「マクニール 世界史講義」 ウィリアム・H・マクニール 2016年 ちくま学術文庫
有名なマクニールの世界史。やっと読みました。面白い!!!でも訳が良くなくて少し読みづらかった。歴史家の言葉遣いって難しそうですが、そこはそこ。もう少し頑張って「意味がちゃんと通じる」ようにして欲しかったな〜。でもそのお陰で、色々と調べながら読んだから勉強にはなりました。ありがとうございました。 以下はこの本の要約と引用です。なお、訳語は適切と思われるものに変えている場合があります。
《序文》
人類の歴史において何が重要なのかについて新しい考え方を伝えようとした。人類の過程をヨーロッパ中心ではなく、世界という視点から捉える試みは現在も進行中だ。「世界システム」は、生産物・伝染病・農作物・技術が循環する。人間を取り巻く生態の変化と人口の増減が、人間の営みに影響を与える。そして、人間の営みは、科学の、生物学の、記号論の均衡システムの中に埋め込まれている。
私たちは、言葉や抽象を用いて周囲の全てのものを理解しているため、物事がどのような状態であるかについて多くを知っていると思い込んでいる。こういった観点から見れば、歴史学は実に尊大な学問になっている。
《グレートフロンティア》 1982年ベイラー大学講演
一つの社会の拡張は、多くの場合、別の社会の破壊を伴います。
遊牧民が馬の背に乗ったまま弓を引き始めた紀元前800年ごろから14世紀まで、軍事力で優位に立っていたのは砂漠やステップ地帯の住人でした。ユーラシアやアフリカの文明社会の政治史は、草原からの征服を繰り返したこと、征服後は農民が再三抵抗したことを示しています。遊牧民による征服と農耕民の反乱が問題にならなかったのは、旧世界の両端に位置する日本と西欧だけでした。
伝染病は、新しい土地で人間が居住地を広げ、密集して暮らせるかどうかを左右しました。西洋人は多くの伝染病の免疫を持っていたため、天然痘・麻疹(はしか)・インフルエンザ・結核・ジフテリアなどの死に至る病にかからずにすみました。免疫の無い先住民は、感染により壊滅的な被害をこうむりました。多くの場所で人口が減少し、西洋人は誰も居なくなった土地を奪うことができました。そして、ときには軍事力によって「フロンティア」への侵略が強化されました。この過程は、米国とソ連を誕生させました。
熱帯アフリカ地域は、1850年頃まで地域特有の伝染病によって守られていました。サハラ以南の熱帯雨林やサバンナに暮らすアフリカ人は、先祖伝来の土地を守り続けることができました。例外は、南アフリカ。涼しく乾燥しているために熱帯伝染病が広がらなかったのです。
奴隷となったアフリカ人は、伝染病に屈しない労働力を提供し始めました。1820年までに新世界に運ばれたアフリカ人は780万人。大西洋を渡った西洋移民の4倍以上です。
17世紀のロシアの農奴制は、奴隷と違いはありませんでした。
1608年から1917年の間、米国やオーストラリアは国防費をほとんど必要としませんでした。
1750年以前には、フロンティアには自由や平等はありませんでした。奴隷制度が一般的で、費用のかかる武装階級を維持する必要がありました。
18世紀後半の人口増加。特に欧州北西部では温暖化によって収穫量が増えました。アメリカ原産の作物、トウモロコシ・ジャガイモ・サツマイモ・ピーナッツ・トマトは、食料生産を増やすのに貢献しました。欧州北部では、ジャガイモを休閑地で栽培したおかげで食糧生産量が急激に伸びたのです。1エーカー当たりのカロリーも高かったため、食料供給が改善されました。但し、新しい作物を栽培するには雑草に対処する必要があり、労働力が余分に必要でした。小麦はその雑草の心配は要りません。米は草取りが必要です。
伝染病による死者数が減少すると、フロンティアの人口は増加しました。そして耕すための土地はありました。
19世紀後半に下水などの公衆衛生システムが整備されるまで、都市人口は郊外からの労働力の流入がなければ維持できませんでした。18世紀末に西洋の都市への人口流入が加速されると、新参者には生活の保証はありませんっでした。暴動が起きました。フランスでは革命が起き、外国との戦争が発生し、国民皆兵のきっかけとなりました。
英国では産業革命によって人口増加がもたらされました。英国は国境を越えて広がり始めました。最初は蒸気船、次は鉄道です。そして伝染病も広がったのです。
入植地では、信徒の共同体は、その団結力で大きな成果をあげることができました。
1833年、大英帝国全体で奴隷制が廃止されました。しかし、借金を返すための強制労働(奴隷労働)は残りました。奴隷制度の撤廃は「苦力」の雇用を増加させました。インド人はアフリカ奴隷の代替になりました。
豊かになり始めた新参者は、親族を呼び寄せました。欧州の多くの村が母国と同じような共同体を発展させ、その人口が元の村を上回ることがありました。
米国で都市と地方の生活様式の違いが狭まったのは、第一次世界大戦以降のことです。農業をビジネスとして始めたため、地方の生活様式は商業を中心とする都市に近づきました。
欧州では家族形態と性習慣の変化によって出生率が低下。50年代には大勢のイスラム教徒が欧州へ流れ込みました。イギリスではパキスタン人、フランスではアルジェリア人、西ドイツではトルコ人、ソ連では中央アジアとコーカサスのイスラム教徒が、西洋人が嫌がる仕事を引き受けました。
《人間の条件》 1979年 クラーク大学講演
人類の歴史は、文字の発明の前後で、先史時代と有史時代に大きく分けられます。戦時時代の区分は、道具の材料の遺物に基づいたもの。実際に使われていた道具の殆どは木などの腐敗しやすいものでした。有史時代は、イタリアの人文主義者キケロが正しいラテン語が忘れられていた時代を中世としました。
ミクロ寄生は、微生物の代謝活動。マクロ寄生は、他の人間からの収奪。小作農は、収穫物を取り上げられ、労働を強制されていました。侵略者は農村に寄生します。マクロ寄生は、集団間の搾取関係を表します。
紛争、飢餓、移住は、生態の不安定さを示します。長期で見れば、生物進化は動植物の生態関係を変えます。
民主主義が、人間同士の寄生を無効にするには不十分です。相互依存は人間の現実です。
市場行動は、搾取の直接の利害関係を緩和し、対立を解消します。
言語の習得は、先を見越した計画に基づいて、綿密の協力する狩猟を可能としました。
アフリカにはミクロ寄生体が密集し、熱帯では食糧の入手が容易ではなく、人間の数は少ないままでした。
火を熾し、熊の毛皮を着て、狩猟民族は凍りつく地にまで入り込みました。熱帯微生物は寒さに耐えられませんでした。これらの地域の人口増加は、大型動物の生態均衡に混乱をもたらしました。海岸沿いで買いを集めるなど、採集を強化しました。食用植物が育つ場所を増やしました。一年を通じて食物を確保できるようになると、新しい生活様式が確立されました。
農耕による人口増加と、特定の種だけの栽培は、昆虫や菌類やウィルスの生態系を変化させました。食物がネズミや虫やカビにさらされるようになったのです。虫や鼠に食べられないように壺を作るなどしました。
定住により便により排泄される赤痢などの病原体に感染しやすくなりました。130年前までは誰もが汚水を飲んでいました。
農耕に適した土地の広さには限りがあり、中近東では農耕が始まってから2〜3000年の間、人口密度は横ばいでした。ホロンティアの村は増え続けました。
紀元前6000年には、灌漑と犂による新しい耕作方式がチグリス・ユーフラテス川流域で始まりました。雑草に対しては休耕地を設けました。休耕地を犂で耕すことによって雑草を取り除きます。新石器時代に雑草から逃れる方法は、数年で畑を替える焼畑でした。
紀元前4〜3000年の間に、チグリス・ユーフラテス川流域では専門家集団が集まる「都市文明」が成立しました。人間社会は、食料生産者である宿主と、田畑で働かない寄生体に分かれました。聖職者は、神との好ましい関係を保証しました。都市化は、職業の専門化、荷車(車輪)と帆船による交易によって行動様式を変化させました。
灌漑による水媒介性の寄生体を発生させます。経口感染は都市の出現とともにますます広がりました。人口密度が高まり、飛沫感染するウィルスがいつでも増殖できるようになりました。天然痘や麻疹(はしか)や百日咳などの伝染病が、動物からの感染によって人間の病気になりました。麻疹ウィルスが生き延びるには45万人以上の共同体が必要です。出生率と子供の通学は、麻疹などの広がり方に影響しました。
人口密度の高い都市の集団は病気への免疫を身に着けました。孤立した集団は、文明集団と接触によって伝染病の発症がもたらされました。
都市の登場と武力集団の発生は、都市を攻撃の的にしました。紀元前3000年頃には、奇襲と略奪はメソポタミア人の生活の一部になりました。聖職者による管理から、武人による管理へと移行しました。新しいマクロ寄生が始まりました。
宿主と寄生体は、相互に受容へと向かう傾向があります。ミクロ寄生は安定したライフサイクルに落ち着きまあす。マクロ寄生では、帝国支配構造が出現し、官僚制度が受容されました。官吏により統治権は広い範囲に及びました。略奪よりも納税の方が対処しやすいのです。
ユーラシア大陸の「敵」はステップ地帯の騎兵。遊牧民の生活様式は戦闘に適していました。ユーラシア大陸は、帝国の統治と封建領主の台頭の間で揺れ動いていました。定住農耕共同体の防御が侵略を食い止められなければ、遊牧民の侵入が多発しました。
奥地の住民は、文明がもたらす伝染病から身を守ることができませんでした。
中国南部やインド、ユーラシア大陸のステップ地帯や北部、北西ヨーロッパの森林地帯は、農耕のための開拓には適していませんでした。軽く地面をこする犂では、ステップ地帯の土地を耕せません。北西ヨーロッパは、地中海式農業を営むには雨が多すぎました。中国南部・東南アジア・南インド・サハラ砂漠以南のアフリカでは、住民がマラリアなどの寄生虫に感染していました。
紀元後に、中国とシリアの間を隊商が往復し始め、エジプトとインド、インドと中国も船によって結びつきました。
船でも隊商でも、強盗から身を守ることは重要でした。安全な通行は、中継点の支配者に料金を支払う場合にのみ可能でした。
文明は普遍なものへ変化しました[普遍市場]。帝国官僚国家[軍官帝国]は紀元前4000年から始まります。普遍商業は、2000年を経たのみ。均衡の頂点には到達していません。世界統治機構が登場するまでは、その可能性は低いでしょう。
宗教の登場と伝播により、占星術や錬金術、あぶみ・風車・水車・算盤や位取り記数法が広がりました。宗教は対立を悪化させもしました。仏教と儒教では、教義の違いが紛争へと発展することはありませんでした。
*救済宗教と終末宗教の違い(Bard)
救済宗教とは、人間の魂が死後、神や仏のもとで救われるという信仰に基づく宗教です。救済の具体的な内容は宗教によって異なりますが、一般的には、死後、神や仏のもとで幸福な世界で生きることができる、または輪廻転生を繰り返すことから解放される、などと考えられています。
終末宗教とは、現世の終わりに、神や仏が現れて新しい世界を創造するという信仰に基づく宗教です。終末の具体的な内容も宗教によって異なりますが、一般的には、現世は罪や苦しみに満ちた世界であり、終末によってそれらが浄化され、新しい世界が創造されると考えられています。
このように、救済宗教は死後の救済を重視するのに対し、終末宗教は現世の終末を重視するという違いがあります。また、救済と終末の両方の概念を併せ持つ宗教も存在します。
項目 救済宗教 終末宗教
重視する時期 死後 現世の終末
重視する内容 魂の救済 世界の変革
信仰の対象 神や仏 神や仏
主な宗教 キリスト教、イスラム教 ユダヤ教
仏教、など エホバの証人、新興宗教など
普遍市場の初期には、ローマと中国に疫病が広がりました。2世紀の「アントニウスの疫病」です。このとき、麻疹と天然痘がローマ帝国の住人を初めて襲ったと言われています。人口は1/3まで減少し、人々は貧困に陥りました。ローマ帝国は異邦人の圧力と内部の混乱によって解体へと向かいました。中国の漢は三世紀に倒れ、異邦人が住民の少なくなった土地を侵略しました。ユーラシア大陸に千年に及ぶ不安定をもたらしました。
不安定な状態の中で、ステップ地帯の遊牧民族は定住民を何度も征服しています。遊牧民、戦闘集団、隊商が共存するようになりました。紀元前9世紀に乗馬がステップ地帯や砂漠の住民に新しい機動性を与えた頃から、点在した文明を結ぶようになありました。遊牧民族の重要性は13世紀に頂点に達しました。
300年から1300年までの間に、遊牧民族の侵入と征服の波によって、商業に慣れた支配者が権力を握るようになりました。
1000年頃にはユーラシア大陸の、生産性も軍事力も防疫力も高まりました。対立する二つの原理、帝国の支配構造と市場の価格体系。支配者と剣を持つ者は、市場とのぎこちない共生関係を生きていしました。商人が経済を握り、軍事もそれに依存する場合が多かったということです。官吏は地主であることも多く、商人は地主の味方でした。
イスラム教圏では、商人と戦士の間で安定した連携がもたらされました。マホメットは商人でした。メッカは交易の中心地であり、この地域の支配者は商人であると同時に戦士でもあったのです。マホメットは、アラビアの遊牧民と都市の商人を結びつけました。イスラム教と仏教は商道徳を認めていたにもかかわらす、小作農の商人への反感は解消されませんでした。
1000年以降になって、市場に統制された行動は拡大され、市場システムが機能し始めました。近代が始まりました。
611年には、揚子江と黄河を結ぶ大運河が完成しました。780年、唐は税の銭納が認められました。宋(960〜1279)では、統合された交換経済が発展しました。紙幣の発行による物価の間接統制は宋の政策の一部であり、財政を担う官吏は、価格や硬貨と紙幣の兌換について高度な原則を確立しました。近代の始まりは、中国経済と社会の変容が軌道に乗った11世紀です。
中央アジアや西アジア、ステップ地帯、インドとの隊商の交流は増加しました。海上輸送による商業の発展はしれ以上に重要でした。
1012年に南方から中国本土へ早生稲が輸入され、二毛作が可能になりました。
1211年から79年にかけてモンゴル人が中国を征服します。1500年頃には、市場経済へと向かううねりを中国政府は鎮めてしまいました。その頃、西洋は交易にゆっくり反応し、世界を回る荒たな軍事/商業の冒険に乗り出していきます。
古代に交易の中心だったイスラム圏は、632年頃から商業発展を本格化させていました。11世紀から13世紀にかけての温暖化により西洋では収穫高が増え、経済成長が進みました。一方、中東では旱魃が続き、イラクでは13世紀には灌漑用水路が機能しなくなりました。
地中海世界では、11世紀にイタリアの船が商品を運ぶようになりました。イタリア人は、商業の規制や慣行をイスラム圏やビザンチン帝国からそのまま引き継いでいました。マルコポーロの時代、西洋は中国に遅れたままでした。やがて、西洋の航海の発展は、黒海から東へ、大西洋とバルト海から西へと向かう商業と、地中海の商業の統合をもたらしました。イタリアが大西洋へ漕ぎだしたのは1290年。ジェノバのベネデット・ザッカリアが、キリスト教徒の船舶に対してジブラルタル海峡を封鎖していたイスラム勢力を倒しました。この頃、中国は遊牧民族の脅威に対抗する資源を確保するために、海洋航海を禁じました。
イタリアの商業は、交易拠点として黒海に港を整備しました。ユーラシア大陸をまたぐこの結びつきは、腺ペストの大流行を招きました。西洋では、1347年に黒死病が流行しました。ステップ地帯への影響は深刻でした。草に覆われた土地は、病原菌を永遠に宿したため「です。中世後期には、遊牧民が病原菌に晒された結果、大帝国が崩壊しました。モンゴル帝国は分裂し、戦乱が始まりました。
16世紀には産業革命が起こり、交易と製造の中心は、地中海から欧州北西部へと移ります。英国・オランダ・フランスの商業帝国が台頭します。
ロンドンやリスボンの港は不衛生で知られ、15世紀から18世紀にかけては、伝染病の流行によって都市人口は減少しました。一方、食料生産は増加し、人口は拡大し始めました。
海洋航海によって西洋人との接触によって大勢が亡くなりました。北アメリカ、オーストラリア、南アフリカ、シベリアなどでは、肥沃な土地が空っぽになり、西洋人が定住しました。17世紀に始まった植民地開拓は、西洋人が搾取できる土地を拡大しました。
紀元前9世紀以来、騎兵が享受してきた利益は、銃器の普及によって消えました。ステップ地帯の騎兵戦術の衰退は17世紀になってからです。
西洋が分裂されていたことは、軍事技術の向上をもたらしました。アジアでは帝国が重火器を独占し、兵器の改善は停滞しました。そして、大砲を備えた西洋の船がアジアに到着しました。
11世紀の西洋の商業都市では、商品が地域の統治者でもありました。15世紀の西洋では、軍隊を組織するために商人や銀行家に頼るようになっていました。
西洋の市場に統制された行動は影響力を増します。利益を求めて大規模な事業が行われます。官僚と資本の管理の間には、単純な二文法は存在しません。オランダと英国の東インド会社のような組織によって統合され、経済組織は官僚化します。西洋は強制を弱めて、国力を高めます。欧州中央のハプスブルグ諸国などの軍事帝国は、英国やオランダに経済で後れを取ります。
水そして蒸気を原動力にした機械によって製品の価格は大幅に下がり、量産が可能になりました。綿布は1/63の値段になっていました。製品と引き換えに原材料を手に入れる必要がありました。西洋の国家は自国の商人の利益を守るために、遠い地域にまで軍隊を派遣しました。19世紀後半には、地球上のほぼすべてが西洋列強の管理下にありました。
日本を除けば、アジアは不安定化していました。1850年から1914年の西洋の覇権は、西洋に産業革命後の発展とアジアの支配層が弱体化した時期が偶然一致した結果でした。
国民国家では、兵役義務が市民であることの代価になりました。民主主義は、中央集権管理への従属を意味しました。
1884年コレラの病原体が発見されました。種痘・低温殺菌法・手洗いなど感染に効果のある方法が考案されました。乳幼児の死亡率が減少しました。
第二次大戦では、国家は配給制を導入しました。戦争による国家社会主義は、経済不況の時期にも遂行されました。ロシアの共産主義は、戦争動員を原型にしていたのです。レーニンは、第一次大戦時に考案された国家社会主義と市民動員の官僚支配を平時にも進展させ、常態化しました。
安価な避妊具が手に入るようになり、西洋の人口は減少に転じました。結果として、民族の大移動がもたらされるでしょう。
《人間の営みにおける統制と破綻》 1986年 プリンストン大学講演
信用システムは、14世紀から何度も破綻しました。
地球表面を変えてきた人間は、失望することなく、[飢餓・伝染病・紛争]の悪循環の解決に向かっていると信じるべきです。