「仏教は宇宙をどう見たか」 佐々木閑 2021年 DOJIN文庫
女房が貸してくれた本。私の関心のど真ん中です。流石に女房です。ありがとう !(^^)! 量子論の研究者の一部がシッダールタの教えをパクっているかも知れない?って思わせる本です。 以下はこの本の要約と引用です。
《まえがき》
釈迦の没後、仏教の教えは分岐し、一本化された体系が必要とされた。現在残っているアビダルマは、スリランカを起点とするパーリ仏教と、カシミール(ガンダーラ)の説一切有部。日本に影響を与えたのはガンダーラから伝来した説一切有部のアビダルマ(倶舎論)である。倶舎論を書いたのは世親。その中の一冊が「アビダルマコーシャ」。
《1. 仏教の物質論》
物質と精神の連合体、そしてエネルギーが物質世界(有為)を構成している。有為の全ては極微(素粒子)でできている。
物体の容れ物としての「虚空」=真空は、一切の作用に関わらない(無為)。
《2. 仏教が捉える内的世界》
倶舎論では、認識機能を瞬間型(刹那)で捉えている。
・まとめ
倶舎論では、物質世界(色法)を「認識する法」と「認識される法」に分ける。語根と五境である。生体内部の心・心所と五根が「精神」としての働きをする。私という実態はどこにも存在しない(無我)。諸要素の集合体としてのみ機能している。
《3. 仏教の時間論》
私という存在は、刹那ごとの生滅を繰り返す要素の集合体である。諸行無常は、単位時間ごとの量子論と通底する生滅現象である。刹那滅は、有為法だけにあてはまる。物質も心所も刹那に消滅する。
現在の法も実在しているのと同様に、未来の法も過去の法も実在している。当時のインドでは、認識できるものは実在する、と考えられていた。現在行っている業が、未来の法に信号を送り、因果則が成立する(縁起)。因果則を伝達する何かがある。
過去・未来・現在の一切は実在している(三世実有説)。未来には、現在に移行する可能性のある法と、非択滅の法が無限に存在している。現在へと移行する可能性を持った法が、現在に移動する。
有為法は未来から現在へ流れてきて、一刹那だけ姿を現して作用し、過去へ落謝していく。動画のコマと同じく、静止したコマが現れる不連続な現象である。未来の法には順序は存在しない。未来のコマはランダムに存在する。その中の一コマが選ばれて現在に現れる。一刹那前(正生位)のコマだけは決定されている。
倶舎論では、「時間」という実体を想定していない。時間は実体のない仮設(計測概念)である。
量子論の入門書では、物質を波とか粒とかに喩えて語るが、実際には波でも粒でもない。だが、倶舎論の時間論と映写機は即応している。一コマ一コマが全宇宙である。ここ有情も無数の要素の集合体だ。一コマの中に全てが納まっており、このコマが刹那ごとに更新されていく。
業は倫理の因果法則である。その根源が「思」である。現在の行いによって、未来のコマに予約マークがつく。業の因果は、一回ごとに完結する。連鎖関係にはない。
「思」を善悪にする要因が「煩悩」。煩悩を消せば、思が業を作らなくなり、業がなくなれば輪廻が止まる。
経部(学派)に属する世親は、三世実有説を認めていない。あるのは現在だけ。しかし、そうすると因果則が説明できなくなってしまう。仏教が「我」を実体と考えれば解決する。我が因果則の伝達者となるのである。しかし、釈迦が「無我」を主張する。世親は、刹那の要素は何らかの影響力を残存させ、それが次の刹那の諸要素を創成する、と考える(相続転変差別)。この過程の連続が時間の流れになる。未来や過去の実在を想定しなくても済む。
倶舎論とカオス理論は似ている。無限の影響の応酬の結果として一つの姿を取る。それは予測不可能である。
《4. 仏教のエネルギー概念》
心不相応行法は、法(物質)でもなく心・心所でもない、一種のエネルギーである。その内容はバラバラでまとまっていない。
法が全体を形成しているのは、正の結合エネルギー(得)を持っているからである。分離するのは非得があるからである。いかなる法とも相互作用しない無為法は、離得に仲立ちされる。生物に付随する力は、衆同分。
仏教の神=天は、生物の一種。
倶舎論は、単一世界説だが、微妙に複数(平行)世界説も入り込んでいる。
インド思想の底流には「瞑想」という活動がある。乱れた心は、集中していない、「散心」である。瞑想も心不相応行法に入っている。
[生→住→異→滅]は、現在から未来へと移り変わっていく原動力。有為法のコマを進めるエネルギーである。
《5. 総合的に見た因果の法則》
六因・五果・四縁は、この世を動かす=時間を生み出す要因である。倫理を含まない因果もある。
真空は中立である。互いに支え合う「同時」の因果は、[生→住→異→滅]とセットになる。
原因と結果は時間的に乖離している。原因と結果の間に類似性は無い。善悪観に基づかない「無気」の因果がある。
《終 分類によって変わる世界の見方》
五位七十五法以外にも、五蘊十二処十八界などの分類法がある。
《附論 仏教における精神と物質をめぐる誤解》
超越者の存在を認めず、法則性だけで世界を理解しようとする仏教の立場は、現代科学に通じるものがある。
仏教は肉体と魂を別個の存在とは考えない。従って、心・心所だけを指して精神とは呼べない。
《あとがき》
挫折と劣等感を抱えながら真剣に生きる、世の中の多くの人たちにこの本を捧げます。