「疫病と世界史」 ウィリアム・H・マクニール 2007年 中公文庫
原著は1975年。時間ができたので、こういう古典を読むことができます。その意味では、嬉しい限りですネ。疾病の克服が、人間の衛生の歴史。などと言う非常識な考えを打ち砕いた名著です。味わい深く読ませて貰いました。
南北問題の背景にあるのは病原体の生態。南が貧しいのは、感染爆発によって、農耕が可能な人口の規模と密度に達しないから。多様な生態系が、人間の自然破壊=生態系の単純化を阻んでいるからです。
以下はこの本の要約と引用です。
■ 序
宿主と寄生体の間の均衡は、生態系の普遍の姿である。
HIV-1に関連するウィルスがアフリカのサルに存在する。HIV-2は、おだやかに人に寄生する。エイズは昔からある人の感染症で、地球上に広く分布する。起こる頻度が低く気づかなかっただけ。人々の行動の変化が疫病としてのエイズの発生をもたらした。
HIVのいくつもの系統が、様々な地域で人の集団に存在し、新種HIV-1へと変容した。アフリカのどこかに常生地があって、そこから広まったという説は疑わしい。
男性同性愛者間の乱交の増加。ヘロインの静脈注射に用いられる安価なプラスチック製の注射器の普及。HIVウィルスが広く感染しなかったのは、新しい宿主の血液にじかに入っていくことが不可欠なのに、その機会が限られていたためである。
アフリカでは、都市スラムへの大量移動に伴う性行動の変化が、この病気の背景にある。
生命を脅かす寄生体は、やがて致死率の高くないものが優勢になり、小児病に変わっていく。
我々は生命の網の目にとらわれた存在である。我々は、地球の生態系の一部であり、食物連鎖に参加し、我々の体は多種多様な寄生体に住処を与えている。
■ 序論
スペイン人のメキシコ征服。エルナンド・コルテスは、600人に足りぬ部下を率いて、数百万のアステカ帝国を征服した。アステカ人がコルテスを首都から追い払って4ヶ月後、天然痘が突発した。全住民の1/4以上が死んだ。スペイン人は免疫を持っていた。スペイン人が信心する神の優越性の証拠である。インディオがキリスト教を受け入れ、スペインの支配に服したのも不思議はない。
感染症の免疫を獲得していない原住民は、文明人の侵略を許した。
軍隊内での悪疫の突発が勝敗を決した例は多い。
病気の伝播のありようが、人間世界の出来事に影響し続けてきた。
病原体を含めて、あらゆる動物が食物を他の生物に依存している。宿主たる人間との間に安定した関係を確立している寄生体も多い。
食物生産が始まり、征服者が食物を生産者から奪い去り、労働に従事する者の寄生体となった。肥沃な地方では、人間同士の寄生関係が確立した。
感染症の病原体も、環境への適応と自己調整を重ねている。
人類と寄生体との交渉が長く続き、双方とも個体数が充分に多い場合には、双方の生存を同時に可能とする相互適応の構造が生じる。
熱帯熱マラリア原虫は、他の形のマラリア感染のように宿主たる人間にうまく適応できていない。複数の宿主があり、一方の宿主がより重要だった場合、もう一方の宿主に猛威を振い続ける。
結核と風邪(インフルエンザなど)を除き、一度感染すれば長期の免疫が得られる。従って、こうした病気に罹るのは主として小児に限られる。同じ感染症が、免疫のない原住民に広がると大きな被害をもたらす。
■ 狩猟者としての人類
人体が毛に覆われていないという特徴は、温暖な気候での育ちを示している。両眼の視野の重複による距離感、物を掴むことができる手、猿との外見上の近縁。歯の形状は雑食性を示す。
地球上の様々な自然環境の中で、熱帯雨林が最も多様性に富んでいる。単細胞の寄生生物も宿主の体外で長期間生命を保つことが可能である。森林に住んでいる宿主となるべき生物体の数が少なく、その生物と寄生生物との遭遇の機会が少なくとも、寄生生物はその乏しい機会を待ち続けることができる。熱帯性の寄生症は、回復も遅いが、重症に達するのも遅い。
アフリカのサバンナに棲む有蹄類の群れが今日まで生存し得た主な理由は、睡眠病が人類に対して暴威を振るい続けたからなのである。ツェツェ蠅がはびこっている地域では、人類出現以前の生態バランスが維持されている。
人間は人口の調節機構を失ってしまった。集団殺戮と幼児遺棄。狩猟採集民は、集団の規模を食物の供給量に応じた範囲に留める手段を持っている。
アフリカの寄生体の多くは、免疫反応を生じさせない。人の数が増えると、寄生体が宿主を移動する機会も増大する。これは直ちに人口の減少を招く。
生態系の動態の要因間の相互関係は複雑である。病気、食物、人口、習慣、人以外の生物。これらの間の関係はよく解っていない。
温帯地方の農業生産をアフリカに導入しようとする試みに対する生物界の抵抗力の強さは明らかである。人は最強の肉食獣だったが、熱帯アフリカでは小さな存在でしかない。
衣服と言う発明によって、狩猟者の群れは北方の森林や草原の野獣を狩ることができた。
一種類の大型動物が地球全体に展開することは無かった。衣類と家屋の発明は、様々な環境に対する生物としての適応の必要度を軽減した。
我々の祖先が熱帯をあとにした時、寄生生物や病原体から逃れることができた。温帯地方の生態系は、人間の手によって破壊しやすかった。
人類による自然環境の収奪が資源の枯渇に陥ると、人類は創意工夫によって別の資源を試みて新しい生活手段を考え出した。
アメリカ大陸の狩猟者たちは、僅かな年月で得物を獲り尽くし、南へと下っていき、遂に大型動物の殆どの種が絶滅してしまった。
寒冷または低湿な地方に移動する人類は、未知の寄生体に遭遇する恐れはあまりない。
ごく最近まで、大都市は不衛生極まりない場所だった。
気候の激変期に、船と漁労を進歩させ、食べられる草の実の採集、やがて農耕を発展させた。食糧生産は人口の爆発を許し、都市と文明の誕生を促す。
■ 歴史時代へ
大型狩猟獣の夥しい種の絶滅は、5万年前にアフリカで始まり、2万年前にはアジアとヨーロッパに広がり、1万1千年前、アメリカに特に際立った形で現れた。
亜熱帯地方では、貿易風の風向きが北寄りに変わったために、砂漠化していった。
飼育・栽培された動植物は淘汰が施され、大幅な変化が生じた。
人間の略奪者からの安全の確保が、政治組織を生み出した。
素手で雑草を引き抜くという作業こそ、農耕の始まりだった。人工に湛水させる。犂で耕す。2つの方法によって雑草を一掃した。湛水灌漑によって溺れさせてしまうことが可能になった。代表的なのは稲だ。古代の西アジアで確立しヨーロッパに伝わったのは犂などを使って土壌を撹拌する方法だった。
家畜の力を借りて犂を引かせることで、古代西アジアの農夫は2倍の面積を耕すことができた。
農耕による生態系の破壊は、寄生生物にとっての食物の密集を意味した。少数の種による過剰汚染は、生物界の正常な反応である。その結果、作物と家畜と人間に対する病気の暴威は深刻な影響を与え続けた。
長期間に定住することは、寄生生物に侵される危険を伴う。居住地の近くに集積された糞便に接触する機会が増え、寄生生物が宿主間を移動することが容易になった。同じ水源から水を得ている場合、その害を受ける可能性が高かった。
農耕が水利灌漑に依存した地域、メソポタミア、エジプト、インダス、ペルシャでは、複雑な社会統制を必要とした。何より、用水を割り当てる仕事は統率力の存在を必要とした。
人々が一斉に行う儀式は、感染症の伝播に好機を提供する。
鎌状赤血球はマラリア原虫への抵抗はあるが、両方の親から鎌状赤血球を受け継いだ個体は幼くして死亡する。
アフリカの熱帯雨林では、食物連鎖を短縮しようとする人類の試みは今も成功していない。
腺ペストは齧歯類、黄熱病は猿、狂犬病は蝙蝠に穏やかな形で寄生している。人に移行した場合に、特に高い致死率を示す。
結核がカナダ・インディアンの部族に到達したとき、脳脊髄膜炎の症状を呈し、進行も急速だった。白人が侵されない部位が侵されたのだ。以降三代目の世代になると、宿主と寄生体は相互の適応作用によって、結核菌の感染は主として肺に集中するようになった。宿主と寄生体の間の適応の過程は急速で変化が大きい。
50万に近い総人口が、今日の小児病に似た病気の感染の連鎖を保っていくことが可能な人口である。
人から人へうつる文明特有な感染症は、紀元前3000年より以前には定着しなかった。紀元0年の前後、文明社会の相互の間の交渉が恒常に組織されると、一つの文明から他の文明へと感染症が広がっていった。
都市生活は危険が大きかった。古代の都市は、不潔な飲用水を通じての感染、昆虫が媒介する感染に苦しんでいた。また、遠方からの食糧輸送の途絶は、飢餓の到来を意味した。
社会秩序の崩壊、内乱と外敵の侵略、飢餓と疫病による死亡率の急上昇。
近代に至るまでは、陸路による物資の輸送は高くついた。交易によって繁栄できたのは、海か河川沿いの地域だった。
文明社会は生物兵器を手に入れた。その威力は絶大だった。
インドの森の種族は、崩壊しなかった。対抗すべき反撃手段、熱帯特有の病気と寄生体が文明の浸蝕から保護してくれた。
インド文明は、インドの東部と南部を占めている様々な原子共同体を下層のカストと規定した。地方の分化と伝統は、破壊されることなく社会構造に編入された。
カストの枠を超えた身体接触の禁忌(タブー)、タブーを犯したときに体を清める規定。様々な社会集団の間で、相互に安全な距離を保とうとした。長い期間に抵抗力が均等化し、アーリアの侵略民は、タミル古代語の住民と共存できるようになった。
■ ユーラシア大陸における疾病常生地としての各文明圏の間の交流
エジプト、メソポタミア、インダス川流域の相互交渉は、寄生体を均一化した。バビロニアのギルガメッシュ叙事詩の疫病神の訪れ、エジプトの疫病神の恐怖、中国でも疫病は重大な関心事だった。旧約聖書の執筆者たちは、悪疫の突発を神の御業として描いた。
中国の華北と華中の気候の差は大きい。南の気温湿度は多様な寄生体の蔓延を許した。華北の疾病状況に馴れた人々は、南方を支配するのは困難だった。完全に中国社会に一体化するのは、病気という障害のために漢王朝滅亡後に持ち越された。
ガンジス河流域では、モンスーンがもたらす降雨のために、農耕上の目的で川から水を引く必要は殆ど無い。但し、多毛作を成功させるには灌漑が不可欠である。
ガンジス河流域の政治機構と思想体系は不安定だった。酷暑多湿の気候風土に伴うミクロ寄生が要因の一つ。初期の文明は、乾燥した地域に発達した。インダス川流域は雨が少なく、農耕は灌漑に頼っていた。インドの諸王国は虚弱で短命だった。一方、インドの種々の病気は、何よりも確実な防衛装置だった。アーリア民族の侵入も軍事の成功と病気の損傷の均衡を軸として展開した。
仏教とヒンズー教は非政治である。仏陀が説いた執着心の放棄は、連帯感を弱め、政治の影響力を低下させた。
エーゲ海地方の生活は、地域間での生産品の交換によって支えられた。船舶による物資の移動という安価な輸送手段が存在した。葡萄酒や油を生産して小麦と交換する場合、必要な葡萄畑やオリーブ畑に面積は、小麦畑よりはるかに少なくて済んだ。エーゲ海沿岸の住民が、葡萄酒と油の生産に傾いた。穀物や木材や奴隷、重要なものの供給を保証する蛮族社会が欠かせなかった。
小麦と大麦は近東地方の原産。栽培化される以前から地中海地方に自生していた。
ローマの地下水道は、マラリアを防ぐことができた。
我々は、人口増加の現代に生きている。歴史上、人口の拡大は例外である。生態系の均衡は人口増加を阻んだ。
ローマ帝国の興隆、紀元前200年ごろから、放棄された村落、無人の田野が現われる。天然痘と麻疹(はしか)は、アテナイ社会に打撃を与え、恢復することはなかった。
ローマ人がシルクロードと呼んだ道程の全域に安定した政治状況が生まれた。貿易は紀元100年ごろには最盛期を迎えた。貴婦人たちは、透けて見える絹の衣を身につけた。中国から輸入した絹織物を解きほぐして緩く編み直した。
家畜の群れを守らねばならない放牧という生業は、戦士気質を涵養した。騎馬の機動性は、戦力の集中を可能とする。草原の遊牧民の族長と、オアシスの支配者の混交は頻繁。安定した国家組織が出現した。
貿易商人と草原の支配者との関係は不安定だった。隊商貿易は2世紀以前に減少する。ギリシャの探検家がインド洋上を吹く季節風を発見した。貿易商人は紅海沿岸から出航し、インド亜大陸の沿岸に姿を現した。
恒常の遠路の往来は、感染症の交換も招来した。3世紀のローマ帝国の境界内では、継続して人口が減少していった。
キリスト教徒にとって、病人の介護は宗教上の義務だった。基本の看護行為でも致死率を大きく引き下げる。キリスト教会を強化した。疫病の災厄によって既存の諸制度の信用を失墜させた。キリスト教は、横死が支配する混乱の時代に適合した。「死の災厄のうちに我々は死んでいく。この世界から解放されていくのである。 … 正しき者は新たなる生へと召され、邪(よこしま)なものは責め苦に処される。信仰あるものには保護が与えられ、信仰無き者には罰が与えられる」キプリアヌス。
地中海世界の諸民族は、6-7世紀のペスト、14世紀の黒死病(ペスト)を経験する。
死を免れた者に免疫を残す感染症が、5年から10年間隔で訪れると小児病となる。幼児は補充がきく。年少者の感染症の人口動態上の影響は軽い。
中国の海に面した各州では、「山東省の人口の半ばが死んだ」762年から806年まで、腺ペストが流行を繰り返した。人口は急激に落ち込んだ。
仏教も現世の苦しみを納得いくように説明した。中国に根づいた形の仏教は、心の慰めを与えた。死を苦しみからの解放と説き、至福に満ちた世界への入口であると教えた。
日本列島は、大陸に蔓延る病気から隔離されていた。中国との交渉が始まる6世紀から13世紀の間の悪疫の流行。808年には「ほとんど人口の半ばが死んだ」腺ペストが突入した。
同じ事が英国にも言える。持続する人口増が始まったのは1430年以降。これ以降ダイナミックな成長を示す。
日英両国の勢力拡大は13世紀以降に著しい。
■ モンゴル帝国勃興の影響による疾病バランスの激変
極東と西欧では人口が増加した。陸路海路ともに、東西の交流が進んだ。この二つが不安定要因として依然として存在していた。
マルコ・ポーロの旅行記が生れたのは偶然である。戦争で捕虜になり獄中にあったとき、囚人仲間にマルコの話をっ書き留めておく価値があると判断した男がいた、ということに過ぎない。
草原地帯の遊牧民の部族では、ペスト感染の危険に対処する有効な掟を備えていた。罠は禁忌(タブー)。射殺せねばならぬ。動作の鈍いマーモットに近寄ってはならぬ。マーモット集団に病気の様子が見えたときには、テントを畳みその場所を引き払う。
よそから入ってきた連中が「迷信」を守ろとしなかったとき、ペストは猛威を振るった。
近代医学が、行動規則を考案した。隔離検疫体制を設け、強制した。
1347年以後、ペストは西欧と西アジアで慢性化した。
黒死病が破壊力を発揮するためには、腺ペストを人間に移すことができるクマネズミが分布している、船舶の航海路が地中海世界を西欧北部と結びつける、の条件が満たされねばならなかった。そして、北西欧州の多くの地域で、14世紀までに人口が飽和状態に達していた。
腺ペスト(黒死病)の平均致死率は70%以上だった。1347〜50年までの4年間の死亡者数は、全人口の1/3に達した。
西欧の人口がペスト感染から恢復するのに100年以上、5・6世代。アメリカ・インディが要した時間と一致する。人口の動きを決定する自然のリズムがある。
ハンセン氏病のフランベジアと梅毒のスピロヘータは同じ。違いは宿主を移行するその感染のし方、入口が違うために人体内で辿る道筋。梅毒がアメリカから欧州に渡ってきたと信じ続けているが、コロンブス説は否定されている。
欧州の数々の大伽藍が建設中だった13世紀を特徴づける陽気さと自信は去った。階級間の緊張の激化し、死は常に意識するものとなった。
異端の信仰、神秘主義が容認された。協会のペストに対処するできなかった。むしろ信仰心をぐらつかせた。
エジプトとシリアはペスト体験を共有した。エジプトの人口の1/3が死んだと推定される。
14世紀までの3千年以上もの間、草原の住民は機動力と軍事力を利して、南の耕作地域に一貫して下っていった。時には、言語と人種を変えてしまうこともあった。印欧諸語、トルコ系諸語の分布は、この過程の規模と持続性を証明する。そして、モンゴルの怒涛の進出があった。
1346年を境にこの移動パターンは消える。16世紀には草原地帯西部の人の流れは逆になった。農耕民が草原地帯に入り込む。彼らが進出した土地は、無人となった草原だった。奴隷を手に入れようとする人間狩りは住民の数を減らした。タタール族の騎兵たちは、ロシア人の村落を襲った。
■ 大洋を超えての疾病交換
欧州人のアメリカ侵略の頃、中部メキシコとインカ帝国の中央は人口が稠密だった。トウモロコシと芋類は、単位面積当たりのカロリー生産値が米を除く旧大陸の作物よりも高かった。
スペイン人が侵入する前から、メキシコの耕地の流出が深刻化し、ペルーの海岸地方の灌漑農地では、土壌の過塩化のために人口減が起きていた可能性がある。人口が、耕作可能な土地が許容する限界になっていた。
食糧危機に際して、ユーラシアの家畜はいわば食糧のの貯蔵庫であり、いつでも食べることができた。アメリカ大陸には、こうしたクッションは存在しなかった。アメリカのインディオは、病原体に対して抵抗力が欠けていた。
1568年に、メキシコ中央部の人口は1/10に、その後の50年間にも人口の損耗は進行した。
悪疫を神の怒りとする解釈は、スペイン人が代々受け継いだ観念だった。インディオは高致死性の疫病を体験しておらず、この考え方に同意した。侵略者のみが神の恩寵に浴していた。
天然痘が人口の1/3を殺した後、麻疹(はしか)が現われ、発疹チフスとジフテリアとおたふく風邪も出現した。ドイツ人宣教師は「インディオはあまりにも簡単に死んでしまうので、スペイン人の姿を見、その息を嗅いだだけで息絶えてしまう」と言った。コロンブス以前の人口と比べて1/20〜1/25に減少した。
アフリカ大陸に入り込んでくる人間に危険なのは、マラリアと黄熱病だった。
発疹チフスは1490年に欧州に初めて出現した。発疹チフスは貧困の病気。発疹チフスで死んだ貧民は、やがてほかの病気で殺されただろう。
17世紀末、ペストもマラリアも勢いを失った欧州は、人口の増加が可能となった。現在でも、感染症の発生パターンの変化は、人類の基本の里程標(りていひょう)である。
公衆衛生上の努力が強化された。大部分がペスト流行時に創始された。お手本は公衆衛生と保健行政が進んでいたイタリアの諸都市だった。
欧州の版図の拡張は、オーストラリアやアフリカにまで及んだ。病気も農作物も世界全体に一様に普及した。
アメリカから到来した、トウモロコシ、芋類、トマト、唐辛子、ピーナツ。高いカロリーの作物が広く栽培されるようになり、人口の上限が急上昇した。
唐辛子とトマトは、豊富なビタミンを含み、地中海世界とインドでは重要な食物となっている。食事の質は改善され、健康の水準も高まった。中国からやってきた柑橘類も、西洋人によって世界中に普及した。
病原体と大砲と食物が根付き、より少数の人間の手に権力が集中することになった。大砲は高価で、製造には大量の金属を要し、その操作には高度の技術を要した。城塞に穴を開ける大砲は、地方の権力者の軍事力を低下させた。大砲帝国が確立した。
殺傷力が強化され、暴力が狭い範囲に限定されりようになり、死ぬ人間の数は減った。新しい軍備を維持するための租税は重かった。
■ 紀元1700年以降の医学と医療組織がもたらした生態的影響
習俗や信仰と同じで医学も経験主義で、しかも極度に教条主義だった。有名な書物に記載された教義が権威あるものとして扱われた。経験によって得られた知識も、そうした理論に合わせて解釈された。
医療の基礎は心理だった。自信に満ちた態度と高い診療代は、それだけで少しは良くなったような気がするのだ。医者に任せて周りのものは患者への責任から解除される。医者の役割は聖職者とよく似ている。
新しい世界からもたらされた病気は、欧州の古い医学の知識に打撃を与え、革新の扉を開いた。
イギリスの産業革命と人口増加は互いに支え合っていた。都市人口の増大には、食糧の増産が不可欠だった。大英帝国の興隆が始まった。
最も重要な変化は、雑草を抑制する手段としての休耕の廃止だった。農業の生産力が1/3増加した。休講に代わって植えられたムラサキウマゴヤシは、畜牛用の飼料になった。食肉と牛乳の生産量が増えた。蛋白質の接種が増え、体内に抗体を作る能力を高めた。同時にマラリアを媒介する蚊が好む牛の増加によって、人間への感染の減少させた。
種痘は1721年にトルコからイギリスに伝えられた。人痘種痘は、アラビア、北アフリカ、ペルシャ、インドなどでよく知られていたものだった。
1740年代、種痘はイングランドで普及した。1763年、ジェフリー・アマースト卿は天然痘の病毒を染込ませた毛布をインディアン部族に配布する命令を発した。
一方、フランスでは感染症による死者は増え続け、農民も減少していた。
1805年、ナポレオンの命令で全軍が改良されたワクチン法による種痘を受けさせた。天然痘の予防法の普及はナポレオン戦争の副産物だった。
17世紀の天文学者や数学者の諸発見が、一般人の世界観の基礎となるためには、その前に疫病が人間の精神と肉体に対する支配を緩める必要があった。致死率の高い感染症による死を説明する神の摂理を信じる必要がなくなった。医学の進歩が、人間の知性と技術が人間生活を改善するという信仰を生み出した。
1850年までの都市の生活環境は不衛生極まるものだった。一方では、輸送集団の進歩によって、食糧の集配は適正化し、飢餓を防止できるようになった。食品の貯蔵技術も進んだ。1809年フランスで瓶詰が発明された。缶詰はナポレオンの軍隊が使用した。戦闘での死者の数は、発疹チフスの死者に比べれば遥かに少なかった。
20世紀のなると予防医学は欧州とその植民地に広がった。その結果、人口は過剰となった。人口の危機は、コレラの世界規模の大流行を招いた。
1880年代、顕微鏡により病気を起こす細菌が発見された。医学界は急速に変わった。
組織的な健康管理は軍隊から始まった。フランスの軍医団の効果は、ナポレオン戦争に遺憾なく発揮された。一般民衆に対する医学的規制もそれに続いた。
1904年、予防接種と衛生管理の成果が日本人によって示された。日露戦争での勝利の結果、世界の軍隊では日本軍の真似が常道となった。
古代のローマ人は、下水道を作った。給水管と下水管の新しいシステムを敷設するためには、個人の所有地に立ち入る必要があった。個人の権利を侵害し、膨大な経費を要する配管に反対するイギリス人を説得したのは、コレラの恐怖だった。上下水道の完備されて以降、コレラは欧州に再び現れることはなくなった。
ラテンアメリカやアフリカでは、都市の外側を貧民窟が取り囲んでいる。結納金などの田舎の婚姻の規制は無く、人口は増え続ける。
ロックフェラー財団は、1915年黄熱病の制圧を推進する計画を立て、1937年にワクチンを開発する。1948年に世界保健機構(WHO)がその事業を受け継いだ。
人類にとって感染症の持つ意味を想像することが難しくなった。清潔は新しい病気を出現させた。それまで幼児期に軽く罹って目立った症状も起こさなかった小児麻痺がひどい麻痺を起こした。
突然変異するウィルス、正体不明の寄生生物の出現は続いている。
高致死性の病原体を開発が行われ、兵器として用いられている。
人口増は食料危機を生じさせている。人口増から来る歪は、社会・政治の様々な面に現れている。
人類は地球が経験したことがない生態系の大変動のさなかにある。産児制限により、人口と資源の均衡が達成できるかもしれない。
人類の歴史は、病原体含むミクロ寄生と、政治・軍事によるマクロ寄生によって動かされる。知識が進歩しても、寄生体の侵入に対して、人類は極めて虚弱である。感染症は、これまでもこれからも、人類の歴史の決定要因であり続ける。
■ 訳者付記
過去もそして未来も、ミクロ寄生としての感染症と、マクロ寄生としての人間による軍事や経済の収奪が、相まって歴史を動かす。