島根県古代文化センター
「壮大なる出雲の交流―国家形成期の出雲をめぐる古代交通―」
基調講演 森田喜久男(淑徳大学教授)

 女房に「貴方も興味があるでしょう」と教えてもらった島根県古代文化センターのHPには、講演の案内が載っていました。それを引用すると「古代出雲は決して孤立した地域ではありませんでした。北海(きたつうみ)とも称される日本海を舞台とした水上交通。あるいは山陰道をはじめとする陸上交通。さまざまな手段を駆使しながら、九州・北陸・そしてヤマトと交流が行われていたのです。今回は古代国家形成期に焦点をあて、当時の壮大な交流の痕跡から古代出雲の実像に迫ります」。これは見なくっちゃ!です。 以下は3回シリーズの講演の要約です。


・山陰と北陸の交流

 古事記などには、ヤマタノオロチは越の話。大国主命は、越の姫に求婚。そして、三穂の姫が生まれた。出雲は、越の八口を平定した。など、出雲と越の関係を示す逸話が多くあります。

 北陸の三埼を引き寄せ三穂の埼とした国引き神話。朝鮮の王子が渡来し、出雲から敦賀へ移った。北陸と出雲の関係を示す伝説も多く残されています。

 出雲の神門横穴墓群は、家型石棺。石川県(能登半島)のものと似ています。北陸と出雲の繋がりを示す物証の一つです。

・大和を介した筑紫・大和・吉備・丹波との関係

 出雲振根が筑紫(九州)に出掛けていた時、出雲の神宝が大和に献上されてしまう。それを怒った出雲振根は、神宝を渡した弟たちを処罰する。それを知った大和朝廷は、吉備津彦に出雲振根を殺させた。そして、途絶えていた祭祀を丹波の人が復活させた。という逸話が残っています。これは、大和と出雲の関係が、他の地域を巻き込んだ多様なものであったことを示しています。

 また、出雲の力士ノミノスクネが大和の力士を倒す話も有名です。出雲の力士のノミノスクネは埴輪を発明したとされる人物で、出雲と大和朝廷の関係を示唆しています。

・大和王権と出雲〜海の道と山の道

 日本海岸の北ツ海は、当時の主要な交流のルート。船はゴンドラ型の舟であったと推定されます。様々な神話においても、海人が重要な役割を果たしています。

 大和との交流では、紀伊経由や吉備経由は瀬戸内を通って山を越すルートが主流。海の道・川の道・山の道を通って交流していました。

 神武天皇の道案内は海人(海部)。大和朝廷は、海部を用いて日本海岸の諸国を再編成します。出雲の海部刀良が出雲を治めていたと記録されています。

 継体天皇は北陸地方と関係が深く、母親は越の人。北ツ海を支配するために、大和の人々は、継体天皇を天皇として迎い入れたと考えられます。そして、大和は海上交通の支配を巡って、筑紫と闘います。

 屯倉の設置は6世紀以降。北ツ海の国造が出雲〜但馬の耕作を命じられます。国造は、交通路の整備も行います。出雲と播磨の関係は、二国間の直接の関係ではなく、大和王権による開発が契機となったものと考えられます。

 後の平安時代になると、出雲国造が大和で天皇のために祝詞を奉じることになります。