政下の弾圧に苦しむ。特に「自ら死ぬ前に死ね」という言葉は有名である。殉教を賛美し、イスラーム革命の推進力となった。

 アイヌ=ル=クザートに代表される神秘主義も開花した。

 遅かれ早かれ、イランで起こったことはサウディアラビアでも起こるであろう」は、ヤマニー石油相がイラン革命直後に言った言葉。イランに続けという熱気が、イスラーム世界に横溢した。