「純粋理性批判」 イマヌエル・カント著/熊野純彦訳 2012年 作品社

 「理性の奴隷」から「獣知」に生きる「真っ当な」「生き物」へ。高校生の時に岩波文庫で読みましたが、新訳で読み直しました。この本は第一版と第二版を比較検討しながら読み進めるようになっています。研究資料にような体裁。ということは、この本はもはや「資料」としての価値しかないのか?「今の価値」は無いのか?ん〜〜!訳者は哲学者なので、「理性の奴隷」。生涯で一度も「考える」ことのない人間ですから、こういうことしかできないの?それでは、カントの「もがき」を伝えることはできないのではないか? 以下はこの本の要約と引用です。*は私の解説と、WEB検索結果です。尚、「ア・プリオリ」は「先験の」、「カテゴリー」は「範疇」としました。

純粋理性批判

■ 第一版 序文

 理性は確かにどこかその根底に隠された誤りがあるに違いないが、理性がその誤りを発見することはできない。

■ 序論

 私たちはある種の先験のな認識を所有し、通常の悟性ですら断じてそれを欠いてはいない。先験の総合判断はどのようにして可能か?

*純粋理性とは
 経験に頼らず、私たちが生まれながらにして持っている純粋な思考能力のこと。
 純粋理性は、五感を通して得られる経験的な情報とは無関係に、私たちの心の中にすでに備わっている「経験に先立つ理性」。純粋理性には限界があります。世界の始まりといった、経験によって検証できないような問いに対しては答えを出すことはできません。

■■ 超越論的原理論 ■■

■ 超越論的感性論

 どのようなし方で、またいかなる手段を通じて、認識が対象に関係するにしても、認識がそれを通して対象に直接に関係し、さらには全ての思考が手段として求めるものは「直観」である。

*「超越」の意味
 カントは、科学と哲学を統合しようとし、「超越」という概念を通じて、両者の関係を再考しました。
1. 経験を超えるもの
 物自体: 私たちの感覚によって直接把握できる「現象」とは異なり、その背後にある、人間の認識能力を超えた存在を指します。
2. 先験なもの
 経験に先立つ: 経験を通して獲得される知識ではなく、生まれながらにして持っている、純粋な理性によって把握される概念や原理を指します。
 時間、空間、因果律など: これらは、個々の経験に依存することなく、すべての経験の基礎となる、先験的な形式です。
3. 認識の限界
 人間の認識能力の限界: 人間の理性は、すべての存在を完全に把握することはできないという認識の限界を示します。
 物自体への直接のアクセス: 人間は、現象を通してしか世界を認識できないため、物自体に直接到達することはできないという限界があります。

・空間について

 空間は先験の必然の表象であって、一切の外的直観の根底に存している。空間についての表象は先験の直観であって概念ではない。同時に、空間の超越論的な観念性を主張する。

*「空間」という感覚は、我々動物に備わっている感覚。だから、先験のもの。従って、空間なくしてこの世界を認識することができない、ということです。

 私たちが外的対象と名付けるものは、自分の感性のたんなる表象にすぎない。その感性の型式が空間なのである。

・時間について

 時間は、何らかの経験から描き出された経験的概念ではない。時間は必然的表象であって、一切の直観の根底に存している。現象一般に関して、時間そのものを廃棄することができない。

 時間はただ一つの次元を有する。相異なる時刻は同時的にではなく、継起的に存在する。

 時間とは内管の形式、即ち私たち自身と私たちの内的状態を直観する形式に他ならない。

*時間も我々に備わった感覚=先見のものであり、認識のあり方を定めている。

 あらゆる外的現象は空間中にあって、空間の諸関係に従って、先験に規定されている。時間と空間は両者があいまって、一切の感性的直観の純粋形式であり、そのことで先験の総合的命題を可能とする。

■ 超越論的論理学

 認識の真理をめぐっては、その資料の面からはいかなる普遍の標識も要求されることができない。それは自己矛盾だからである。

 統覚は直観において与えられた多様なものに対して、一貫した同一性を示すけれども、統覚のその同一性は諸表象総合を含んでおり、この総合の意識によってのみ可能である。様々な表象に伴う経験的意識は、それ自体としては分散しており、主観の同一性への関係を欠いているからである。

 悟性とは自身先験に結合し、与えられた表象という多様なものを、統覚の統一の下にもたらす能力以上のものではない。

 私たちの悟性はただ範疇を介してのみ、しかもまたこの種類と数だけの範疇を通じてだけ、統覚の先験な統一を成立させる。

 範疇は自然から取り出されたものではないにもかかわらず、それが自然における多様なものの結合を先験に規定することができる。

 いっさいの可能な知覚は覚知の総合に依存し、覚知そのもの、つまりこの経験的な総合はさらに超越論的総合に、従ってまた範疇に依存している。

 対象の感性的概念が範疇と一致したものものなのである。感性は悟性を制限しながら同時に悟性を現実化するのである。

*範疇(カテゴリー)
 カントは、人間が世界を認識する際に、生まれながらにして持っている純粋な理性の働きによって、感覚的な情報を整理し、意味のあるものとして把握するための「枠組み」のようなものをカテゴリーと呼びました。
 私たちの感覚器官が受け取る情報は、まだ無秩序な状態であると考えました。カテゴリーは、この無秩序な情報を整理し、量、質、関係、といった、ある種の「枠組み」に当てはめることで、意味のある知覚へと変える働きをします。カテゴリーは、経験に先立って存在する、純粋な理性の概念であり、個々の経験から得られるものではありません。

■ 超越論的弁証論

 あらゆる変化は、原因と結果を結合する法則に従って生起する。

*カントの因果律
 カントは、すべての事象には必ず原因があるという因果律が成り立っていると考えました。これは、私たちの認識の仕方に内在する先験な法則だと主張しました。因果律は経験から得られる知識ではなく、経験に先立って私たちの認識に備わっている先天的な概念であるとしました。つまり、因果律は、私たちが経験する世界を理解するために不可欠な「メガネ」のようなものであり、経験そのものを可能にするための前提条件だと考えたのです。但し、現象界を超えた「物自体」については、因果律が適用できるかどうかは不明です。
 私たちは、世界を因果関係の連鎖として捉えることで、複雑な現象を理解し、予測することが可能になります。

*物理学において因果律は、ABが同じ場所で生起し、事象AがBに必ず先行するとき、[A→B]の因果律が成立する、という順序関係を述べたものにすぎない。そこに俗語で言う「因果」は存在しない。そして、この現実宇宙に上記のような物理としての因果は実在しない。理論は因果律を前提としているが、しれはあくまでも理論、現実がそうだと述べている訳ではない。だが、そうしないと様々な現象が説明できないというだけである。

 私たちはどのような方法によってであれ、「魂」の性状をめぐってはおよそ何事も認識することができない。

 宇宙論の論争を巡って … 客観がなんであるかを語り得るものではなく、客観の完全な概念に到達するためには、経験的背進がどのようになされなければならないかについて語ることができるだけである、という事情である。

*カントの背進
 カントの言う「背進」とは、ある事象の原因を遡っていく際に、その原因が無限に続いていくという状態を指します。永遠に終わりのない連鎖が続きます。
 全ての事象に必ず原因があり、その原因を無限に遡ることができるとすれば、私たちは宇宙の始まりや、世界の根源的な原因を永遠に見つけることができないことになります。
 カントは、この無限の背進の問題を、アンチノミー(二律背反)「宇宙は、時間においても空間においても、ある限られた境界を持つのか、それとも無限に広がっているのか」と関連付けています。宇宙が有限であると仮定した場合、宇宙の始まりを問うことができ、無限の背進の問題が生じます。宇宙が無限であると仮定した場合、宇宙の全体像を把握することができず、私たちの理性は無限の広がりの中で迷子になってしまいます。どちらの立場を取っても、私たちの理性は矛盾に陥ってしまいます。
 カントは、このアンチノミーを解決するために、私たちの理性には、現象界(私たちが経験する世界)と物自体(現象の根源)という二つの領域があるという考え方を提示しました。
 現象界では、私たちの経験は、時間と空間という枠組みの中で起こり、因果律が支配しています。そのため、現象界においては、無限の背進の問題は避けられません。
 現象の根源である物自体(現在ではエネルギーと解釈される)については、私たちの理性は直接に把握することができません。そのため、無限の背進の問題も、物自体には適用されないと考えられます。

 最高存在者(神)の客観的実在性は思弁によって証明することはできないが、また反駁もされ得ない。

 あらゆる理性は、可能な経験の領域を超えることはできない。自然の限界の外部には、私たちにとっては空虚な空間以外には何ものも存在しない。

■■ 超越論的方法論 ■■

 私の無知を意識することは、私の探求を終わらせるべきものであるというよりも、私の探求を呼び起こす本来の原因である。

*カントの時代
 「啓蒙時代」は、理性や科学を重視しました。カントは、経験的な知識と理性的な知識の限界を論じ、道徳の原理として「定言命法」を提唱しました。

*カントの「定言命法」
 人間の行為において普遍的な道徳法則を示す原理。「もし〜したいなら、〜すべきである」という条件付きのものは、目的に基づいて行動が規定されます。条件を伴わなわず「あなたは〜すべきである」は、目的や状況に依存せず、常に全ての人に当てはまる道徳的義務です。カントは、道徳的行動が普遍的に正しいかどうかを判断するための基準としてこの定言命法を提示しました。
 「あなたが行おうとする行為が、全ての人が同様に行うべき普遍的な法則として成り立つように行動せよ」。例えば、嘘をつく行為が許されるとしたら、全ての人が嘘をつくことが普遍的なルールになり、社会の信頼が崩壊してしまいます。そのため、嘘をつくことは道徳的に許されません。
 「他人や自分を、単なる手段としてではなく、常に同時に目的として扱え」。他人を搾取したり、利用するだけの関係は道徳的に誤りであり、他者の自由や尊厳を尊重する行動が求められます。
 カントの定言命法は、結果や利害関係に依存しない義務論的倫理学の基礎となり、「正しい行為をする理由は、それが道徳的に正しいからである」という厳格な道徳観を示しています。