新橋で古い友人と「コロナ禍後を生きる」について、「ヴァーチャル」な生活様式を中心に、ディスカッションしました。
・ヴァーチャルとは「現実感」
− リアルを超える「現実感」が無ければヴァーチャルではない
− ヴァーチャルには無い「肌触り」が無ければリアルではない
・欲しい事-その快感を見つける
− 大衆の本当の「やりたい」「覗きたい」事と、その「歓び」を探す
− 本物の快楽は「暇潰し」ではない 〜 「暇潰し」は中毒になる(安定収入になる)
− その欲望を実装するやり方を考える 〜 デジタル技術により方法は増えた
・究極の対話は「余白」
− 理想の反応は、その人の中にある 〜 他者の中には無い
− その人の中にある「妄想」を推測し、どういう快感かを感取する
− その人の妄想の「入れ物」=「余白」に自身の快感を自ら盛らせる仕組みを作る
− 異なる主体との双方向交信では、ある種の快感は得られない
大衆の生活の基本は、「暇潰し」です。ホンモノの快楽を生きるのは、ほんのひと握りの賢者だけです。その暇潰しを、いかに健全なものにしてあげるか、それがマーケッターの腕の見せ処です。
それはともかく、根本を考えてみましょう。動物は必ず死にます。そして、太古の昔から人類はウィルスと生きてきました。一方で、ウィルスは生物ではなく物質なので、滅ぼすことはできません(ワクチンは作れますが、治療薬を作ることは困難です)。ウィルスに対応するということは、「感染して免疫を作る」ことに尽きます。そして、それ以外にはありません。免疫を作る安全な方法の一つがワクチンなのです。
ですから論理で言えば、少なくとも感染症への対策というだけの観点では都市封鎖は空前絶後の絶対無限の間違いです。免疫対応を遅らせるだけの愚策中の愚策です。では何故に都市封鎖などをしたのでしょうか。それは、1)医療崩壊によるウィルス以外の疾病による「本来は生きられる人々の死」など、保健環境の壊滅を回避する。2)ウィルスによる急激な死亡数の増大による影響を緩和する、という観点から必要だったのです。
社会/経済への影響を極小化しながら、ウィルスへの感染=免疫を飽和させる科学=感染のド素人が考える「感染症」対策ではなく、健康/社会/経済の総合科学としての「感染対策」が必要だったのです。ですが、日本には「感染」の専門家は一人も居なかった。ぺストの流行やマーズ/サーズの流行で学んだ欧米と違い、近代日本は幸いに?列島全土が感染で苦しむことは無かったのです。結果として、感染症の専門家と、疫学の学者(統計屋)と、行政と経済の学者というド素人が集められ、その集団が政策を提言する。かつ、ド素人揃いの日本国には対案を提言する集団が現れないという、最悪の事態を招いてしまったのです。これは、政治の責任ではなく、歴史の偶然です。し方ありません。
日本国民には、人間の死と、ウィルスに対する妥当な知見が完璧に欠如しています。宗教の無い国、高校生で数学と理科を捨ててしまうなど、科学を理解する人口が極端に少ない国ですからし方ない?そういう国民が、政府のウィルス対策を批判するなど「お門違い」もいいところです。などという「本当のこと」を言うとヒトに嫌われるのでこのへんにしておきましょう。
さて、議論を個人の「生」に絞りましょう。生禿は68歳です。やりたいことやるべきことはやってきて、それなりの実績を積み重ね、社会に貢献してきたという自負があります。女房を愛し続けて、共に生き、一緒に逝き、離れない死を求めています。
生禿は癌で死ぬと想定していました(認知症で死にたくありません)。でも、このままシベリアの永久凍土が溶け続ければ、ホモ・サピエンスが免疫を持たないウィルスがどんどん出てきます。その出現間隔は短くなり続けています。COVID-19より感染力が強く、かつ毒性が高いウィルスが登場するのは時間の問題。少なくとも十年以内には出てくるでしょう(ウィルス学者でこれを否定する人は一人も居ません)。だから、今後は「ウィルスで死ぬ」を前提に考えることにします。
女房と話し合って決めたことがあります。生禿と女房は結婚してからず〜と、一日に二十回以上は深く熱い口づけを交わしています。お互いに家に帰ったら、玄関でキス。うがい手洗いの前に、まずキスです。ウィルス時代にこれは何を意味するのか? そうです、「一緒に死ぬ」という覚悟を共有し、確認し実践するということなんです。
なんと幸せなことでしょう。愛する女房と共に生き共に死ぬ。その毎日の逝きを愉しみ慈しむ。ウィルス万歳!
若い方も、これからの「愛」は「死」を共にする覚悟だということを自覚して下さい。フランスではセックスの絶頂を「小さな死」と言いますが、愛とは「性と死を共にする」を悦ぶことなのです。
もう一度言います。人間は必ず死にます。ウィルス時代は、その「性と死」を誰と共に生きるかを鮮明に選び取る時代なのです。なんと素晴らしい時代なのでしょう。そう考えて、一日一日を味わい尽くして生きてみてはいかがでしょうか。