「縄文時代の歴史」 山田康弘 2019年 講談社現代新書
縄文人の末裔としては、読まなきゃいけない本です。読んでみるとこれがとても良い!考古学をちゃんと科学している研究者に出合って嬉しい限りです。新しい知見もたくさん得ることができました。
特に、縄文社会が母系=皆殺し遺伝子が発現しない生き方をし、一時的に皆殺し遺伝子を発現させる究極の縄張り=農地(水田)を導入してもそれを放棄していた。つまり、縄文人の中にボノボと同じ友愛遺伝子(この名称は私が名付けたもので科学用語ではありません)が息づいていたことが、部分的にであれ実証されたことに、何よりも感動しました。縄文人は、チンパンジーと同じ皆殺し遺伝子発現しまくりの極悪非道な弥生人とは違うのです。縄文人の末裔としては、嬉しい!ありがとうございました。
以下はこの本の要約と引用です。*印は私の感想と意見です。
《はじめに》
・縄文時代の区分
草創期:16500〜11500年前(5000年間)
早 期 :11500〜 7000年前(4500年間)
気候が暖かくなり海水面が上昇
定住生活が始まる
食料の種類が豊富になった(特に魚介類)
前 期 : 7000〜 5470年前(1530年間)
気候が最も温暖化(縄文海進)
台地の上を居住地点とする
ウルシなど様々な植物を利用
人口が増加
中 期 : 5470〜 4420年前(1050年間)
地域によっては、100棟以上の大型の集落が出現
全国の人口が26万人を超える
後 期 : 4420〜 3220年前(1200年間)
最初の頃に気候が寒冷になる
晩 期 : 3220〜 2350年前( 870年間)
九州において3000年前から感慨水田稲作が始まる
旧石器時代は石を打ち欠いて作った打製石器、新石器時代は石を磨いて刃部作り出すなどした磨製石器を中心に使う時代。ヨーロッパ大陸やアジア大陸では新石器時代に農耕や牧畜が起こる。
縄文時代は、石鏃(矢尻)や石匙(ナイフ)には打製石器と、石斧や石皿や石棒や石冠などの呪術具には磨製石器を使用している。縄文時代には農耕が確認されていない。
縄文時代には大型の建物を作る建築技術があり、栗林の管理や漆工芸などの植物利用技術がある。環状列石や土偶など複雑な精神文化があった。
縄文時代の建物には、竪穴式(竪穴式住居)と平地式(掘立柱建物)の二種類があった。中期の関東地方では大規模な環状集落が、西日本では住居が数棟しかない小規模な集落が多い。縄文時代全体では、小規模な集落が多い。
縄文時代の墓は、地面を掘りくぼめた土坑墓、土坑墓の中や上に石を置いた配石墓がある。
ドングリなどの堅果類は、地面に穴を掘った貯蔵穴に保存したり、籠に入れて住居の棚に置いて保存した。ハマグリなどの貝類は、煮たものを干して加工した。鮭や鱒などの魚類や、鹿や猪などの肉は干物や干し肉や燻製の保存食にしていた。保存食は、住居や高床式の倉庫に保管された。
大豆や小豆などが栽培されていたが、その耕地は確認されていない。*栽培すれど農耕はせず、が縄文人の生き方。土地を耕作し所有すれば、土地を巡って争いが起こり、皆殺し遺伝子が発現することを恐れていたものと推測される。
翡翠や琥珀や黒曜石やアスファルトなど産地が限定された物資を遠隔地交易が行われた。塩や加工食品も交換されていた。その物流網は、婚姻や祭祀などの情報交換にも活用された。
結婚によって他の集団との関係を構築する。外婚制によって、それぞれの出自集団を結びつけていた。
縄文時代の当初から前期までは母系の妻方居住婚が、中期以降は選択的居住婚あるいは夫方居住婚による双系的な地域もあった。
《プロローグ 縄文時代前夜》
今から1万年前までの最終氷期では、現在の海水面から100mほど低かった。北海道は大陸と繋がっていた。当時の植物相は針葉樹林で、ヒトが食料として利用できる植物資源は少なく、動物の捕獲が主な生業だった。
日本列島にヒトがやってきたのは、3万8千年前。剥片、特に鋭利なエッジを持つものを石刃と呼ぶ。旧石器時代は、大型の石器を中心とする前期旧石器時代(12万年以前)、小形の剥片を使用するようになった中期旧石器時代(4万円前まで)、石刃を利用して石器を製作するようになった後期旧石器時代(1万5千年前まで)、に区分される。
移動の経路としては、朝鮮半島から九州へ(西回り)、沿海州からサハリン、を経て北海道へ(北回り)、南西諸島を北上した(南回り)3つの経路がある。朝鮮半島は前期及び中期旧石器時代の遺跡が確認されている。槍に用いられただろう先頭器は西日本においても出土している。北海道を中心に細石刃剥離技法(湧別技法)は、ロシア・バイカル湖周辺に起源を持つ。バイカル湖周辺にいたヒトは、ヨーロッパ系であり、彼らが直接に北海道までやってきてはいない。石垣島には旧石器の人骨が出土している。サキタリ洞窟遺跡から2万3千年前の貝製の釣針が出土した、
この時期(後期旧石器時代)の日本列島では、石刃を素材とした槍の穂先として使用されたナイフ形石器が出土する。1万8千年前、本州に登場した西回りルート起源の細石刃石器が分布を広げる。
最古の土器は青森県大平山元遺跡から出土した1万6千5百年前の無文土器である。同時に出土した大型片刃石斧は、シベリアのアムール川に起源を持つ。最古の土器は北方文化の影響を受けた可能性が高い。但し、北海道では草創期の土器がほとんど見つかっていない。縄文土器は、日本列島固有のものという可能性も高い。
《1. 縄文時代 文化の枠組み》
縄文時代への変遷の第一要因は温暖化である。堅果類はアク抜きが必要であり、土器が必要となった。しかし最初の土器が出現したのは最終氷期。また、温暖化が本格化したのは、温暖化による氷河の海洋への流れ込みにより一時的に寒冷化したヤンガードリアス期の後である。
温暖化によって日本列島が形成され、大陸から切り離された状況でも、大陸と近接する北海道北部と沿海州、北九州と朝鮮半島には交流があった想定される。しかし、縄文文化は現在の日本国内に収まっている。
縄文人は、世界的に見て、固有の形質を持っている。縄文人の大まかな形質は、日本列島の範囲で殆ど同一である。縄文人は、旧石器時代人に近い旧い形質を持ち、日本列島で形成された独特の人々である。
ハプログループM7aは南方系、N9bは北方系。但し、現在の東アジアには分布していない。縄文人の起源が、旧石器時代に日本列島に渡来した人々であることは間違いない。
《2. 土器使用の始まり 草創期》
東アジア、特に日本においては、土器は当初から煮沸具として登場した。焼けた石を木製容器に入れて煮沸を行う技術は存在した、内容物の状態を確認しながら長時間煮込むことができるのは土器だけである。火焔土器にも煮炊きの痕跡があるものがある。煮込むことによって、様々な食材を組み合わせた料理ができる。食器としては、口当たりの良い木製品が使われただろう。
世界の民族事例をみると、土器を製作しているのは女性である、土器の胎土は出土遺跡周辺に地質と類似し、土器は地域で製作され消費されたものが多かった。
世界各地の事例を見ると、旧石器時代にも粘土を焼成して土偶をや動物像を製作する技術が存在していた。長時間火にかけることができる土器は簡単にできるようなものではない。
縄文土器の名称は、E・S・モースが大森貝塚から出土した土器から名づけた。土器の文様には、表面に線を描く「沈線」、粘土を貼り付けるなどして線状に隆起した「浮線・隆起線」、点状の「刺突」などが組み合わされて構成される。縄文土器には機能的なものと、繁縟な形態のものがある。この多様性が縄文土器独特のものである。
1万5千年前の寒冷期には、屋内に炉があるものの、柱穴は無く、長期にわたる定住はできなかった。1万5千年前から温暖化が始まる。九州地方南部では弓矢の普及が早かった。1万3千年前から始まるヤンガードリアス期には、土偶や赤色顔料を塗った土器が現れる。
その後の温暖化で、関東地方以南では、ドングリを実らせる落葉広葉樹が拡がっていった。栗は縄文時代を通じて重要な植物だった。1万3千年前から、食用としてだけでなく、建築材や加工材として使われていた。加工し易く、耐久性と耐水性に優れている。
草創期の段階で、数は少ないが、乳房を表現した土偶が出土する。また、墓(土抗墓)も見つかっている。
愛媛県上黒岩陰遺跡では、結婚後も集落に女性が留まる婚姻形態(妻方居住婚)が採られた母系社会だったと考えられる。
《3. 本格的な定住生活の確立 早期》
縄文時代の大部分は、イヌイットやアイヌのように季節によって移動する居住形態であった。中期以降の東日本では、ベースキャンプを一ヵ所に固定し、食料や資材を運び込む定住村落が現れる。日本列島の定住生活は農耕と連動して考えることはできない。
縄文時代のメジャーフードは、トチヤドングリ、鹿や猪である。栗や胡桃などを栽培し、猪を飼育したという見解もある。
自然界におけるバイオマス(自然界における利用可能な食料の総量)は、秋が最も多く、初夏が最も少ない。食料を加工し保存していた。堅果類は地面に掘った貯蔵穴で保存し、干し魚などは屋内に保存した。そのための作業場も必要となった。集落内の居住域と墓域と廃棄場所は区別された。
定住するためには、集落から遠くない距離で、集落の人口を支える食料を確保することが課題となる。人口密度が高まり対人コミュニケーションが増大する。様々な取り決めが必要になる。社会システムとして、呪術が発達した。
社会複雑化は、道具や施設の多様化、祭祀具の多様化、墓制の多様化にみることができる。一方で、人口が少なく、かつ自然環境で大きく変動する状況で、複雑な社会が維持できる可能性は高くない。
定住生活を行うようになると、土器の地域差も大きくなる。
海進による海水域の拡大よる海産資源(例えば、ヤマトシジミは汽水域に生息する)、そして森林資産源の開発によって、縄文文化は発展していく。
定住生活が進展すると、貝類を捕食する地域では貝塚が形成される。ハマグリなど二枚貝は、その貝殻に一日に一本ずつ成長線を形成する。この成長線の間隔は、暖かい季節では広く、寒い季節では狭い。これにより、その貝がいつ採集されたのかを知ることができる。その貝塚が何年かかって形成されたのかもわかる。
貝塚は早期の西日本では少ない。但し、水面下に没している可能性もある。
北海道八千代遺跡は、竪穴式住居が103棟以上確認される大規模な集落遺跡。北海道の中野遺跡は、竪穴式住居跡が700棟以上検出されている。
北海道と九州南部では、早期に規模の大きな集落が存在していた。しかし、全国では、定住生活を長期に営むことができたかどうかは疑問が残る。早期においては、安定した定住生活を行っていた地域と、遊動生活をしていた地域があったと考えられる。
早期の集落の人口は、一時期に6〜7棟の住居があったとすれば、多くとも20人程度であったと思われる。周囲に存在する集落と血縁関係による紐帯を持ち、出自集団を構成していたのだろう。
出土した人骨の炭素・窒素同位体分析から、食べられるものは何でも食べる多角的な生業を音なんでいた推定される。
貯蔵穴の中には、湧水を利用して水漬けを目的としたものもあった。その際、編んだ籠を利用していた。高度な植物加工技術を持っていた。
中期以降、犬が家族と一緒に埋葬された例が増加する。
縄文時代の墓は、墓穴だけの土坑墓と、墓の上部に大小の礫を置く配石墓がある。
早期の段階で、動物の頭蓋を用いた「動物供犠」を伴う祭祀が行われていた。
旧石器時代の赤色顔料としては、赤鉄鋼を砕いたベンガラ(酸化鉄)があった。この時期の墓には、埋葬時に赤色顔料を散布したものが多い。早期の段階でウルシの利用技術が確立していた。
佐賀県東名遺跡からは、木製の仮面が出土している。中期以降に増加する土製仮面とともに、当時の社会に仮面習俗があったことを示唆している。
貝製の装身具は、広域な交易網があったことを示している。
大きな乳房を持つ土偶には、顔の表現は無い。くびれた腰部は女性の体を表現している。これらの豊満なトルソー(肉体表現)は、出産時のお守りとしてだけではなく、「新たな生命」を付加する祈りにも用いられただろう。
《4. 人口の増加と社会の安定化・社会複雑化の進展 前期・中期》
縄文早期から前期の温暖化、7000〜5900年前には、気温は2℃高く、海水面は2.5mほど高くなった。5900〜4400年前の武蔵野台地では栗林が優勢になった。
早期の人口が2万人程度だったのが、前期には10万人を超え、中期には24万人に達した。東日本に22万人。西日本の人口密度は低いままだった。
縄文時代の遺跡は台地が多いのは、低地の遺跡は海に没したからだという可能性もある。海岸沿いに住んでいた縄文人の食性は豊かで「貧しい縄文人」ではなかった。低地を水場として利用していただけでなく、様々な施設を作っていた。ウルシ林があり漆塗り製品を作っていた。
三内丸山遺跡には、植栽された栗の純林があったが、集落が廃絶すると楢林が復活している。木材を組み合わせてつなぐ軸組広報により、高く大きな建築が可能になる。三内丸山遺跡から検出された6本柱の大型掘立柱建物では、直径1mのクリ材を用いている。クリがこの大きさになるには200年以上が必要とされる。世代を超えた栗林の管理を行っていた。
ドングリ類を粉末にし、蜂蜜や山芋のつなぎを使って固めた縄文クッキーも出土しています。最古のウルシは12600年前のもの。漆工製品は、9000年前に遡る。漆の技術は専門性が高く、製作に専従した人々の存在が想定される。赤漆にはベンガラや水銀朱が使われた。エゴマは、シソのように葉を食べることもっできるが、実から絞られる油は漆の溶剤として利用される。
漆の技術は、生活に直接役立つものではない。縄文時代の生活が安定した余裕のあるものだったことを示している。
土器の「穴(植物圧痕)」から種子を同定する手法を圧痕法/レプリカ法と呼ぶ。大豆や小豆の栽培が行われていた。北海道南部や東北地方のヒエも栽培されていた。但し、栽培の「場」は確認されていない。
*農耕は「農地」を作り皆殺し合いを伴うが、栽培は土地の「手入れ」はするが区画を作り専有はしない。従って、今後も「畑」は発見されないだろう。縄文人は、栽培すれど、農耕せず。皆殺し合いはしないのである。
農耕は、階級や国家を成立させる。食料生産を以て農耕とするのは間違っている。北海道南部と東北地方北部の後期における一部の墓制は、社会の階層化の可能性がある。但し、社会の階層性が進展したとは考えられない。
縄文前期になると、居住域・墓域・廃棄帯といった空間の使い分けが明確化する。定型的な集落が発達し、その代表が関東の環状集落である。環状集落には、大きなものも小さなものもある。大きさは計画的に決められ、集落間の機能的な差異が存在していた。拠点集落と付随する複数の集落がある。集落間の役割分担のネットワークがあった。
貝塚には二種類ある。集落に近接する食物残滓や生活廃棄物を捨てた集落貝塚。海岸近くに形成され、貝殻だけで構成されるハマ貝塚。集落から離れて、加工食品=交易用の加工品を作る場であろう。
石器製作は、原石の採取と石器への加工が別の地点で行われた。神津島の黒曜石の採取には外洋航海を専業とする人々の存在が想定される。縄文前期・中期になると、集落間の交易網が形成され、社会の紐帯を生み出した。
中期には整然と区画された墓域が登場する。証明された区分原理は存在しない。埋葬小群内は三世代の血縁関係を持つ家族集団が埋葬された。
仙台の小竹貝塚人の集団は、男性が婚入している。妻方居住婚の母系社会だったと思われる。この傾向は日本列島全域で認められるだろう。
屈葬は、死霊を封じ込めるためと考えられてきた。小竹貝塚の抱石葬の全てが大人の男性であり、何らかの理由で「集団出身者以外」に施されたものを考えられる。
縄文中期、中央部に墓域、同心円状に掘立柱建物、竪穴式住居が配置される。東北地方の中期では、明確な構造を持つ遺跡は稀有である。
関東の中期の竪穴式住居の「廃屋墓」。遺体の頭部に大型の土器を被せる「甕被り葬」。また、首だけを持ち去る事例もあり、頭部を意識した埋葬が多発する。
翡翠は新潟県姫川流域にしか産出しない。希少性の高い装身具や呪術具を「威信財」と呼ぶ。但し、弥生時代のそれとは意味が異なる。副葬品や甕被りは、拠点集落など大きな環状集落の中央から出土することが多い。
「特別な人々」が、どのような力を持ち、その権威が世襲されてのかは不明である。
関東地方では、中期の妻方居住婚から後期の選択的居住婚を経て、夫方居住婚へ変遷したと想定される。
勃起した男根を象った石棒は、東日本で発達した。石棒の多くは火を受け、打ち壊されている。勃起⇒性行為⇒射精⇒萎縮という流れを再現したものと考えられる。
日本全国から出土した土偶の総数は2万点ほど。縄文通期で、年間8点ほどしか製作されていなかったことになる。土偶が多数出土する遺跡は、それなりの事情があったと考えられる。
長野県棚畑遺跡の縄文のビーナスは、お臍が下を向ぃ、下腹部が大きく膨らむ臨月を表現している。
環状集落の中心に墓域を置く縄文時代の人々は、死者の霊を恐れていなかった。縄文時代に存在したと考えられる死生観は、アイヌなどにも見ることができる「もの送り」ともつながる円環死生観だろう。子供の遺体を入れた土器埋設遺構は、土器を母体と見立てて、もう一度生まれてくることを祈願した、再生の思想に基づくものと考えられる。出産時の事故で亡くなった女性は、特殊な埋葬方法で葬られていることが多い。
縄文時代にまで遡るとは思えないが、「土器(かわらけ)を割る」は、性交を意味する古い俗語。
《5. 精神文化の発達と社会の複雑化 後期・晩期》
後期になると気候が冷涼化し、関東地方では遺跡数が減少する。規模も縮小し、数棟しかない集落に人々は住むようになった。
海水面は低下し、海岸線は遠ざかった。多くの低地部は埋没した。関東地方では、集落は低地の水辺に立地するようになる。
気候変動に対して、大型集落で多くの人口を維持する生活様式を止め、小規模な集落へと分散居住するようになった。
東北地方北部では、墓制が多様化し、石棺墓や土器棺墓が出現する。環状列石も出現する。群馬県では、中期に環状列石が出現し、後期に消滅する。
西日本では、集落と住居跡数が増加する。東日本から西日本へ、人の移動があったようだ。
後期の住居は、平地の掘立柱建物が増える、後期以降になると、あく抜きなどを目的とした水を引き込んだ水場遺構が増える。水場遺構は、周辺の集落の共同の作業場だったと考えられる。東日本ではドングリの利用は少なく、西日本ではドングリの低地型貯蔵穴が発達する。
縄文後晩期の集落景観を特徴づけるのは、環状盛土遺構=貝の無い貝塚である。
後期以降は、交易用の品物の採集や生産が盛んになり、集落交易網が活性化する。海水を煮沸して塩を作る大型の製塩土器が出土し、少量の製塩土器で運ばれた。長野県鷹山遺跡(星糞峠)は、早期からの黒曜石の採掘坑が多数見つかっている。和田峠と共に信州系の黒曜石は、日本列島中央部の全域に運ばれた。集落間の交易網は、縄文時代の社会を支える基盤となった。
伝統的未開社会では、帰属する集団や社会の習慣として、装身具を装着することが多い。装身具の数は、晩期に多くなる。男性では猪の犬歯と鹿の角を材料としたものが多い。
後晩期になると大きな墓域が作られるようになる。墓域が集落の外に出て、単独で構成される傾向が強まる。東日本では大規模な配石遺構を形成することも多い。配石墓や石棺墓の分布も東日本が中心である。
後期の墓には、いったんは個々の墓に埋葬した遺体を掘り起こして集め、一ヶ所に埋葬し直したものがある。家族を中心とした埋葬ではなく、家系っでまとめた特殊な葬法である。この時期は大型集落が気候変動によって分解した後、再度大きな集落を形成された時期にあたっている。地縁に基づく集団構造を再構築したものと考えられる。墓はその集団統合のモニュメントだったのだろう。祖霊崇拝が成立したと見られる。
東日本では、環状列石などの配石遺構が構築されるようになる。多くの人びとが共同で作業し、人々の紐帯を強化しただろう。
東日本の婚姻は、中期の妻方居住婚から、後期には夫方居住婚へと変遷する。九州では装身具の装着は女性ばかりで、西日本は母系的な社会があった可能性がある。
北海道や東北北部の一部の地域には、階層性が存在したと考えられる。中心の多くの副葬品を伴う墓と、周辺のそうでない墓の違いがある。後期の終わりから晩期の初めという限られた時期に顕著になる。地位や特権が世襲されたのか、個人の努力によって獲得されたものなのか、階層化が常態化していったかどうかは不明である。晩期に入ると、特定の人々の浮上という状況は確認できなくなる。
階層や階級といった社会成層化が維持されるのは、相当程度の人口が必要である。一時的に階層化が進んだとしても、それが世襲される恒常化されるまで維持されるには縄文社会の人口は少なすぎる。
縄文晩期の表面が研磨された精緻で優美な亀ケ岡土器(大洞式土器)。近畿地方まで分布する。土面など様々な祭祀・呪術具を伴う亀ケ岡文化は、晩期は850年間という限られた時間幅で花開いた。それは、東日本から西日本へ。水田稲作を求めて人々が移動した結果かも知れない。
《エピローグ 縄文文化の本質》
中国地方の集落は少なく、規模も小さい。東アジアの農耕以前の狩猟採集文化には、縄文時代のような大規模な集落はない。中国地方は、世界各地の先史時代の遺跡に似ている。東日本の縄文遺跡はむしろ特殊なのである。中国地方の住居は堅牢ではなく、長期間の定住はしなかったと想定される。
定住するには、集落の近くに集落の人口を支える食料が確保されなければならない。定住するようになると、対人コミュニケーションの量が増加する。集落の掟も必要になる。縄文時代を通して、道具や施設の多様化=複雑化を見ることができる。
中国地方では、呪術具の数が圧倒的に少ない。不安が多いがゆえに多くの祈りを捧げる生活と、不安を移動などの方法によって解決し、祈る必要の無い生活。どちらが豊かな生活かは価値観に依存する。
弥生時代の水田開発は、集団労力の投下を伴った大規模な地形改造が行われ、農地=土地の専有が行われるようになる。弥生文化は次の古墳文化に連続している。
東北地方北部では、稲作が開始されてからあまり時間がたっていないところで放棄されてしまった。しかも、その水田は西日本のものと遜色のないものだった。関東地方で、灌漑水田耕作が本格化するのは弥生時代の中期以降である。
《おわりに》
縄文時代の本質は、繁縟な装飾を持つ土器などにあるのではない。また、狩猟採集経済にあるのでもない。定住生活を支える生業形態・集団構造・精神文化。そして交易網を少ない人口で成り遂げたことにこそ求められる。
縄文人は、自然と共生した人々と評価される。少ない人口で定住生活を行い、食料を自然の恵みに依存した縄文人には、自然と共生する以外の生き方は無い。自然と共生するという発想自体が現代の発想だ。
縄文人も自然を利用していた。少ない人口で、石器を使って人力で自然を切り開いたがために、自然の改変よりも自然の回復力の方が優っていただけだ。縄文時代を理想化し、「楽園」として語ろうとするのは間違っている。