「翔太と猫のインサイトの夏休み」 永井均 2007年 ちくま学芸文庫

 「生涯に一度も考えるということをしない人間を人工哲学者と言う」が私の哲学者の定義。「考える」のは無自覚過程(潜在意識の課程)。解りやすく言えば「言葉『を』考えることはあっても、言葉『で』考えることはあり得ない」が神経科学の事実。「考える」とはこの潜在意識の領域にまで「意思」を潜り込ませて「考える」。それは言語過程ではない。その非言語過程が意識に通知されて、「(意識としては)脈絡もなく」言葉になる。多くの天才が「考えが降ってきた」というのはそういう事情。ゴータマ・シーダールタやマイケル・ファラデーなどの自然哲学者の多くがそうやって「考えた」。私のその後を追っているつもり(あくまでも「つもり」)。

 この本は「今が夢じゃないって証拠はあるか」という、心と体の二元論で始まる。体があるから「心」があるような「気がする」だけ、が科学の事実。著者には「肉体性」=この世にあるべき存在としてんの真っ当な『獣知』が備わっていない。猿以下でしかない。そういう事実に反する非科学にして、「生涯で一度も考えない」お方の典型の言説。うんざりだ!!!と思っていたら … 我慢して読み進んでいたら、「まとも」な議論もあってホッとした。永井という御仁。人工哲学者にしては、まともかも。それにしても、哲学書なんていう「薄っぺらで上っ面の知性」=言葉遊び、は読むものではないと思い知った次第ではあります。 以下に、少しはまともな部分をまとめておきます。*は私のコメントです。


■ いまが夢じゃないって証拠はあるか

 僕らは僕らの理解力の外に出ることはできないんだ。

*原文には「言語」が入っているが、「言語」を省いた。著者は哲学者。生涯に一度も考えたことが無いので「非言語思考」=「本当に考える」ことを経験していない。
*「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」の本来の意味は、「語り得ぬもの」については「非言語思考」=本来の論理を感受しなければならない、ということ。

 存在することが確かめられれば、(私が認識する世界の中では)「実在する」って言っていいんだ。

■ たくさんの人間の中に自分という特別なものがいるとはどういうことか

 人間が物質の集まりなのに、心が生じる。心身関係の問題は、誤解から生じた。

 ライプニッツは、無数の世界の内、一番いい世界を選んで、神様が実現してくれると考えた。*ライプニッツの数学〜物理にも通じる考え方ですね。

 何かが存在するとは知覚されていることにほかならない。カントは、存在すると言えるものは何か、という問題の立て方を否定した。「現象の根底にあるもの自体については、何も語れない」。

■ 様々な可能性の中でこれが正しいと言える根拠はあるか

 多数性が妥当性に結びつくのは、民主主義社会では、多数者の方が圧倒的だからだ。要するに「強いものが勝つ」だからそれが正しいと考える。それだけのことさ。価値をめぐる争いは、争いごとを好む人の勝ちだ。

 先進国で「人権」を疑う人はいない。根拠がない虚構だが、その根拠を問うのは無意味だ。「一人の人間の命は全地球よりも重い」は、誰もが事実と反すると認識している。

 カントは唯心論を批判する。「全ては心にほかならない」は一種の還元論。還元論はつまらない発想だ。

 自分の欲望を満たされると「いい」と言う。自分の欲望を満たしてくれる人を「いい人」と言う。

 相手がこっちの観点からみて何か正しいこと、理のあること(予想がつくこと)を言っていると前提しないと、相手の言っていることは理解できない。幼児でも大人でも同じ。理解するためには、相手の中に理や真を見つけることが要求される。蟻が僕らの基準の合理で行動していると解釈する場合にしか、僕らは蟻の行動を理解できない。

 どんな変化にも変わらないところがある。全てが変化したら、消滅と誕生。新しい捉え方の根拠は、変わらない部分に訴えることが必要だ。古代ギリシャのアリスタルコスは、地動説を主張した。でも当時の天文学の中で根拠づけることはできなかった。

 その文化には固有の合理性があるという相対主義。そういう考え方は僕らの側の合理性でしかない。未開文化の方は、そんな考え方を否定する。相対主義には、自己絶対化がある。

 相対主義は一つの愛のカタチ。恋は、こちら側の一方的な解釈で相手を抱き込む。愛は、そういうことをしちゃいけないと、やっぱり相手を抱き込む。ようするに、どういうふうに相手を抱きたいかって問題だ。

 意味は主観ではない。書き手や話し手が言わんとしていることと、その文書が言ってしまっていることとは別だ。

 言葉の意味は、実際に言葉を使っていることの「中に」示されているだけだ。そこに示されてるものを、自ら語ることはできない。

 何かが見えるということは、それが見えている人にしかできないことをできるということ。自分には何が見えているかを自覚していることではない。

 自分が何を理解しているか自分で解っている必要は無い。フランスの数学教育では、問題を解くことよりも言葉で説明する能力を重視する。理性主義の間違いだ。

 規則に正しく従うことができる人は、規則を語ることしかできない人よりも、より多くのことを知っている。

■ 自分がいまここに存在していることに意味はあるか

 橋本聖子は猛訓練を続けてオリンピックに出続ける。オリンピックに出たいという欲望に負けて練習してしまう意志の弱い人とも言える。価値あることで自分にとっては辛いことを「意思」と呼び、その逆を「欲望」と呼ぶ。意思と欲望に善と悪を割り振るのは根拠の無い偏見だ。

 時間が創られたとすると、時間の外からということになる。始まるとか創られるというのは時間性の概念。時間そのものに適用することはできない。カントは、時間や空間は主観の側の型式だとした。*もともと、時間も距離も「計測概念」。実体概念ではない。

 空間には「ここ」という特別な位置が、時刻には「今」と言う特別な時がある。

 人生の内側には意味づけがある。生き甲斐はある。人生全体を、つまりそれが存在したということを、まるごと外から意味づけるものは無い。

 ニヒリズムは、全てには意味があるという考え方。人生は何のためにあるのか?自分は何のために生まれてきたのか?そういう問いは虚無な問だ。

 ハイデガーは人間を、「自分は死ぬべきもの」と自覚していると考え、そういう人間のあり方を「現存在」と呼んだ。*高校生時代に、ハイデガーには傾倒しました。「死ぬべきもの」だから、「良心」がある。納得しましたね!今は、ハイデガーは捨てたけれど「良心」問題は、今だに腑に落ちてます。