「こころへのアプローチ 第七版」 野々村新 2010年 田研出版

大学の心理学の教科書です。最近は神経科学や認知科学の本は読みますが、心理学から少し遠ざかったので、こういう入門書で最近の心理学を概観しようという心積もりでした。ですが、読んでみると、心理学って・・・『純粋に心理学的な問題=非科学』だと再認識させられました。

人間がブラックボックスであること、そして、個体の一回性を前提とした医学と、再現性を基礎とする普遍の科学との違いです。どちらが上と言うことはありません。人間の個体性=一回性を前提とするからこそ、実際の治療ができるのです。ですが、この本で気になるのは、一回性を前提とした非科学であるにも拘らず、普遍性があるかのような錯覚をしていることです。(この本の著者の中にも存在する)臨床経験が無い、人間と向き合っていない学者は、実用の学である『心理学』の本来の姿を見失っているようです。


「脳は心ではない。脳が働くことによって、心が作られる」。「心とは脳の働きである。ところが、脳の座はハッキリしない」。生禿的に言えば、心は身体の一部ではありません。心とは妄想であり実在しません。それは、生きている実体=身体とは何の関係も無い、自意識が作り出した妄想です。勿論、自意識は身体の機能の一つではあるのですが。

身体は、『行動の可能性』=機能という理解のし方が成立します。機能は、実在はしませんが、一定の普遍性を持ちます。心理は、『行動の理解(意図の解釈)』によって生じます。心理に普遍性はありません。

「ヒポクラテスは心の座が脳にあるとした」。「アリストテレスの心身一元論も、心は体の機能であって実体は無い」。一方、「プラトンは心身二元論を唱え、デカルトが復活させた。霊魂は不死不滅で輪廻転生説が見られる」。「デカルトらによる合理主義は、知識への到達は理性の働きにより、演繹推理によってなされるという考え方が広がっていった」。プラトン〜デカルトの理解の異常さは、このブログで何度も指摘してきたところです。

人間は『行動の主体として全てを意識できる』という、世の中で最も邪悪なオカルト宗教=『合理主義』。「吾思う故に我在り」という日本人なら小学生でも気づくこれ以上無い出鱈目が西洋の『哲学』だとすれば、東洋の常識で言えば『西洋に論理も哲学も存在しない』と断定できます。勿論、西洋合理主義と言うオカルト宗教は、『西洋科学の進歩』をもたらしました。それをどう評価するかは、歴史上の課題であり、ここで論じるべきものではないでしょう。

「新フロイト派の精神分析学は、アメリカの精神医学、心理学、文化人類学などに多大な影響を与えた」。そして、「現代心理学は行動の科学である」「意識も含めた心的活動全般に渡る広い意味の行動が研究の対象となっている」と、アメリカの心理学の流れを簡潔に要約しています。

フロイトの無意識は、「個人の隠された願望や思い出したくない過去の経験が集積して出来上がっていく」「普段は意識されない人間の精神活動のことで、何らかの理由で認めがたい自分の欲求や願望、感情が抑圧された結果、無意識の下に閉じ込められる」というもの。本来なら『潜在化した意識』と呼ぶべきもので、「無意識」とか『前意識』『無自覚』とかとは全く異なる次元のものです。生禿が『無意識』という言葉を使わないのは、誤解を避けるためです。

殆どの社会や心理に関する検査や調査の妥当性(科学性)はありません。「女性週刊誌に掲載された性格診断テストを女子大生にやってもらい、その結果が当たっているかかどうかを調査した。すると、85%の人が「納得できる」と回答した。次に、別の女子大生に、選択肢を入れ替えて出鱈目なテストを作成し、自己診断してもらったところ、83%の人が「納得できる」と答えた。テストの内容と診断を全く出鱈目にしても、的中率はほとんど同じということである」。この傾向は、心理テストだけでなく、社会〜心理の検査や調査にも当て嵌まります。逆に言えば、85%以上の信頼性?で『占いは当る』のです。そして、自己都合による妄想も。

「なぜ人間は行動するのであろうか。この「なぜ」に答えるものが「動機づけ」である」。「身体生理反応を伴う感情」を情動と呼び、「情動は、動機づけと関係づけられて記述されることが多い」。

科学の事実としては、人間は、泣くから悲しいと気づくのです(西洋合理主義者の出鱈目な妄想では、悲しいから泣く、のですが)。「異なった自律神経系の働きが異なった情動へと結びつく。心拍数は怒り、恐れ、悲しみなどの負の感情に結びつき、皮膚温の増加では、怒りが最も高く、恐れ、悲しみとは区別できた」そうです。どのような身体反応≒情動が、どのような感情に結びつくのかは未だ分っていません。

意識される知覚は、注意を向け、選択されたものです。『カクテルパーティ効果』を引き合いに出すまでも無く、選択知覚以外は、意識では決して知覚されることはありません。また、注意は移動します。「注意の移動は眼球の動きから知ることができる」。前注意を含めて『何を見ているのか』を検出ことはできませんが、『何を意識的に見ている(振りをしている)か』は、アイカメラで検出できます。

知覚されたものは『実在しないもの』です。例えば、視覚。「ものは輪郭線を持ち「形」が成立する」。輪郭は実在しませんが、人間は輪郭無しに物を認識することはできません。聴覚の旋律も同様です。これらを知覚の体制化と言います。人間が知覚するものは、脳の中で作られたものであって、実在するものではありません。

「経験がどのように蓄えられるかは明確にされていない」が、記憶の過程として、認知科学では「[記憶(符号化)-保持(貯蔵)-再生(検索)]という情報処理を想定する」のです。また、「長期記憶の情報は、内容が変容する」。「知覚の体制化に似た傾向で変容する」とも言われています。

自意識は「自分に対する自己評価」であり、「統合的で安定した自己のイメージを確立する」必要があります。一方で、「性格の中心部分は、感情的特異性の基礎となる気質であり、先天的に決定される部分が多い」。

心理学の本義は、前述したように臨床にあります。

本書では、アメリカの心理学の発展を以下のように要約しています。「第二次世界大戦終了時に兵役を解かれた人々の中には、情緒障害の著しい者がいた。彼等には復員軍人局の援助活動を受ける資格が与えられた」。「経験を積んだ臨床家に対する試験と資格認定のシステムが確立された」。「この制度の改変によって、大学での教育、心理学クリニック、個人や集団を相手とする個人開業、臨床研究部門などにおける役割が新しく与えられ、地域精神衛生センターなどの地域の諸機関が職場として登場してきた」。

心理面接は、「暖かい受容的な雰囲気で安心感を与える」「本人に自由に話をさせて、そこから問題点を把握する」ものです。また、「不明確な点や表現しにくそうなところを、質問という形で確かめたり言い替えたりすることもある」。そして、「治療者がクライエントの話に耳を傾けていると、その態度に変化が見られる」。

投影法は、「被験者の内省力を必要としない」が「解釈には検査者の能力に依存する」検査方です。一般的に言えば、心理検査は、定型化による熟練により、より多くの気づきを得ることができます。

心理療法は、「本人自身が解決を見出していく可能性を治療者は確信し、その道を共に歩もうとする」ものです。「治療者がクライエントに耳を傾けるのは、クライエントの内面から生じてくるものをそのまま受容しているのである」。また、「症状は、その個人の意識とこれを改変しようとする心の内部の働きとの妥協の産物である」とすれば、「心的外傷体験に伴った感情の表出(カタルシス)が治療を促進する」ことになります。「フロイトは、抑圧されているものを自我の支配下に適切に取り戻すことによって治療が行われるとした」。最終的に「寝椅子を用いた『自由連想法』にたどりつく」ことになります。

「障害者は異常者であるという偏見による」二次障害が発生します。「二次障害を招かないためのケアが重要」です。その通りです。

非行については、「成人が法に反する行為をした場合に犯罪と言い、未成年者が同様の行為をした場合に非行と言う」。

躁鬱病(気分障害)は、「国際分類では「感情障害」と名称が変更された」。

40歳以降の成人期後期は、「自分の限界が見えてくる時期」です。そして「終身雇用や年功序列が崩れ安定した時期ではなくなっている」「子供の巣立ちなどによる空虚感」などもあり、精神の安定した時期では無くなっています。そして、「人生後半の心の持ちようは個人差が大きい」ことが指摘されます。

=クライエントを自己理解(洞察)に導く方法=
・直面化
 クライエントが気づいていない欲求や態度に関して注意を喚起して気づかせる
・明確化
 クライエントの発言の中で曖昧な点を質問することによって、クライエントの表現できなかった感情などを明確にしていく
 クライエントが言語化できていないものをカウンセラーが言語表現して見せる
・解釈(無意識の意識化)
 自由連想や夢の報告などの解釈(意味)をクライエントに伝える
 解釈無しにクライエントが自分で気づくのが最良である

「ロジャースは現象学的世界(その人が認知している世界)こそが実在である。そして、自己概念がその人の行動を変える、と考えた」。「一度形成された自己概念は保守し続けようとする。守り続けるためには、歪曲や否認といった自己防衛の形を取ることもある。形成された自己概念と経験との不一致(不適応)を解消する」。「感情と行動が一致している人は、適応的である」。

「精神分析では無意識の世界を重視するが、クライエント中心療法は意識の世界を取り扱うカウンセリングである」。「精神病レベルへの適用は困難な場合が多い」。

この本の最後の一文は、この著者たちが『真っ当な学徒』であることを示していて、ホッとします。「なまじのカウンセリングよりも先生の一喝で変われた子供もいるし、占いで悩みが吹き飛ぶ人もいる。科学的で無いと言ってそのような方法を否定するのは本末転倒である。カウンセリングよりももっと良い方法がある場合には、ためらわずそちらを優先すべきである」。この臨床者=実用者としての態度は嬉しいですね。