平安時代末に起こった武蔵七党の一つ、村山党。その本拠であった宮寺館があった場所が現在の西勝院です。
武蔵七党は、朝鮮からの流れ者=大和朝廷の出とされています。確かに、何人かはそうだと思われます。しかし、源頼朝が北条氏に利用されただけの木偶人形だったように、ただの飾り物、一代限りでお役御免の廃棄人だったと考えられます。治世上は朝鮮の人の末裔を名乗るのは、手間を減らすには役立ったと考えられます。武蔵七党の本流は、アラハバキの民=縄文人の末裔と想定されます。
さて、ネットで検索したところによると、桓武天皇九代の孫、村山(平)頼任は、今から約9百年前、村山に住み、村山党の祖となった。その子孫は、枝葉のように入間郡を中心に大武士団となり、源頼朝の鎌倉幕府成立に大きな力となった。
村山(平)頼任の子、頼家には四子があり、その二男の家平が宮寺の領主となって宮寺五郎家平と称して、この地に居館を構えたのである。すでに8百年以上も昔のことであり、この居館跡の全体遺構を見ることはできないが、西勝院境内南側、東側の土塁と空堀また山門手前左側土塁の痕跡は明らかに当時の遺構の一部である。さらに西側を流れる溝が館の掘であったと推測され、したがって内側に土塁が、構築されていたと考えられ、この溝は西勝院の境内を囲むように西側から北側に及んでいる。鎌倉幕府滅亡時には加納下野守が、ここに住んだと伝承され、江戸時代には伊能尾-狩尾氏が住んだと伝えられている。
村山(平)頼任の子、頼家には四子があり、その二男の家平が宮寺の領主となって宮寺五郎家平と称して、この地に居館を構えたのである。すでに8百年以上も昔のことであり、この居館跡の全体遺構を見ることはできないが、西勝院境内南側、東側の土塁と空堀また山門手前左側土塁の痕跡は明らかに当時の遺構の一部である。さらに西側を流れる溝が館の掘であったと推測され、したがって内側に土塁が、構築されていたと考えられ、この溝は西勝院の境内を囲むように西側から北側に及んでいる。鎌倉幕府滅亡時には加納下野守が、ここに住んだと伝承され、江戸時代には伊能尾-狩尾氏が住んだと伝えられている。
宮寺館は、外郭約130m四方で、内郭の堀跡・土塁の一部が残存している。土塁の外側に沿って、狭山丘陵からの沢水を利用した水堀が館を囲っていた。周辺には「城ノ腰」「城東」「的場」「的場後」という小字があり、館に関係のある地名と考えられる。また、境内より鎌倉期から室町期にかけての板碑や宝篋印塔が出土している。
加納下野守は村山党に所属した武士で、後醍醐天皇の御代、宮寺に館を構え、新田義興に従って正平7年3千余騎を従えて、武蔵小手指ヶ原で戦っているが、その他のことは不明とも記されています。
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